目覚め
目が覚めると病室だった。清潔感のある白い内装に、どこか鼻につく薬品っぽい匂い。どうやら私はベッドの上にいるらしい。
ベッドから上半身を起こすと、泥棒に蹴られた場所が疼いた。何度も蹴られたせいで、全身の至るところが痛い。
「……っ!! ああ……痛い……」
起こした上半身を再びシーツに沈めて毛布にくるまる。カチコチと時計の針が進む音だけが静かな病室に響き渡る。
そんなとき、ガラリとドアの開く音がした。
病室の外の喧騒とともに誰かが入ってくる。扉が閉まりきるとその人物の足音がよく聞こえた。聞き覚えのある足音だった。
「やあ、航平」
「……起きてたのか美咲、怪我は大丈夫か?」
心配そうにこちらを見つめてくる航平に笑みを返して強がってみる。
「わりと元気かな、助けてくれてありがとう」
「ああ、お前が無事でよかった」
「うん、本当にありがとう」
ベッド横にある小さな丸椅子に航平は座った。目線をあわせたり反らしたり、なぜか少し緊張してしまう自分がいた。
お互いに何と声を掛ければいいのかわからなくて、譲合いの沈黙が病室を支配する。
それを破るために口を開く。
「私、馬鹿だったね」
「どうした?」
「いくら木刀で殴ってもさ、私の力じゃ気絶させることなんてできないの、わかってたのに」
「美咲、お前あいつと戦おうとしてたのか、普通は逃げるだろ」
「うん、正解はそっちだと思う。隙をつけば十分に逃げられたしね」
マンションの廊下まで走って、叫んで助けを呼ぶのが最善手だ。そんなこと、わかっていたはずなのに、私は泥棒に向かって無謀な戦いを挑んだ。
「ほんとに、私は馬鹿だった」
心のどこかで、前世のときと同じつもりでいた。もし私が前世のときと同じくらい体格と筋肉があれば泥棒にも勝てただろう。
己の非力さに、無意識に無自覚でいようとしていたのだ。いつか突きつけられるとわかっている現実を認めたくなくて先伸ばしにしていたのだ。
認めなくてはならない、今の私を。
捨てなければならない、前の自分を。
そう思って航平に声をかける。
「ねえ航平、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「私のこと、ぶん殴ってくれない?」
自暴自棄になったわけではない。愚かな自分をリセットしたくなったが故の頼み事だった。
極めて平常の、いつも通りの声音でそう言ったのに、航平の顔は変な風に歪められてしまう。
「そんなことできるわけないだろ」
「…………まあ、そうだよね」
私がもし、男であれば航平は殴ってくれただろうか。
「お前ほんと大丈夫か? カウンセリングとか行ったほうがいいんじゃないか?」
「失礼な、泥棒くらいで私がトラウマになるわけないでしょ」
「変なところで図太いもんな、美咲」
怖いのは泥棒ではなく、前世の自分だ。男だった時の記憶が今の私の邪魔をする。
このままだと、また同じような失敗をしてしまうかもしれない。自意識と肉体の差を理解しきれていない現在の状態は、本当に恐ろしい。
「じゃあさ」
「ん?」
「私のこと、性的に襲ってって言ったらどうする?」
「…………襲うわけないだろ?」
「ここが病院だから? 航平の部屋で言ったら襲ってくれた?」
「いい加減にしろ、怒るぞ」
まるで幼い子供を躾るように、航平は低い声でそう言ってくる。目尻のつり上がった、ちょっと怖い顔だ。ああ、私はそれが見たかったのだ。
しかし、まだ足りない。
なので更に煽ることにする。
「襲ってくれなきゃ、今すぐ援助交際をしにいくって言っても?」
意地の悪い笑みを浮かべながらそんな事を言ってみた。
かるく、頬を打たれた。そこまで強い力ではない、航平の筋肉から考えれば、それは余りにも軽い衝撃だった。けれど私の首はその衝撃で傾き、視界の範囲が横にずれる。
「冗談でも、言っていいことと悪いことがある」
私をぶったことに罪悪感を抱いているのか、バツが悪そうに航平がそう言ってくる。航平には悪いことをしたな。若干後悔してしまう。
うん、でも、これで良かった。
打たれて熱を持つ頬を指でさする。
この熱が冷めないうちは、私は女でいられるだろう。そう確信して、航平に礼を言う。
「ありがと、航平」
「なんのお礼なんだよ……」
わけがわからないといった感じの航平に、私は最後に一つだけお願いをした。
「ねえ、腕相撲しようよ」
「お前怪我人だろうが」
「そこまで酷い怪我じゃないから、ほら上がって」
ベッドの布団から足を抜き取り、正座する。目の前に空いたスペースを指差して航平をベッドにあがるよう誘う。
やや躊躇ってから、靴を脱いで私のベッドに上がった航平との間に、ベッド用の机をおく。本来は病院食のトレーを置くためのところに、肘を置いて航平と手をつないだ。
「合図は私からでいい?」
「ああ、いいぞ」
「じゃあ、よーいドン!」
そう言ってから、私は航平の手を机の反対側につけるため、最初から全力で力を込めた。泥棒に蹴られた場所が痛むが、そんなことはどうでもいい。
航平の掌はとても大きくて、私が掴んでいる彼の親指も節張っていて逞しく、手首の太さも全然違う。肘の奥に見える上腕部の筋肉も、圧倒的な差がある。
小3の時、私は何もしなくても航平に勝つことができた。
中2の時、卑怯ではあるが、陽菜が航平を後ろからくすぐってくれたから勝てた。
そして今、私の腕は震えるだけで全く動かない。航平は手加減をしていた。私が込める力と同じ力しか出さない。必然的に、お互いの掌はの位置は真ん中から変化しない。けれども、体力を消耗しているのは私だけだ。航平からすれば、私程度の力を押さえ込むのは赤子の手を捻るようなものなのだろう。
航平は無表情で私をじっと見つめてくる。私は歯を食い縛って、右腕に力を込める。
「そろそろ止めよう、美咲。怪我が悪化する」
「じゃあ早くトドメ刺してよ」
「……わかった」
そういうと、航平の指が私の掌を強く締め付け、ゆっくりと右側に向けて力を込めてくる。
私は必死にそれを押し返そうとするけれど焼け石に水で、まったく意味はなかった。
私の右手の甲が机についた。
私の負けだ。
「まあそりゃそうだよね」
私が独り言のつもりで呟くと、航平が「そりゃそうだろ」と言ってきた。
私は航平に腕相撲で勝てない。当たり前のことだ。
あの泥棒と腕相撲をしたとしても勝つことはできないだろう。当たり前のことだ。
そんな当たり前のことを、私は理解出来ていなかったのだ。
その後、病室で警察に事情聴取をされた。どうやらあの泥棒は、最近このあたりで多発していた空き巣の犯人だったそうだ。
頻繁に買い物袋を下げている独り暮らしだとおぼしき中学生を見た犯人が、今度の標的に私を選んだらしい。平日の、本来なら学校に行っている時間にピッキングをして空き巣に入ると、代休でゴロゴロしていた私がいたというわけだ。いつ父親が帰ってきてもいいように、チェーンロックを外していたのが仇となった。
私が気絶したあとは、航平が犯人をボコボコにしてから警察を呼んだらしい。
本当に、彼には感謝してもしきれない。
入院するほどの怪我でも無かったので、その日のうちに病室を出た。航平と一緒に帰りながら、今後のことを考える。
「女の子らしくなりたい」
「どうしたんだよ、いきなり」
前世の性別に引っ張られるとあまり良いことは起こらない。いい加減、私は過去を捨てるべきなのだ。そうしなければ再び同じ過ちを繰り返すだろうから。
純粋に、自分の性別を女に寄せていこう。混ざりものはいらない。そう決意しての発言だったが、航平には変な顔をされた。
「ううん、なんでもない」
「そっか」
さて、何から始めようか。たぶん、自分一人でやるのは難しいだろう。誰か他の人、とくに男の協力が必要だ。そう思って横を見る。
航平は三年生になってからさらに背が伸びた。腕や足の筋肉も、肩や胸もがっしりとして男らしくなった。
泥棒を撃退したときの航平の姿を思い出す。泥棒に対して、手加減すらしていた。航平が本気で泥棒の頭を木刀で殴れば、きっとヤツは死んでいたのだろう。泥棒の頭を殴っても全く意味がなかった私とは大違いだ。
うん、航平がいい。彼ならきっと、私を上手く女に変えてくれるだろう。心も体も、全部上手く変化させて、そして心身のジレンマを解消するのだ。
「ん?」
「なんでもないよ」
顔をじっと見つめていたせいだろう、怪訝な顔の航平に振り返られた。
仮に私が、航平の協力のもと前世の男の影響を消すにしても、中学三年生という今は時期が悪い。
高校生になってからだ。
そこから、始めようか。
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