イカスミと郷愁

 

 ポトフを作り過ぎてしまった、どうしようか。私一人では食べきれない、いつもなら航平でも呼んで食わせてやるのだが去年からずっと疎遠のままだ。

 中1の夏休みの直前に、航平からLINEで仲良くしないことを告げられてから約一年。その間、私と航平はほとんど会話もLINEもしていない。中2になってからクラスが別々になったため尚更疎遠になってしまった。


 とりあえずトースターからフランスパンを取り出していく。均一にカットされたこのパンも二人分用意してあったので、お皿はパンで山盛りになってしまい困ったことになった。


「食べられるだけ食べよう」


 もう一つお皿を出して、ポトフのお鍋からソーセージやじゃがいも、ニンジンなど具材を入れ、お玉でスープを掬って皿に注ぐ。

 女子中学生が一人で食べるにしては多すぎる量だが、なんとかなるだろう。なにせ今日は新幹線で遠出してさっきようやく帰って来たところなのだ。よくよく考えると朝からコンビニのおにぎりしか食べていない。

 ストレスと緊張で誤魔化されていた空腹感が今頃になって戻ってきた。


「いただきます」


 カットしたフランスパンの山に手を伸ばして、一つ摘まんでかぶり付く。温められて柔らかくなったとはいえ、まだまだ歯応えが十分にあるそれのカリカリの外周部に歯を突き立てて砕き、千切りとる。もくもくとパンを咀嚼しながらポトフが入った皿にフォークを向ける。

 どの具材から食べようか迷ってから、ソーセージにフォークの先端を突き刺す。フォークの刺さった穴の縁から肉汁が溢れスープに混ざり、湯気に乗った肉汁の薫りが私の食欲をそそる。

 パンを咀嚼しきっていないが構わない、口を開けてソーセージにかぶり付き、パンとまとめて噛み砕く。

 小麦と肉が互いに味を引き立てあい、とても美味しい。そのまま顎を動かしていると、パンが喉に滑り落ちてしまったので、左手に残っていた齧られた跡のある残りのパン切れを口に放り込む。そしてまた、肉と共にそれを味わう。


 顎を動かすたびに美味しさという快楽が溢れ舌が喜ぶ。味覚も嗅覚も触覚も、最大限の快楽を脳みそに送ってくるのに、私の頭の奥は冷たいままだった。

 それを温めるためにスープを一口飲んだが、その熱は喉奥だけが受け止め、脳髄には届かなかった。

 美味しいご飯を食べているのに、どこか幸せを噛み締めることができない。


「すごく美味しい」


 けれど気持ちよくない。

 舌に刺激を与えても、胃袋を満たしても、私の脳はそれを快楽にしてくれない。


「今日はいろいろあったな」


 たぶん私は疲れているのだろう。体を休めればきっと戻れるはずだ、以前のように、活力に満ちた体に。無力な自分を認めたくはなかった。


「ごちそうさまでした」


 結局、完食することは叶わず明日まで持ち越すことになった。






 八月中旬、陽菜からLINEで映画を見に行こうと誘われた。とくに断る理由も無かったので了承し、自転車でいつもの公園に集合した。


「やっぱり自転車なんだね……」

「電車賃がもったいない!」


 大阪のおばちゃんみたいな事を言う陽菜に自転車でついていく。灼熱の太陽のもと例の坂道を必死に登って二駅離れた映画館に向かう。


「あかん、暑いわ……」

「だから電車にしようって言ったのに」


 さすがの陽菜も、この暑さのなかで自転車を漕ぐのはしんどかったらしい。

 私も汗だくだ。


 映画館に到着すると、すぐに中に入った。


「あー、涼しい……」

「暑かった、絶対電車のほうがよかったって……」

「ほなチケット買おか」

「はいはい」


 今日見る予定なのは『三丁目の夕焼け』という、昭和を舞台にした漫画を原作とする実写映画である。

 広告のポスターには一目で昭和の町並みだとわかる背景に、やや古くさい服装をした俳優たちが描かれている。ポスター全体にセピア色のエフェクトがかかってあるのは夕日を表しているのだろう。


 恋愛映画好きの陽菜にしては珍しい選択だと思った。


「なんでこれ見ようと思ったの?」

「今日レディースデイやん、なんかないかなって思ったらこれしかなかってん」

「なるほど」


 そういえば今日は月に一度のレディースデイだ。普段より安く映画を見ることができるので、陽菜はそれを逃したくなかったのだろう。


『三丁目の夕焼け』が上映されている時の劇場内部は、全体的にセピア色で満たされていた。スクリーンに映し出された昭和の風景から私の世界にセピア色の光が漏れてくる。

 観客を過去の世界に没入させる、良い演出であった。


 話の内容もおもしろい。当時の人間の日常生活がコミカルに、そして人情味に溢れるように描かれている。斜陽化した日本を悲しむ人間には特に受けそうな映画だった。


 映画が終わったあと、私と陽菜は近くのファミリーレストランで昼食を取ることにした。

 席に着き、メニューを見る陽菜が私に話しかけてくる。


「なあなあ美咲、見てやこれ」

「なに?」

「期間限定イカスミパスタ」

「へえ、食べたいの?」

「イカスミパスタって食べたことないからさ、どんなんか気にならへん?」

「まあ気持ちはわかるよ」


 メニューには大きく写真でイカスミパスタが表示されてある。真っ黒でベトベトした光沢を放つ麺の盛り付けられた皿はとても禍々しい。いくら期間限定とはいえ、イカスミ好きの人間でない限りは注文しない料理だろう。


「イカスミって美味しいんかな?」

「私も食べたことないから、わからないよ」

「美咲食べてみてえな」

「やだよ、私タラコパスタね」

「ふっ、逃げたな」

「じゃあ陽菜が食べなよ」

「…………」


 地雷系の料理を頼むのには勇気がいるのか、陽菜はじっとメニューを真剣に見つめている。


「え、ほんとに頼むの?」

「どうしよっかなー」

「食べきれなくても知らないよ」

「でもこれ逃したら一生食べれへんかもしれんやん」

「中学生のくせに何言ってんの」


 その年でこれから先の一生を考えるなんて早すぎる。そんな風に陽菜を見つめていると、決心したのか、彼女は呼び鈴を鳴らした。

 すぐに店員が来てオーダーを尋ねてくる。


「私はタラコパスタで」

「ウチはイカスミパスタで」

「かしこまりました」


 オーダーを手元の端末に入力すると、店員はすぐに去っていった。


「ほんとに頼んだし」

「大丈夫大丈夫、食べれるって」


 その後、映画の感想について語り合っているとパスタが届いた。


「「いただきます」」


 真っ黒な麺をフォークで絡めとり、大きな塊を作って陽菜はそれを自分の口に入れた。

 そのまま、モグモグと顎を動かし咀嚼していく。無表情でそれを飲み込み、陽菜はこう言った。


「まじゅい……」

「だから言ったのに」

「美咲、半分いらへん?」

「いらない、自分で頼んだんだから食べなさい」

「ううう、お金無駄にした……」


 陽菜は後悔しながら、それでもしっかりとパスタを食べていく。地雷メニューだとわかっていながらそれを踏み抜いた人間の末路だ。

 文句を言いながらも、完食した陽菜は立派だった。


「もう2度とイカスミなんか食わへん……」

「ファミレス以外なら美味しいと思うよ、たぶん」


 そんな風にイカスミの擁護をしていたら、少し思い出したことがある。


「そういえばさ、今日の映画って全体的にセピア色だったよね」

「せやな、昭和が舞台やからな。ノスタルジックってやつや」

「セピアってさ、イカスミのことなんだよ、知ってた?」

「嘘ぉ、真っ黒やん」

「キャンバスにイカスミを塗って放置すると、ああいう色になるんだって」

「へえ、豆知識が増えたわ」



 どうでもいい豆知識にうなずく陽菜に向かって、私はキメ顔でこう言った。


「つまりね、ノスタルジーってのはイカ臭いんだよ」

「いや下ネタかい」



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