雛鳥の籠 ~朽ちた卵~

美袋和仁

第1話 ~解錠~


~プロローグ~



「・・・ひいっ、やだっ・・・ 嘘だよ、こんなのっ」


 朝早く、まだ空が白み始めたばかりな時間。小高い山の林の中に一人の少女がいた。

 眼を見開き、全力疾走する彼女の様子は尋常ではない。

 顔全面を恐怖にひきつらせ、掠める小枝が彼女の柔肌に朱をつけても気づいておらず、ただひたすら山裾を目指して走っていた。


 まだ春もさわりの冷たい空気に、彼女の荒い息が白い帯を靡かせる。

 その後方から、同じように駆けてくる複数の足音が聞こえた。


 ジリジリと近づく恐ろしい気配。


 迫る恐怖に少女の全身が粟立つ。首から下げている双眼鏡が、やけに重く感じられた。背筋を伝う汗が凍りつくように冷たい。


 今にも追い付きそうな背後の足音から逃れるかのように、少女は縺れる脚を駆使して死に物狂いで駆け続けた。


 脚が痛い。痛いけど、怖い。怖い。怖い。


 無我夢中な彼女の眼前がふいにひらけ、麓の街が見えた時。微かな歓喜が少女の顔に浮かぶ。


 だが、安堵に緩んだその瞬間、彼女の髪が掴まれた。


 ガクンと力任せに後ろに引かれ、その反動で脚が前に投げ出される。

 ブチブチと音をたてて、少なくない髪がちぎれていった。しかし全身を強ばらせる彼女は、そんな微かな痛みなど感じる暇もなく、ひゅっと息を呑む。


 どさっと音をたてて引き倒された少女を、にたりと上から見下ろす誰か。


 白目が血走りギラついた瞳。


 少女は凍った瞳を限界まで瞠目させ、小刻みに戦慄く唇から、身の毛もよだつような恐怖の絶叫を迸らせる。


「きゃあぁぁーっ!」


 か細い悲鳴は林の中に吸い込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。


 後日、新聞の片隅に小さな記事が載る。バードウォッチングに出掛けた女子高生が行方不明になったと。


 この少女の失踪を皮切りに複数の行方不明事件が起こり、世間を騒然とさせる。

 小さな田舎町に起きた、六人もの連続行方不明事件は、にわかに町の知名度を上げた。


 この件を発端に、何も知らない雛鳥達が、それとは知らずに迷い込む。


 この陥穽とも言える林の奥へと。




「敦........ まだかな?」


 そこは街中の大きなビルの前。ビルの前には一人の少女がいた。


 薄い白のキャミソールに、七分丈のデニムのスパッツ。

 同じくデニムのキャップを被り、前髪を二本のピンで留めている。

 待ち合わせにも良く使われる大手新聞社のビル前に日陰はない。茹だるような暑さの中、じっとりと全身を湿らせる汗が彼女の薄いキャミソールを肌に張りつけていた。


 少女の名前は石動万由。


 真っ黒で肩にかかる程度の髪と意思の強さを感じさせる大きな瞳。

 強めの癖っ毛が愛らしい女子高生である。


 夏の刺さるような陽射しの中で、彼女は昨夜の電話の内容を脳裏に思い浮かべた。




「山の廃病院に行く? なんでまた」


 スマホの向こうでは、敦が言いにくそうにモゴモゴと呟く。

 彼の名前は草部敦。万由の友達以上、恋人未満な仲の良い友人だ。

 少々御調子者なところが玉に瑕だけど、穏やかで、はにかむような笑顔の似合う青年だった。

 スマホから流れてくる、いつもの柔らかい声音。ただ、その内容が物騒過ぎる。


「ほら、例の事件のあと、山狩りみたいに警察が捜索してたじゃん? 俺ら高校生活最後の夏休みだしさ。ちょっと冒険してみようかなって」


「アホかっ、まだ被害者や犯人の手掛かりもないんだから、やめてよね」


「なになに? 心配してくれんの?」


「そんなんじゃないわよーっ」


 擽ったげな囁きに、にべもなく即答し、少女はスマホを怒鳴り付けた。

 現在時刻は午後八時。真っ当な高校生ならば家路につく時間である。

 ましてや敦の話どおりなら、彼の居る場所は街灯もない山裾。

 事件うんぬん関係なく、浮浪者や質の悪い輩が徘徊する場所だ。現実的に危ない事この上ない。


「ちょうど警官が交代みたいで、パトカーの方に集まってるんだよね。今なら入れそうだから」


 だからじゃなーいっ!!


「バカ言わないで、そのまま回れ後ろして帰りなさいっ、分かった?!」


 たたみかけるように必死な少女の言葉に、のほほんとした暢気な声が答えた。


「いや、だってもう廃病院の前だし」


 はい??


 思わず顎を落として言葉を失う少女の耳に、あっけらかんと敦は言い放つ。


「明日の待ち合わせで話聞かせるよ。怪しい人や幽霊いたら逃げるからさ。楽しみにしててよ、万由♪」


 そう言うと、彼女の返事も聞かずに通話は切れた。


 しばし茫然としていた万由だが、すぐに正気に返り、慌てて何度も電話をする。

 しかし一向に繋がらず、心配で眠ることも出来なかった彼女は、翌朝、待ち合わせの二時間前には新聞社のビルの前にいた。


 何度も彼に電話をかけながら待つこと三時間。


 容赦なく照りつける日差しに、陽炎すら揺らめく灼熱のアスファルト。

 ときおり心配そうに、彼女へ声をかけてくる人もいるが、それに曖昧な笑みを返し、万由は身動ぎもせずに敦を待ち続けた。


 お日様が傾ぎ、夕闇が辺りを満たす。黄昏色な空を胡乱げに仰ぎながら、少女は己を振り返る。


 一体、何時間たったのだろうか。


 ようやく彼女は現実を受け入れた。


 敦は来なかった。


 後日、新たな行方不明者に彼は名前を連ねたのだった。




 覚束ない足取りで、フラフラと万由が向かうのは敦の家。

 ひょっとしたら日にちを間違えたかもしれない。それとも昨日の疲れから、家で眠って寝過ごしているとか。

 夕べの通話内容を考えても有り得ない事なのだが、刹那のパーセンテージでも希望が残っているなら万由はすがりたかった。

 もしかしたらの一縷の望みをかけて、彼女は敦の両親へ確認を取りに慣れた道をトボトボと歩いていく。

 無論、そんなか細い期待は、粉々に打ち砕かれるのだが。


 



 これで二人目だ。


 万由は虚ろな眼差しでベッドに横たわっている。


 あの日、彼女が訪れると、敦の自宅は大騒ぎになっていた。

 警察にも届けていたらしく、右往左往して敦を探し回っていた御両親。

 そこへ万由が現れたのだ。敦の両親は藁をもすがる面持ちで万由に飛び付いた。

 必死の形相で万由の腕を掴み、切ない眼差しで見上げてくる敦の母親。


「昨夜から敦が帰ってないの。今まで無断外泊なんてした事ないのに、警察は取り合ってくれないのよぅぅぅっ、あなた何か知らない??」


 顔馴染みな二人。万由が敦と仲の良い友達だと知っている敦の母親は、戦慄く瞳で彼女に説明する。


 日に何人もの失踪者が出る今の日本。


 子供ならばらいざしらず、高校生にもなった若者が一晩戻らなかったといって、これといった証拠もないのに警察は動くまい。

 それでも悲壮な眼差しの二人に、万由はポツリポツリと昨夜の敦の電話の事を話した。


 結果、万由は敦の母親に殴られて、運悪く壁に頭を打ちつけ、病院に運び込まれたのだ。


 後頭部から血を流して、意識の遠退く万由を憎悪の籠った瞳で睨め下ろし、敦の母親は彼女を罵った。


「何で昨夜のうちに知らせてくれなかったの?! 知らせてくれれば....

っ、すぐに警察に動いてもらえれば、敦は.......っ、あんたが敦をっ!」


 半狂乱で殴りかかろうとした敦の母親を、敦の父親が慌てて羽交い締めして止めていたあたりで、万由は意識を失った。


 鬼の形相で病院に駆け付けてきた万由の両親は激怒し、敦の両親を訴えると息巻いていたが、それを万由が必死に止める。


 私が悪いのだ。


 敦の母親の言うとおり、すぐに敦の家に連絡しておけば....... 今の事態にはなっていなかったかもしれない。

 廃病院近くで行方不明になったとなれば、事件との関連性から、警察も即座に対応してくれただろう。

 だが、彼女の心の傷が、それをさせなかった。


 病室のベッドで万由は固く眼を閉じる。


 あれは今から十年前。


 万由には仲の良い友達がいた。


 問題の廃病院がまだ健在だったころ、その病院の院長の息子だった男の子。

 毎日のように遊んでいた二人だが、その男の子には少々問題があった。


 やや知的障害の兆候があり、ときおり酷い残虐性を見せるのだ。


 それが無くば何の問題も無さげな優しい男の子。男の子も自分のしている事が不味い事には気づいていたのだろう。

 気を許した万由の前でしか、そんな顔は見せていないようだった。

 何をされた訳でもない。ただ、彼が虫やカエルなどの小さな生き物を殺すのを見ていただけ。

 恍惚とした至福の笑顔な男の子を見ているのが万由は好きだった。

 たとえその手に生き物の血が絡み、朱に染まっていたとしても。


 今思えば、万由も歪んでいたのかもしれない。だから彼といるのが心地好かったのかもしれない。


 その男の子には一つ違いの弟がいて、よく三人で遊んでいたものだ。


 そして万由は彼と約束をする。これは二人だけの秘密だよ? と。


 だけど、その頃の万由は子供で...... 本当に子供で.......


 うっかりと口を滑らしてしまったのだ。男の子の親や、自分の両親に。


 結果、その男の子は周囲から忌避されるようになり、いつしか行方不明になっていた。

 噂では、そういった障害を持つ子供らの施設に入れられたとか言われていたが、万由は知っている。


 男の子がいなくなる前の日、鬼のような形相で男の子を罵る母親らしき人と、それを傍観していた彼の父親を彼女は窓の外から目撃してしまった。

 万由の視界の中で男の子は散々殴られ蹴られ、ぐったりと横たわっている。


 万由は男の子が死んでしまったと思い、半泣きでそこから逃げ出した。


 自分が彼を死なせてしまった。


 眼にしたモノの恐ろしさと、罪悪感から酷い熱を出して寝込んだ万由の知らぬうちに、問題の病院は放棄され、彼の両親も何処かへ引っ越してしまった


 彼はどうなったのか。


 未だに頭から離れない彼女の心の傷。


 それが、大人達に知らせるという真っ当な方法を万由に躊躇わせた。


「まぁ君....... アタシ、また、やっちゃったかも」


 三上雅裕。弟は貴裕。これが廃病院の元院長の息子達の名前である。




 敦が行方不明になったのを最後に、被害者は出なくなった。

 ただ単に、恐れを抱いた人々が近づかなくなったため、新たな被害者が発生しなかっただけかもしれないが。


 街を騒然とさせた事件も時間の経過と共に風化し、翌年には人の口にも上らなくなっていた。


 進学する予定だった万由は、事件の影響で長く休学する事となり、留年を余儀なくされた。

 誰もが知る事件の関係者。それを奇異の眼で見る人々の中で、ほんの数人の友達を得て、順風満帆とは言えない二度めの高校三年生を始めた万由である。


 そして再び夏がやってきた。


 


「なぁに黄昏てんのよっ」


 思わず過去にのめり込んでいた万由の背中を、力一杯五月が叩いた。

 容赦ない力加減で、思わず万由は机につんのめる。


 叩いたのは、サラサラな黒髪を垂らした美人さん。少し切れ長な眼が印象的な和風少女である。

 だがしかし、彼女の家はモータース。日がな一日、油にまみれてバイクと戯れる残念美少女だった。

 黙って立っていれば、誰もが振り向くナイスバディの美人さんなのに、口をひらくと男勝りな気っ風の良さ。

 受ける印象は人それぞれだろう。女子の人気は高いが、男子からは遠巻きに敬遠されている富永五月である。


「手加減しないとぉ。五月はバカ力なんだからぁ」


 おっとりのんびりと頬に手を当てて、溜め息混じりに呟くのは神埼千歳。

 ふんわり穏やかな彼女は細身の儚げな少女で、細く柔らかな茶色い猫っ毛をゆるふわおさげにした可愛らしい少女だ。

 茶道部に所属する優しげな容貌の彼女が、実は県下一の俊足の持ち主である事は有名で、なぜに陸上部に所属していないのかは我が校の七不思議の一つに並べられていた。

 まだ現役で在籍しているのに七不思議扱いとか。後の後輩らが迷走する未来が眼に見える万由である。


 そんな個性的な二人を前に、思わず苦笑し、曖昧に誤魔化しつつ、それでも脳裏から離れないのは、同じ場所で行方不明になった二人。

 思い出さずにいられない万由は、とつとつと言葉を紡いだ。


「去年の今もこうしていたんだなって思って。........うん」


 それに含まれる色々を察して、五月と千歳は複雑な顔を見合わせる。

 一つ年上の同級生万由は、それを差し引いても大人びた風情の少女だった。

 街を席巻した行方不明事件の関係者。

 口性ない悪意に晒され、無口な彼女の友人の位置を獲得するのに、二人は少なくない努力した。


 世の中は悪意ばかりではないのだと。


 それを必死に万由に伝え、空回りや肩透かしも有りはしたが、しだいに打ち解け、今では気安い友達となった。


 それでも自分らには分からない万由の心の傷。


 ときおり覗かせる切なげな万由の姿に、その生々しい傷は未だに瘡蓋もなく、生温かい血を滴らせているのだろうと二人は想像する。 


「忘れろとは言えないけどさ。他にも眼を向けようよ」


「そうねぇ。今は病気とか流行ってて、あまり良い事がないけどぉ。うーん、走る?」


 至極真面目な顔で宣う千歳。


「なんで、この流れで走るになるんだよっ、バカじゃないのっ?」


「あらぁ。走るのは良いわよ? 二時間も走り込めば、大抵は頭が真っ白になるしぃ」


「物理かよっ、そりゃ身体を酷使すれば頭も真っ白になるだろうけど、そんなんじゃなくてだなぁっ」


 キャンキャンと言い合う長閑な風景。


 何くれとなく気を配ってくれる二人の存在を、心の底から有り難いと万由は思っていた。

 こんな厄介者を、よくぞ友人にしてくれたモノだと。感心を通り越して、感謝しきりな万由だった。


 だから驚いたのだ。夏休み直前に五月からされた提案に。


 


「廃病院を探索しよう」


 思わず瞠目して固まる万由と千歳。


 あれから捜索も打ち切られ、ときおり巡回にパトカーが回るくらいで、山の廃病院は閑散とした風情を取り戻していた。

 今では人も寄り付かず、質の悪い浮浪者やチーマーの溜まり場になっている。


 別の意味で危険な場所でもあった。


「いったい、なぁに? 馬鹿を言わないでよぅ」


 呆れたかのように首を傾げる千歳を鋭く見据えて黙らせると、五月は剣呑な眼差しで万由を見つめた。

 やや荒んだ面持ちで炯眼に光る眼窟。その瞳に揺らめく焔。


 その焔を万由は知っている。


 刹那の希望を見出だして、必死に足掻いた去年の自分だ。眼窟の奥に灯る、今にも挫けそうな脆い最後の焔。

 それが木っ端微塵にされた去年の自分と今の五月がふいに重なり、万由の背筋には嫌な予感がゾワゾワと這いのぼる。


「理由を聞いても?」


 切れそうなほどの真摯な眼差しにおされ、万由は五月に尋ねた。


 すると五月は小さく首を振る。


「話は同意があってからだ。今夜、アタシは廃病院に行く。もし来てくれたら理由を話すよ」


 これ以上は問い詰めても無駄だろう。


 そう確信できるほど、五月の醸す雰囲気は頑なで、鋭利に尖っていた。


 去年の万由のように。


 いったい、何が起きたのか。


 万由は軽く眼を伏せて思案する。


 今まで悪夢と戦い続けてきた万由。


 その元凶である廃病院。


 無謀だろう。ある意味、自殺行為にも等しい。己の心に穿たれた太いトゲを、さらに深く押し込む行動だ。


 だが.......


 真実の欠片でも拾えるのなら。


 まぁ君が。敦が消えた病院。


 捜査は今も続いている。しかし芳しくはなく、すでに打ちきりの兆候も見えていた。

 警察が散々調べた後の現場で、素人が何を見つけられるだろうか。


 それでも........


 この眼で確かめたい。


 今更な自覚はある。自己保身に竦み上がり、山裾にも近寄らなかった万由だ。

 のし掛かる罪悪感から眼を背け、溶け込めない日常で溺れていた。

 後悔の水面に映るのは、行方不明になった二人の面影。


 万由の眼窟奥に、再び仄かな光が灯る。


 自ら動いてみよう。無為に終るかもしれない。それでも、自分の眼で確かめたのなら諦めもつく気がした。


「行くわ」


 辛辣に眼をすがめて、まるで自分に言い聞かせるように万由は呟いた。


 それに頷き、他の二人も視線を合わせる。


「仕方ないなぁ、もぅ」


 こうして三人は、その夜、件の廃病院へと向かう事となった。


 それが悪夢の始まりとも知らずに。

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