あなたのお城の小人さん ~御飯ください、働きますっ~

美袋和仁

第1話 ☆厨房の小人さん☆


 地下のジメジメした一室に、その子はいた。


 床に倒れ込み、身体を丸め、渇いた音を立てて指をしゃぶっている。


 周囲は暗く、まだ二歳か三歳の幼子は汚れた石畳に直に頬をつけ、手足も顔も埃まみれで薄汚れていた。

 疲れたかのようにうつろな眼差しから光が薄れ、子供は重く閉じていく意識の中でポツリと呟く。


「......おなか.....すいた」


『え?』


「........」


『は? え? ちょ、まっ、待って!』


 子供ではない何かが慌てている。いや、誰かだろうか。


 暗くよどんだふちに沈んでいく幼子の意識を引き止めようと、その誰かは必死に呼び掛けていた。


 そして次の瞬間、その誰かの意識が、急浮上する。


「ーーーーーーーっっ!!」


 薄暗い闇の中の中で、は眼を覚ました。


「かはっ、....うぇ、なに、ここ」


 そこは貧相な埃っぽい部屋の中。床は薄汚く、どうやら自分は、ここに倒れていたらしい。

 粗末な寝台しかない狭い部屋の中で、彼女は大きく深呼吸する。


 肩まである金髪は汚れてくすみ、まるで乾いた藁のようで、薄いミルクティー色の瞳も生気を失い濁っていた。


 一見して普通ではない状態。いや、悲惨極まりない状態だ。ただ事ではない。

 彼女は己の中に残る、微かな記憶を何度も反芻はんすうする。そして今の現状を把握した。


 落ち着いてきた。ここは城の片隅の空き部屋だ。


 自分は相模千尋さがみちひろ。現代日本で独身貴族をきどるアラサーだった。

 仕事の帰り道に交通事故に遇ったまでは記憶にある。


 って事は、私、生まれ変わった?


 欠片ほどしかない、この子の記憶の断片を繋ぎ合わせてみると、どうやら何かが起きてここに放置されたらしい。


「どこぞのラノベかよ。しかも衰弱死しかかってるって...... 転生特典とかないんかいっ!」


 彼女は小さな自分の手を見る。

 二歳か三歳か。何でこんなところに放置されたのか。


 夢現のように断片的な記憶を寄せ集めて、ようやく理解した。


「あ~~。第八王女か。死に損ないな」


 新生児からの記憶からすると、虚弱な王女だったらしい。

 二年ほど乳母が育ててくれたが、まともに歩く事も出来ず、臼ぼんやりとした子供だったようだ。


 両親に見限られたのか、メイドの手によって、ここに放置された。


 それからどれ程たったのだろう。

 餓えて渇いて死ぬ間際な瞬間、前世の記憶が甦った。


 いや、元々この子の中で眠っていただけかも知れない。たゆとうような意識の中、お腹を空かせた子供を励ましていた気がする。

 目覚める前の記憶は朧気だ。


「この子、死んじゃったのかなぁ」


 こうして記憶が戻ったのは、この子の魂が死んでしまったからかも。

 それとも死にたくない本能が私を目覚めさせたのか。理由は分からない。


 だが、これだけは断言出来る。


 .......死んでたまるかっ!!


 渇いてパリパリな唇を噛み締め、油断すると朦朧となる意識を繋ぎとめながら、千尋は今の自分を救うべく動き出す。


 空腹を通り越して痛みに呻く身体を引き摺り、彼女は這うようにドアへたどり着いた。

 体力は、ほぼ空に近い。動けたのが奇跡に思える。

 扉に張り付きノブを下げると、カチャっと音をたててドアが開く。ぱあっと千尋の眼が輝いた。


「施錠はされてないな。よし」


 歩く事もままならない身体を駆使して、ズルズルと彼女は這い出し、しげしげと辺りを見渡した。

 堅牢な石造りの廊下。地下の作業場的な感じだ。

 左には階段と観音開きの扉。扉は片方が開いており、外が見える。

 

 外に出ても仕方無いよね。


 千尋は右の廊下へと指針をとり、匍匐前進のように、ズリズリと這いだした。


 そしてしばらく行った先の部屋に井戸を見つけ、彼女はおけに溜まっていた水に顔を突っ込んだ。

 ガブガブ水を飲み、渇き切っていた喉を潤して、ようやく一心地つく。

 身体に染み渡る水分が自覚出来るほど、この幼子は渇いていた。


 これは....... 本当にヤバい状態だったんだな。


 安堵した千尋は、ついでとばかりに汚れた手足を洗う。するとみるみる桶の水が濁っていった。

 澱み凪いだ水面に映る自分の顔。どう見ても、まだ手足すら伸びきっていない、あどけない幼児だ。


 ないわー。せめて小学生くらいでないと、死亡フラグが乱立するじゃん。神様、酷すぎない?


 うんざりとした表情を浮かべ、彼女は近くにあった洗い物らしい籠の洗濯物で手足を拭きながら、ふと周囲を見渡す。


「ここは.....洗濯場かな?」


 水分が補給されたせいか、虚ろだった意識が急速に回復した。

 千尋の思考が理知的に回りだす。


 井戸の周りには複数のたらい。中には浸け置きした洗濯物もあった。

 棚には綺麗に畳まれたシーツや毛布もあり、リネン室も兼ねているようだ。


 ただ一瞥して解るのは、千尋の存在していた場所とは、かけ離れた文明であること。

 井戸に盥の洗濯場など、現代の先進国では滅多に御目にかかれない。


 背筋に冷たいモノが走り、千尋は、ぶるりと身体を震わせた。


 何もかも分からない未知の世界だ。ここは一体どこなのか。地球世界か、異世界か。はたまた、どこか別の場所か。


 ただ記憶の片隅に、王冠を着けた両親と槍を持った兵士らの姿がある。現代社会では有り得ない光景だ。

 赤子の記憶なので、あまりハッキリとはわからない。やけに曖昧として朧気ではある。


「異世界かなぁ。開幕、幼児でサバイバルとか、勘弁してほしいんだけど」


 しかもギリギリ幼児だ。離乳したばかりの。

 施錠もせずに閉じ込めたって事は、ほんとに弱った子供だったんだろうな。開けられるとは夢にも思ってなかったって訳だし。

 国王夫妻が両親なのに、城の片隅に捨てられるとか。まあ第八王女じゃ仕方無いか。

 他に健常な王女が七人もいるのだ。二歳になっても歩けもしない虚弱な王女などゴミも同然、育てるだけ無駄だと思われたのだろう。


 千尋のまなじりに涙が浮かんだ。しかし彼女は顔を上向け、それが零れるのを堪える。


「取り敢えず食べ物だ。何か良い匂いするし」


 先程から微かに漂う食べ物の香り。餓死寸前の空きっ腹には堪えるわ。


 涙をくしくしと擦ると、幼児な彼女は、再びズリズリ石畳の廊下を這いずっていった。

 限り無く腹這いに近い状態で、千尋は進む。




「遠い....」


 息を切らせ這いずる事、十数分。彼女は人の気配がする場所へたどり着いていた。

 せっかく洗った顔や手足は、再び埃まみれである。

 それを気にもせず、千尋は廊下の曲がり角から明かりのもれる廊下を覗き込んだ。


 どうやら、そこは厨房のようで、時折忙しそうに人が出入りしている。

 そっと影からうかがいながら、どうしたものかと千尋は思案した。


 自分は捨て去られた訳で、確かあの部屋へこの子を、閉じ込めたのはメイド姿な女だった。

 目の前を行き交うのは似たような制服のメイド達。


 これって見つかったらヤバくね? あの部屋に戻されて、今度は鍵をかけられるかもしれない。

 そんな事になったら、即アウトだ。バッドエンドまっしぐら。


 しばし考え、千尋は近くの大きな棚の下へ行き、床にペッタリと張り付きながらゴソゴソと潜り込んだ。

 ここなら見つからないだろう。人がいなくなるまで待って、こっそり食べ物を頂こう。


 這いずり回って疲れきった身体に、ひんやりとした石畳の冷たさが心地好い。

 そんな益体もないことを考える彼女の鼻腔を、ただひたすら擽る美味しそうな匂い。

 飢えすぎて軋んだ身体が食べ物を思い出したようで、しきりにキュルキュルと空腹を訴えだした。


 こんな遠くの匂いに反応してたのか。餓えって怖いな。


 さきほど頭から浴びた水が、髪を伝って頬っぺの下に水溜まりを作る。それに混じる小さな涙。


 お腹空いた.... ひもじいよ


 あまりに虚しく切なく、千尋はポロポロと零れる涙を止められなかった。


 何で生まれてきたのだろう。こんな悲惨な目に遭うなら、いっそ一思いに殺してくれたら良かったのに。


 自分の手を汚したくなかったってか?


 訳も分からず、哀しい気持ちで最後を迎えただろう幼子の心境を思うと、涙が煮えたぎってくる。


 絶対死なない。生き延びてやるんだ。


 そして無力な幼子を死なそうと捨てた奴等に天罰をくれてやる。


 そんな事を考えながら、疲れ果てていた彼女は、襲いくる睡魔に負けて、うとうとと眠りについた。




「ほにゃ?」


 何かしら冷たい物を感じ、千尋は眼を開ける。

 するとそこは明るく、彼女は暖かい毛布に包まれ長椅子の上に寝かされていた。

 思わず指が毛布を掴み、その感触を確認する。

 柔らかい毛布は、彼女を暖めるかのように緩やかに巻かれていた。


「へ?」


 自分は確か、冷たい床に張り付いていたはずである。今の状況が理解出来ない。

 しきりに眼をパチクリさせている千尋に、上の方から陽気な声がかった。


「おう、眼が覚めたか?」


 白いコックコートを着た男性が、にかっと破顔はがんして彼女を見ている。

 慌てて身体を起こそうと千尋が身動ぎすると、額からポトリと何かが落ちた。

 視線を振ると、それは程好く濡らした手拭い。


 さっき感じた冷たいモノは、これか。


 その手拭いを拾い上げ、黒っぽい瞳の男性は、彼女の顔を拭う。

 みるみる手拭いが真っ茶色に変わっていった。


「こんなに汚れて。どこの子だ? 城の中に入ったらダメだと父ちゃんか母ちゃんに言われなかったか?」


 城には多くの使用人が家族と共に住み込んでいる。どうやら、そこらの子供だろうと男性は思ったらしい。

 無言で見つめる幼子に呆れたような溜め息をつき、彼はスープとパンを出してくれた。

 思わず固唾を呑み、千尋の眼が真ん丸に見開く。


「昨夜のまかないの残りだ。食っていけ」


 湯気をたてるスープに柔らかそうなパン。


 質素なそれを見つめ、千尋の眼から再び涙が零れた。


「おいおい、どうした?」


 ほたほたと泣き出した子供に慌てる男性を無視して、千尋はスープをすすりパンを噛る。

 上手く口に含めず、端からこぼしながらも、彼女は嗚咽をあげ必死に食べ続けた。

 離乳食から幼児食へ移行中の年齢な上、極度に餓えて弱った胃袋が、食べる事を拒絶する。

 反射的に上がる嘔吐感をむりやり押さえ込み、千尋は少しずつスープを飲み込んでいった。


 死にたくない、死にたくない、食べるんだ。


悲壮な面持ちで、幼女はスープをすすり続けた。


「....おいひぃれす」


 えぐえぐと泣きながら食べ続ける幼子に絶句しつつ、男性は垂れている鼻水を拭いてやり、切無げに苦笑する。


「美味いか?」


「んまぃ」


 男性に見守られ、千尋は今世初の食事にありついた。


 それはこの世の物とは思えぬほど美味しい食事だった。




「名前は?」


「千尋」


「チィヒーロ?」


「ちなう、千尋」


「チィヒーロ」


「.....も、それで良い」


 目の前の男性は、肩まである赤茶色の巻き毛をピンピンあちこちに跳ねさせた不思議な髪型で、万有引力が仕事をしていない。


 そして流石は料理人。細身なのに力がありそうだった。


 彼の名前はアドリス。厨房の見習いで下拵えのため朝イチにやってきたらしい。

 それで棚の下からはみ出した千尋の足を見つけ、隠れていた彼女を引きずり出し、毛布でミノムシにして保護したのだという。


「ちっせぇ足が出てるんだもんよ。驚いたわ」


 ケラケラ笑いながら、アドリスは手提げの籠を千尋に渡す。

 幼子に抱えられるサイズのそれには、薄く切った野菜の挟まったパンが入っていた。 

 サンドイッチみたいだが、彼女の知る日本の物とは違い、中身が薄くて少ない。


「キューカンバーサンドだ。持っていけ。籠は父ちゃんか母ちゃんに渡してくれれば良い」


 ほけっと見上げる千尋の頭をポンポンと叩き、彼は仕事に戻って行った。鼻歌混じりに。


 .......神様じゃなかろうか。


 渡された籠を大切に抱き締め、千尋は深々とおじぎする。


「ありがとぉ」


 微かな声を耳にして、アドリスが振り返ると、そこに幼子の姿はなかった。






 千尋は籠を抱えてご機嫌だ。


「食べ物だ。大事に食べよう」


 そしてふと、この先どうするか考える。


 あの部屋に戻りたくはないが、他に何処か寝られそうな場所はあるだろうか。

 ポテポテ歩くうちに彼女は自分の足が笑い出している事にも気がついた。

 記憶の中ではつたい歩きしか出来なかった幼子だ。

 千尋が歩き方を知っているから、無意識に歩いてはいるが、ここ暫くの衰弱も手伝って、まるで生まれたばかりの小鹿みたいな歩き方になっている。


「ぐぬぬ、どこか落ち着ける場所を探さないと.....」


 程よく空いていた階段と壁の隙間に座り込み、千尋は深い溜め息をついた。


 そろそろ外が白んでいる。もう少ししたら城の人々が動き出すだろう。

 どこか身を潜められる場所を探さなくては。


「どうするかなぁ」


 思わず天井を仰いだ彼女は、自分が幼子な事を忘れていた。そのまま頭の重さにひかれ、真後ろにステーンと転がる。


「いったぁぁぁあっ」


 まともに後頭部を強打し、千尋は涙目でもんどり打った。

 すると、コロンと何かの段差に転がる。

 階段の裏は一段低く設定されているようで、その段差に落ちたのだ。


「え?」


 そこは階段裏のデッドスペース。階段は緩やかに湾曲しているため、そこそこな広さがある。


 はっと彼女の頭が閃いた。


 ここならみ家にしても良くね?


 千尋はポテポテと歩き回り、自分が閉じ込められていた付近の階段に眼をつける。

 さっきの階段より幅は狭いが、ここなら滅多に人も来ない。

 同じように壁と階段の隙間に入ると、やはりそこにもデッドスペースが存在した。

 狭いとはいえ、千尋が五人くらい横になっても余裕な広さはある。


 やりぃ、住居問題、解決!!


 喜び勇んで彼女は洗濯場から洗いたてらしいシーツと毛布を数枚拝借した。

 小さな身体で一枚ずつ、せっせと運ぶ。

 汚れたら洗い物に混ぜて、また新しいのを貰えば良い。


 私の事を育児放棄して捨てたんだから、これくらいは慰謝料よね。


 しかし衰弱気味だった上、疲労困憊になった幼子は、棲み家の中に毛布とかを運び終わると、パッタリ倒れ熟睡する。

 御腹が膨れたのもあるのだろう。満たされた身体は無意識に暖かい毛布にくるまり、千尋は幸せそうに寝息をたてた。


 ぐっすり眠りこみ、夜明けから陽が沈み、さらに夜半を越えて、ようやく千尋は眼を覚ます。

 起き上がった彼女は周囲が真っ暗で、思わず眼をしぱたたかせた。


「うっわ..... めっちゃ寝た。これ絶対に一日近く寝たよね」


 でもおかげで疲労は回復した。水分や食事をとったのもあるのだろう。身体がかなり軽い。


 .....幼児だしな。


 そしてふと喉の乾きを覚え、洗濯場の井戸に向かう。しかし、今回は桶に水はなかった。

 さすがに井戸は動かせないだろうなと、彼女はポテポテ厨房に向かう。


 深夜の城に人気はない。


 覗き込んだ厨房も真っ暗だった。しかし暗闇を徘徊していた千尋の眼は、かろうじて物の輪郭や色が朧気に見える。


 慎重な足取りで、彼女は厨房の中に入った。


 中は広く、壁際一面に竈や調理台が並び、少し奥の部屋には複数のテーブルと椅子がある。

 賄い用の部屋なのだろう。けっこうな広さがあった。

 椅子は全てテーブルに逆さまにして乗せてあるが、踏み台のような小さな椅子は部屋の角に寄せてある。

 試しに持ち上げてみて、千尋は安堵に頬を緩めた。

 思ったほどの重さはない。幼児の身体でも運べる重さだ。

 その一つを持ち上げたまま、千尋はヨタヨタと厨房に戻っていく。

 

「洗い場は..... ここか」


 石製の洗い場の横には井戸があった。その横に大きなかめが幾つもならんでいる。


「これかな?」


 踏み台を置いて、その上に乗り、木の板でされた蓋を少しずつずらす。

 ずらした隙間から覗き込んだ瓶の中には、タプンと透き通った水が満たされていた。

 ごくっと喉を鳴らし、千尋はコップを探すと、それに水をつぐ。


 コクコクコクコク。ぷはぁ、美味しい。


 一気に飲んでから、彼女はふとコップを見つめた。


 水差し欲しいな。コップと、小さなお皿も。


 キョロキョロと辺りを見渡し、彼女はテーブルの上にひっくり返された大量の水差しやコップを見つけた。

 賄い用なのか、結構な数がある。大皿、小皿も揃っている。


 少しだけ分けてね。


 水差し一つ、コップ2つ、小皿2つ。どれも木製なので軽いが、この幼い身体には十分重かった。

 何度か往復して、階段裏の棲み家に持ち込み、少し休憩。

 そしてついでに洗濯場を漁り、洗って畳んであったナフキンを発見。こちらも何枚か拝借した。


 ふうふう言いながら、あれこれと運ぶ自分の姿に、なぜかふと既視感を覚える。


 なんだろう? こんなシーン観たことあるな。

 ああ、アレだ、借り暮らしのなんちゃら。

 まさか、自分が実践するはめになるとはねぇ。


 少しずつ物を運び込みながら、口元をひきつらせ、苦笑いする千尋だった。


「これで人並み最低限の生活だな」


 石畳の上に毛布をしき、さらにシーツをひいて素足で寛げるようにする。そして奥から三分の一は寝床。

 横に二回折り畳んだ毛布をシーツでくるんで厚手な場所を作った。

 毛布の端をさらに少し畳んで枕的な形にもする。

 そこに二つに折った毛布をシーツでくるみ、掛け布団。


 身体が小さいから代用が簡単で助かるわ♪


 今が、いつなのか分からないが、夜にはやや寒さを感じる季節のようだ。過ごしやすい時期で幸運だった。


 ままごとのような小さな生活空間。己の境遇に乾いた笑みを浮かべ、ふいに千尋は空腹を覚える。

 食欲を思い出した胃袋は、きゅるるるるーっと盛大に自己主張を始めた。


 うっは。まあ、しょうがないよね。だいぶ食べてなかったようだし。


 情け無さげに眉を寄せて、千尋はアドリスからもらった籠を開けると、中からサンドイッチを取り出した。


 一日近く寝てたんだもんなぁ。腹も減るわな。


 ぱくっとサンドイッチを頬張り、これでもかと咀嚼そしゃくする。この身体は胃腸が弱ってるし、何より赤子に近い幼児だ。普通に食べたら消化不良で苦しみかねない。

 千尋は液状に近くなるまで咀嚼してから、ゆっくりと飲み込んだ。


 それだけであごが痛い。でも食べる。死にたくない。


 子供なんて、ちょっとした事でポックリ亡くなるのだ。用心しすぎで丁度良い。

 懸命に咀嚼しながら、彼女はチラリと籠を見る。

 中身はサンドイッチ三つとくし切りにされたオレンジ三つ。たぶん普通に軽食一食分。

 この身体なら二~三食に分けられるが、心許ない事この上ない。どうしようか。


 そして再び閃いた。


 アドリスから貰おう。何かお手伝いして、御駄賃に御飯くださいって頼んでみよう。


 こうして、若い厨房見習いと、後に小人さんと呼ばれる幼子の交流が始まる。






 千尋は毎日のように朝イチで厨房に顔を出した。

 ちらちらと窺うように厨房へ入ってくる幼女。


「また来たのか」


「ん」


 彼女は籠をアドリスに渡し、床に用意されていた芋の皮剥きを始める。


 食べ物が欲しい。何か手伝わせてくれと言う幼子に、アドリスは野菜の皮剥きを頼んだ。

 ちゃんとした口調の物言いに、しゃんとした態度。見掛けは小さいが四つか五つくらいかなと、アドリスは試しに刃物を持たせてみる。


 現代と違い、千年も昔には、幼児とて当たり前な労働力だった。

 仕事が出来るなら年齢は関係ない。

 親が、周りが、当然のように仕事を与え、なにがしかの御駄賃をもらう。

 こんなのは五十年ほど前の日本でも、日常的な風景だった。

 この世界がどのくらいの文明なのか知らないが、見た感じは地球世界の中世。


 当たって砕けろと、千尋はアドリスに頼み込んだ。


 だから、頼み込まれたアドリスも、快く頷いてくれる。

 幼児に刃物を持たせることにも躊躇はない。

 彼だって似たような幼児期を送ってきたのだろう。


 しかし、大した仕事は与えられないと想像していたアドリスは、良い意味で期待を裏切られた。

 なんと驚いた事に、千尋はするすると危なげも無く、芋の皮を剥き始めたのだ。

 瞠目どうもくしつつも、アドリスは微笑ましそうに口角を上げる。


 即戦力。採用♪


 彼の指示で的確に働く千尋に感心しながら、アドリスは簡単な仕事を彼女に任せ、朝イチの下拵えが手早く終わるようになった。

 くるくると良く働く幼子に、思わず顔がニヨニヨしてしまうアドリスである。


 千尋への御給金は現物支給。食べ物を一杯入れて、千尋の目の前に置かれる籠。


 嬉しそうに籠を受けとる幼子を見つめ、アドリスの顔も綻ぶ。

 昨夜の賄いの残りを食べさせながら、彼は籠の中身を説明した。


「今日のはハムのサンドイッチだ。ゆで卵とリンゴも入ってるから」


 ぱあっと輝く千尋の笑顔に、アドリスの胸がチクリと痛む。


 薄々感じてはいたが。こんなもんで喜ぶなんて。やっぱまともな家じゃないんだな。


 世の中には子供をしいたげこき使う親もいるとアドリスは知っている。


 今思えば棚の下にいたのも親から隠れていたのかもしれない。やつれて薄汚れた姿は哀れだった。思わず食事を出してしまうほどに。


 よちよち歩く後ろ姿を見送り、アドリスは何ともやるせない顔で眉をひそめた。


 実のところ虐待どこの騒ぎではないのだが、流石のアドリスも千尋が軟禁され、飢えと渇きで衰弱死寸前だったとまでは思い至らない。


 千尋が去ったあと、どやどやと料理人達が厨房にやってきた。

 そして廊下に立つアドリスを見つけ声をかける。


「何してるんだ? 下拵えは終わってるか?」


「ああ、終わってる」


「ほう、最近早いな。手際が良い」


 熊のように身体の大きな男がアドリスの肩を叩いた。その男を見上げ、アドリスはどうしたものかと思案する。


 余所様の家庭事情に首を突っ込むのは良くない。しかし、あんな小さな子供がお腹を空かせて、毎日やってくるのは、あまりに不憫ふびんすぎる。

 あの様子では、ろくに食べさせて貰っていないのだろう。出会った時も窶れて虚ろな眼をしていた。

 ここ十日程の付き合いだが、あの子は間違いなく育児放棄されている。


「なあ、料理長。後で少し話がある」


 真剣な面差しのアドリスを見て、料理長と呼ばれた男は、シニカルに片方だけ眉を上げた。




「何だ? 話って」


「実は.....」


 アドリスは斯々然々かくかくしかじかと小さな子供の話をする。


 隠れるように棚の下で眠っていた事。窶れて薄汚れ、まともな養育がされているようには見えない事。毎日、食べ物のために厨房の下拵えを手伝っている事。

 アドリスは今まで見た幼子の様子を全て話した。


「何とかしてやりたいんだが..... 俺には思いつかなくて。ほんとに一生懸命働くんだよ。ちっさい身体で。そんなに食べ物に飢えてると思うと、可哀想すぎてなぁ」


 そこまで話を聞いて、料理長は無意識に顎を撫でた。モジャモジャなひげが、わしわしと音をたてる。

 小さな子供。城の使用人の殆どは通いだが、一部には家や部屋をたまわる者もいた。自分もその一人だ。

 だが、城周辺の外郭にそれぞれ専用の区画があり、そこで生活している。滅多に城の区画に入ってくる事はないはずだ。


 それを知らずに迷い込んだのか? 親は何をしてる? ああ、まともな親ではなさそうだな、確かに。


 言葉も達者で刃物も扱えるから、見た目は小さいが四つか五つくらいだろうとアドリスは言う。

 その年齢では下働きとして雇う事も出来ない。親の許可が必要になる。

 今の説明から推し量っただけでも、ろくでもない親のようだし、話したところで良いとは言うまい。

 うーんと天井を見上げ、料理長はしばし考え込んだ。


「取り敢えず、会ってみるか」


 にっと人の悪い笑みを浮かべる料理長に、アドリスは胸を撫で下ろし、よろしく頼むと彼の手を握る。


 それに頷き、翌日、料理長は朝早く厨房を訪れた。




「よう。これがソイツか?」


 ぬっと現れた熊のように大きな男を見上げ、千尋はポカンと口を空ける。

 真っ白なコックコートを着てはいるが、髪と繋がっているモジャモジャな髭。

 現代の衛生観念を持つ千尋には、とても彼が料理人には見えなかった。

 しかしアドリスの説明が、千尋の予想を裏切る。


「そう。チィヒーロ。この人は、ここの責任者の料理長。ドラゴさんだ」


 いきなり現れた大男に呆気に取られた千尋だが、料理長だと紹介されて、慌てて立ち上がり挨拶した。


「はじめまして。千尋といいます。アドリスさんにお世話になってます」


 ペコリと御辞儀する小さな子供。


 ドラゴは剣呑けんのんに眼をすがめる。


 確かに流暢な言葉だ。挨拶もキチンとしている。しかし、これは.....


「おまえ幾つだ?」


「たぶん....二歳か三歳?」


「はっ?」


 千尋の答えに驚いたのはアドリスだった。ドラゴは、やはりなと薄く笑む。


 この小ささで四つはありえない。


 対するアドリスは、すっとんきょうな顔で固まっていた。

 器用に刃物を使うのだ。四、五歳くらいに違いない。そう思っていた。


 そんなアドリスを横目に、料理長は彼女の剥いていた人参を視界に入れる。

 薄く綺麗に皮を剥かれた人参。確かにこれを見れば、まさか二歳や三歳とは思うまい。この年齢の子供は一年の差が大きい。

 物言いも丁寧で教育を受けた感じがあるし、洗礼を受けた七つの子供だって、ここまでしっかりした受け答えは出来ないだろう。庶民なら。

 これはアドリスが勘違いをしても無理はない。


 料理長は、しゃがんで千尋と目線を合わせる。


「おまえ、両親は?」


「.....いません」


 両親は国王夫妻だ。しかし、自分を捨てたであろう彼等を親とは思いたくない。


「いない? なら、どうやってここに来た?」


 真っ直ぐ自分を見つめるドラゴ。

 横ではアドリスがハラハラした感じで心配そうに千尋を見ていた。

 どう説明したものか。彼女自身、現状に至った経緯は分からないのだ。

 この子の記憶はあやふやで、どうにも要領を得ない。赤子の記憶なのだから、当たり前なのだろうが。

 断片的な記憶を繋ぎ合わせて、両親が国王夫妻である事や、メイドが自分を件の部屋に閉じ込めた事だけは理解している。


「.....わかりません。ずっと奥の部屋にいました。お腹が空いて.... すっごく空いて」


 後は言葉にならず、千尋はひっくひっくと泣き出した。


 本当に訳が分からないのだから仕方がない。むしろ、こちらが聞きたいくらいである。


 そんな千尋の頭を撫でて、料理長はその部屋へ案内させた。

 料理長の大きな手が小さな手を握り繋がれ、千尋は閉じ込められていた部屋に彼等を案内する。


「ここか」


 厨房から洗濯場、さらに進んだ奥にその部屋はあった。

 半地下にあたるそこは、ジメジメとした小さな部屋。がらんと殺風景な室内に薄汚い寝台が一つあるだけ。


 こんな所に子供が放置されていた。


 理由は分からないが、真っ当ではない。


「親もなく、食い物もなく..... おまえ、良く生きてたな。えらいぞ」


 現状を確認し、ドラゴは茫然と呟いた。

 こんな何もない状態で、よくぞ逃げ出し生き残れたものだと、心から感心する。


 思わぬ言葉に、慌ててドラゴを見上げる千尋。

 その顔には、疑問符のように複雑な表情が浮かんでいた。

 そんな不安気な幼女に微笑み、ドラゴは優しく抱き上げる。


「親がいないなら、俺が父ちゃんになってやろう。今日からお前は俺の子だ」


 破顔するドラゴを信じられない顔で見つめ、千尋は胸が高まるのを抑え切れなかった。


 子供には庇護者が必要だ。でも彼女には誰もいなかった。かろうじて運良くアドリスに出会えたくらいだ。

 それだけでも極上の幸運だと思っていた。食べる物が得られるのだから。


 なのに、親が出来る? 本当に?


 自分は胡散臭い事この上ない子供だ。そんな子供の親に?


 千尋は恐る恐るドラゴの頬に手を当てた。

 その小さな手を握り、ドラゴはニカッと快活に笑う。


「....お父ちゃん?」


「おう!」


 みるみる彼女の顔が歪み、ほたほたと涙がこぼれ、そのままドラゴの首に抱きついた。

 声もなく震える小さな背中をポンポンと叩いてやり、ドラゴは、こんな幼子を放置した輩に怒り心頭である。


 一歩間違えば死んでいただろう。


 いや? ひょっとして死なせるつもりだったのか?


 その予想にさらなる怒りを覚え、ドラゴは千尋を抱き締めたままドスドスと足早にその場を立ち去った。


 幼女を抱いて居住区に向かう料理長の後ろ姿を見送りながら、思わぬ展開に固まるアドリスである。


 え? 料理長の子供になる? 料理長、独身だよね? 面倒見れるのかな?


 置き去りにされたアドリスだが、心配していた幼子が頼りになる男の庇護下に入った事は喜ばしい事だった。

 自分が想像していたのとは違う結果だが、ある意味、最高の結末だろう。


 優しく見送るアドリスには、これより後に訪れる嵐を予測する事は不可能だった。


 千尋は王家の子供なのだ。彼女が成長するにつれ、問題が浮き彫りとなっていく事を、今の彼は知らない。







「ここが俺の家だ」


 連れて来られた場所は城の外郭内側に建つ小さな邸だった。小さいと言っても日本の一般建て売り住宅の五倍はある。


 千尋は目の前の小綺麗な邸を茫然と見つめていた。


 白を基調にした建物は、赤茶色の屋根と窓枠が良いアクセントになっている。

 窓辺には慎ましやかな花が植えられ、あふれる緑が、そこかしこに彩りを添えていた。

 邸周辺にも多くの花が植えられており、大きなモノは無いものの、スミレやナスタチウムのように小さく自然な植物の配置は、植えた者のセンスを感じる配色である。


 全体的に淡い印象の暖かな邸だった。


「今日から、ここがチィヒーロの家だ。覚えておけ」


 そういうとドラゴは扉を開ける。

 鍵はかかっていないらしく、ガチャリと音をたてて扉は開いた。


 施錠はしないのかな? そういう世界観?


 ドラゴが扉を開けると中は広く、正面には観音開きの扉。その左右に二階へ上がる階段がある。床はフカフカな赤い絨毯じゅうたん


 日本でいう豪邸だね。こういうのテレビで見たわ。


 一介の料理人が住む家ではない。


 敷き詰められた厚手の絨毯に下ろされ、千尋は心許無げにドラゴの脚へしがみついた。

 それを優しく見下ろして、ドラゴは声を上げる。


「ナーヤっ、いるか?」


 ドラゴが奥に向かって叫ぶと、パタパタと足音がして、男性と女性の二人が現れた。


 そして千尋は思わず眼を見張った。


「御待たせ致しました、旦那様」


 恭しく頭を下げる二人。


 一人は老齢な男性。丁寧に撫で付けた白髪混じりな灰色の髪に、ピシッとした佇まい。

 彼の名はナーヤ。ここの執事らしい。


 さらにもう一人。赤い髪に桃色の瞳。彼女はメイドのサーシャ。頭にキツネのような大きな耳とスカートの後ろで揺れるモッフモフな尻尾。


 この彼女、なんと獣人であるっ!!


 うあああぁっ、マジもんだよっ、コスプレじゃなくっ! ピクピク動いてるよぉぉっ、耳っ!!


 眼を見張ったまま身動きも出来ない千尋に苦笑し、ドラゴは目の前の二人に説明する。


「コイツは今日から俺の養い子になったチィヒーロだ。俺の娘だ。よろしくな」


 そしてしばらく宙を見つめて、チラリと千尋を見た。


「娘だよな?」


 そこかいっ!


 憮然ぶぜんと頷く千尋を見て、ドラゴはほっとした顔をする。

 あ、なんかちょっと可愛いかも。見かけは熊だけど。


 ドラゴは薄汚れた千尋を風呂に入れるよう指示を出し、執事には子供服の調達を任せる。

 そして自分は仕事を果たすべく厨房に戻っていった。


 名残惜しそうに何度も振り返る茶色い熊親父。

 髪も髭も濃い茶色。心配そうに揺れる瞳は深緑。


 可愛いかどうかは微妙だが、親愛の混じる千尋には、とても可愛らしく見える。


 その彼の姿が見えなくなるまで見送ると、男爵家の三人は邸の中に帰っていった。


 風呂の用意が整うまで、千尋は小さな椅子に座らされる。手元には御茶とドライフルーツ。

 久方ぶりの甘味に、口の中から唾液があふれ出した。甘味だよね?


「いただきまーす」


 喜び勇んで、ぱくっと口に入れて咀嚼すること数回。千尋は神妙な顔で首を傾げた。


 あんまり甘くない。干し野菜の果物版だ、コレ。


 期待しただけに落胆の大きい千尋を、サーシャが抱え上げて風呂に運ぶ。

 千尋は未練がましく、未だに口をモゴモゴさせていた。




 お風呂は..... うん普通だ。


 湯船に浸かり、彼女はほうっと息をつく。


 地球世界と変わらない等身大のバスタブ。捻ればお湯が出てくるらしい蛇口。


 どういう仕組みかな? ボイラーとかあるんだろうか。

 石鹸とかは無いのか、湯船に香りの良い香油を少し混ぜて、サーシャが丁寧に身体を拭ってくれた。

 柔らかい手拭いで、ゆっくりと洗われ、あまりの心地好さに眠気がもたげてくる。


 やっぱお風呂は良いなぁ。あの部屋から脱出して十日ちょいだけど、その前からドロドロに汚れてたもんね。

 洗濯場の桶に水があるときは、身体だけ水浴びしてたけど、それ以外は清拭くらいしか出来なかったし。

 まだ寒さが残ってるから、頭を洗うなんて怖くて出来なかったのよなぁ。


 もふーんと寛ぐ幼女の髪を、サーシャがお湯で丁寧にすいていた。

 地肌の痒みも取れて、スッキリさっぱり、大満足な千尋である。


 そんな彼女は、サーシャが自分を驚嘆の眼差しで見つめていることに全く気づいていなかった。


 サーシャは自分がすいている髪を凝視し、指の震えが抑えられない。


 この方は.......っ


 戦慄く胸中を上手に隠し、サーシャは半分眠っている幼女を抱き上げて、浴室をあとにした。


 お風呂から出て、ナーヤが用意してくれた子供服に着替えさせてもらうと、千尋は、ようやく文明社会に戻ってこれたのだと実感する。


 今まで浮浪者だったものねー。あ、いや、浮浪児か? あんま変わらないか?


 そして色々サーシャに尋ねてみると、ドラゴは腕のたつ料理人で、その働きから男爵の爵位と邸を賜ったらしい。

 一代限りの爵位なので、千尋には関係ない。

 彼は料理長の御給金と貴族としての報奨ほうしょうもあり、それなりに裕福そうだ。


 なるほど。私一人くらい養うのに問題ないって事か。


 色々と話を聞き、邸の案内などをされて、千尋がお昼寝を始めた頃、一旦ドラゴが戻ってきた。

 昼寝する千尋の寝顔を心配そうに見て、いきなり彼の顔が凍りつく。


 気持ちは同じなのだろう。神妙に頷く、ナーヤとサーシャ。


 眼を見開いたまま思考が停止するドラゴ。


 綺麗に洗われ、すよすよと眠る可愛らしい幼子。


 それを驚愕と恐怖の同衾どうきんする眼差しで見据え、彼は覚束無い足取りのまま厨房に戻っていった。




「ヤバい」


「は?」


 狼狽しつつも仕事を完遂したドラゴは、後片付けをしているアドリスに、ヒソヒソと話し出す。

 その顔は、いつになく真剣だった。


「チィヒーロの眼の色は覚えてるか?」


「眼? あー、薄い茶色だったかなぁ。ミルクティーみたいな」


「茶色.....だと良いが」


「へあ?」


 神妙な面持ちのドラゴに、アドリスは首を傾げた。そして洗い物を終えると、前掛けで両手から水分を拭う。


「どうしたんですか? チィヒーロは髪も眼も薄い茶色っしょ?」


「茶色じゃない、金だ」


「はっ??」


「風呂に入れて洗ったら金髪だったんだよ」


「はーーーーっっ!?」


 無言で顔を見合わせる二人。


 金髪と言えば王家の印だ。つまりチィヒーロは王家の血を引いている事になる。

 だが、王女殿下らになにがしかが起きたという話は聞かない。あんな小さな王女様が行方不明となれば、上を下への大騒ぎなはずだ。


「洗礼前の殿下らは後宮におられる。こんな城の裏側にくるはずがない」


「後宮は後宮に厨房ありますしね。噂くらいしか耳にしてませんが、年齢的には第七王女か第八王女か」


「第六王女もだ。第七王女と双子だと聞く」


「......そんなんが姿を消したら、とうに大騒ぎですよね」


「だよな」


 二人は神妙な顔のまま天井を仰いだ。

 あと、有り得る可能性といえば.....


「......御落胤?」


「それくらいしかないな」


 どこぞのやんごとない身分な方の御遊びの果てに生まれる嫡外子。

 褒められたものではないが、ままある事だ。


「何かの理由で育てられなくなった母親が捨てたか、あるいは不義の証拠の隠滅でもはかったか」


「どちらにしろ、碌でもねぇ....」


 二人の背中に冷たいものが走る。前者より後者の可能性の方が高いからだ。

 何故なら、チィヒーロは半地下の部屋に軟禁されていた。

 もし彼女が年相応で、あの部屋から逃げ出せなかったら、間違いなく死んでいただろう。


 それが親の狙いだとしたら?


「.....隠さないとな」


「ありがとうございます」


 かくまう気満々なドラゴに、アドリスは頭を下げた。


「ん?」


「チィヒーロを見捨てないでくれて」


 言われてドラゴの顔がみるみる険しく歪む。


「当たり前だろうがっ、何の罪もない子供を見殺しに出来るかっ、いよいよとなれば、アレを担いで逃げるわっ!」


 眼を怒らせ、ふーふーと肩で息をするドラゴを見て、アドリスは破顔した。

 自分は相談相手を間違っていなかった。彼ならチィヒーロを、しっかり守ってくれるだろう。


 来るなら来いやぁっと叫ぶ熊男に、アドリスは呆れたような眼を向ける。


 いや、来ないなら来ないにこした事はないですからね?


 じっとりと眼を据わらせ、彼は頭の中でだけ、ドラゴに反論した。




「それで、これだ」


 翌朝ドラゴは、ナーヤに用意させたフード付きポンチョを千尋に着せる。


 薄い緑のポンチョ。裾に濃い緑の葉っぱと橙色の小花が刺繍された可愛らしい物だ。

 クルリと一回転して見せた幼女に、ドラゴはしまりのない笑顔で頷く。


 可愛いのぅ、家の娘は。


「お前の髪は人に見せちゃいけない。フードで隠すんだ。わかったな?」


 デレデレを隠しつつも失敗した顔で、ドラゴは娘に言い聞かせた。


 あー、何かあるんだね。不味い理由が。


 説明されなくとも察した幼女は、何度も小さく頷く。その千尋の頬に触れ、ドラゴはマジマジと幼子の顔を見つめた。


「眼もなぁ。....茶色く見えなくはないが。金の光彩だよなぁ」


 金? 


 千尋はまだ自分の姿を見た事がない。髪は前髪だけだが見た事はある。

 だから金髪なのはわかる。眼も金なのか。


 首を傾げる千尋をぎゅっと抱き締め、ドラゴはそのまま抱え上げて家を出ようとする。

 ぎょっとした執事が、力一杯それを引き止めた。


「旦那様っ、御仕事でございましょうっ、御嬢様は、わたくしどもが御世話いたしますからっ」


「だが、何かあったら..... チィヒーロは、こんなに可愛いし、こんなに軽いんだ。かどわかされでもしたら、どうする?」


「ここは王宮でございますっ、誰が拐かすとおっしゃるのですかっ」


 実際、チィヒーロは殺されかかったのだ。


 喉元までせりあがる言葉を、ぐっと呑み込み、ドラゴは渋々.... 本当に渋々、千尋をサーシャに手渡した。


「早目に帰るからな。良い子にしてるんだぞ?」


「うん。お父ちゃん、いってらっしゃい」


 小さな紅葉の手を振り、ほにゃりと笑う柔らかい笑顔。


 ドラゴの胸に、ジワリと暖かい物が染み渡る。


 お父ちゃん。お父ちゃん。お父ちゃん。

 そうだ、俺は父ちゃんになったんだ。


 ああああ、子供って、こんなに可愛いモンなのか? それともチィヒーロが特別可愛いのか? 

 きっとそうだ。うちのチィヒーロは世界一可愛いっ!!


「チィヒーロ、やっぱり一緒にっ」


「いい加減になさいませーっっ!!」


 執事の雄叫びに叩き出され、ドラゴは泣く泣く厨房へ向かった。

 その背中に漂う、そこはかとない哀愁に、執事は大仰な溜め息つく。


「全く、旦那様ときたら....」


 ぶつくさ文句を言いつつ、ナーヤは優しく千尋を見下ろして、サーシャの腕から抱き寄せた。

 大きな御目々をパチクリさせる可愛らしい仕草に、ナーヤもサーシャも思わず胸がキュンとする。

 しかし、それを隠して、ナーヤは軽く咳払いすると、澄ました顔で彼女に語りかけた。


「御父様ですよ? 御嬢様は男爵令嬢になられたのですから。御父様と御呼び下さいね」


「おとしゃま」


 あ、噛んだ。


 幼児の滑舌エ....


 気をつけていても、時々噛んでしまう。


 うにうにと口や頬っぺを引っ張る幼子に、ぷっと噴き出し、ナーヤは千尋を居間に運んだ。

 後ろでサーシャが幼女の可愛らしさに悶絶しているが、知らんぷり。

 そして幼女をソファーに座らせると、これからの色々を話し出す。


「御嬢様は男爵令嬢として教育を受けねばなりません。御勉強や習い事です。分かりますか?」


 千尋はコックリと頷く。


 それに軽く眼を見張り、ナーヤは昨夜のドラゴの話を思い出していた。


『あれは賢い子供だ。見てくれどおりだと思うな。たぶんだが貴族学院初等部並みの理解力はあるな』


 ドラゴは千尋の挨拶や態度からそう推測していた。

 さすが料理人。鋭い観察眼である。

 宮廷料理人筆頭な彼は、当たらずとも遠からず。幼女の性質を大まかに見抜いていた。


 それを確認しつつ、ナーヤは探るように千尋へ説明を続けた。


「文字は読めますか? 計算は?」


 そういうと彼は幼女の小さな手に絵本を渡す。厚手の紙で出来た薄い本。


 紙の本があるんだ。結構進んだ文明なのかな。


 千尋はページをめくり、軽く瞠目する。


 文字の上にルビが振ってあった。しかし、ゆらゆらとしたそれは、紙に記載されている物ではない。本の表面に浮かんでいるのだ。


 これが転生特典かな? 言語に不自由しないのは大事だよね。


「あるひ、おかあさんが、はたけで、ことりを、ひろい、ました」


 たどたどしいが読めている。

 ナーヤは感嘆に眼を見開いた。そして何かを言おうと彼が口を開きかけた瞬間、裏からサーシャが慌ててやって来る。

 少し焦った感じで、片手に木の札を数枚持ち、部屋に飛び込んできた。


「ナーヤ様、これ合わなくて」


 サーシャが持ってきたのは細かい数字の書かれた札。それが五枚。

 一枚ずつテーブルに並べ、サーシャは困惑気に手を頬に当てた。


「木札の合計と金庫の金額が合わないんです」


 ナーヤは木札を手にとると、計算機を持ち出して一つずつ計算していく。

 結び目のついた革紐の計算機は使いにくそうで、けっこうな時間がかかっていた。

 それを横から覗き込み、千尋は木札を指さす。


「ここ。数字が違う。ここも」


 数字は読める。ただ、ここは日本と同じように文字数字で、簡潔なアラビア数字的なものはないようだ。

 日本の漢数字を使って三桁の筆算をしてみると分かるだろう。桁が合わなくて計算しづらい。

 ここでも同じ事が起きていた。


「これ、三百五十を二千二百なら、六十七万五千と.....」


 千尋は頭で暗算し、口頭で足していく。

 桁ごとに計算し、それを足して答えを出す方式だ。

 一気に答えを出してもナーヤらに把握は難しい。面倒だが、桁ごとに出した数字を足す形の方が彼らに分かりやすいだろう。


 中学に上がるまで六年間通った珠算塾。彼女は珠算二級持ちである。暗算なら御手の物。


 スラスラと次々計算してゆき、気付けば合わなかった数字全てが洗い出されていた。


「こんなに..... 苦情を入れないと。サーシャ、便箋を持ってきなさい」


 どうやら食材の値段をぼられていたようだ。

 値段や量から察するに、王宮に申請する裏方作業なのだろう。

 宮仕え全体の食費となれば、莫大な金額だ。少額だが、塵も積もれば山となる。


しかし........ これは?


 怒りも顕なナーヤをチラ見し、千尋はトントンと木札を指で叩く。


「これって平民相手でしょう? 商家通してる?」


「いえ.... 農家から直接仕入れております」


「端数が丼勘定で切り上げられてるのよね。見逃してあげられない?」


 どんぶり勘定?


 聞き慣れない単語に首を傾げつつも、ナーヤは千尋の言いたい事を理解した。


 商家でもない平民なれば、算術に疎いのも仕方の無いこと。幼女は端的に説明する。


 平民の、しかも農家なら算術がちゃんと出来てるかは怪しい。大きい金額もあるが、ほとんどは僅かばかりの端数だ。

 計算が上手く出来なくて大まかな数字を出した可能性もある。


 それをナーヤに説明し、千尋は足をブラブラさせながら、にんまり笑う。


「つぎからは計算表を用意して取引しよ。数は分かってるんだから、できるでしょ? 農家にムチャいったらダメだよ」


 ほくそ笑む幼児に、ナーヤは二の句が継げず、冷や汗を垂らした。


 貴女、おいくつですか?


 年齢詐欺にも程があるでしょう? 規格外れな算術に、その口調、その説明。絶対に歳を誤魔化してますよね?? あああ、歳だけじゃない、身分もっ!


 目の前の幼子は、間違いなく高度な教育を受けた人間だ。下手をしたら、貴族や王族よりも上の。


 王族よりも上? そんなんある訳ないじゃないですか。ある訳.......


 目の前に現実がありますね。有り得ないは、無いですね。


 世の中をそれなりに渡ってきた老人は、世間が不条理に満ちているのを知っている。

 眼に映るもの全てが正しい訳ではないし、間違ってる訳でもない。

 幼女の姿をした知識人がいても良いではないか。


 むしろ、愚直なまでに真っ直ぐな旦那様の娘様が、賢く頭の回転が速いのは歓迎すべきことである。うん。


 少し遠い眼を達観させるナーヤは、ふと先程の絵本を思い出した。


「御嬢様、計算はお上手なようですが、読み書きは苦手ですか?」


 すると千尋は困ったかのように眼を泳がせる。ぱちゃぱちゃと犬かきのように泳ぐ大きな瞳が微笑ましい。


 その様子に胸を撫で下ろし、ナーヤは得心顔で頷いた。


 そうですよね。誰だって得手不得手はあります。好きこそものの上手なれ。まだまだこれからですよね。


 小さな幼女を貴婦人にするため、ナーヤは教師の手配をする。

 だがこの時、彼は自分が既に規格外の幼子から、精神汚染を受けている事に気づいていなかった。


 二歳の幼児に家庭教師をつけるなど、貴族でもやりはしないのである。

 洗礼あたりまでは家族から教わったり、見て覚えたり。ゆるゆるなのが普通だった。


 千尋と触れあう内に、そういった常識が完全に欠落してしまったナーヤである。




「そうか、チィヒーロは賢いな」


 ナーヤから話を聞き、ドラゴは満面の笑みで千尋の頭を撫でくり回した。

 今日は午後から商人がやって来て、千尋に必要な下着や洋服を買い、さらに街に出掛けて勉強道具も買い揃える。

 嵩張かさばる物は配達してもらい、馬車でのんびりと街を一周した。


 時代的には地球の中世。あれだ、ルネッサンス的な古き物と新しい物が混在した移り変わりの時代。

 そんな印象を受ける街だった。


 千尋を膝に乗せたまま、ドラゴはポケットから小さな箱を取り出す。

 そして中から細いネックレスを手に取り、千尋の首に着けた。

 可愛らしいリンゴモチーフの金のペンダントトップ。浮かし彫りになったリンゴがキラキラ輝いている。


「これは俺の紋章だ。一代限りなんで、身近な物からとった。チィヒーロ・ラ・ジョルジェ。これがお前の名前だ」


 そう言うとドラゴはペンダントトップを裏返した。


 そこには流麗な文字で、チィヒーロ・ラ・ジョルジェと書いてある。

 ラの一字は爵位を持った貴人を示すらしい。


「何かあったら、それを示せ。お前の身分証になる」


 そして更には一枚の書類。


 テーブルに置かれたそれは、ドラゴと千尋の養子縁組みの書類だった。


「チィヒーロの事を遠縁から引き取った子供と言う話にしたら、文官から薦められてな。これで晴れてチィヒーロは俺の娘だ」


 ここは王宮内である。無許可で人を入れたり、住まわせたりする訳にはいかない。

 それで千尋の事を遠縁から引き取った娘として同居の申請を出したドラゴに、文官が、後見人になる気があるなら、養子縁組したらどうかと勧めてきたらしい。


 慈愛に満ちたドラゴの笑顔。それに思わず抱きつき、千尋は言葉も出なかった。


 鼻の奥がツンとする。なんて良い人達に出逢えたんだろう。


 今世、親に恵まれなかったと思っていたが、御釣りがくるほどの幸運に恵まれた。


 何かしたい。アタシに何が出来るだろう?


 よしっ!! 御飯の分は働こうっ、自分の口くらいはのりしないとねっ!


 翌日から、再び厨房に小人さんが現れた。



 芋や人参を置いておくと、いつの間にか綺麗に剥かれている。


 人気のない厨房で薄い緑の影が走る。


 いつの間にか洗い物が終わっている。


 次々と起こる不思議現象。


 首を傾げる料理人達の中で、アドリスだけが口を押さえて小刻みに肩を揺らしていた。


 小人さんを捕まえようとドラゴが走り回ったが、何故か裏手の階段辺りで見失ってしまう。


 クスクス笑う小人さんの首には、綺麗なリンゴのペンダントが輝いているそうな。


 こうして毎日お城を走り回る小さな幼女。


 今日も小人さんは元気です♪


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