第152話
ぐいぐいと掴まれたままの腕を引かれ、泉を出てまたイェナと対峙する。何故か彼は腕を離すことはなかった。
「──やめました」
「……何?」
見つめ合い、沈黙。先にそれを破ったのは私だ。
私の意思を、イェナに伝える。
「私を殺してください」
きっぱりと言い放った私に、イェナは目を見開いた。
──それがあなたの望みなら。本当に、あなたがそうしたいと思うのなら。
「元の世界に戻ろうと思ったけれど、それじゃあムカつきますもん。記憶が戻ったとき、私を殺したことを後悔すればいい。私のために泣いてしまえばいい。私を──一生忘れずに生きていけばいい」
今のイェナがそうなるとは思えないけれど、どんな形でも、私はずっとあなたの記憶の中でいたい。悔しいじゃないか、私だけがあなたを覚えているなんて。
「私は一生あなたと生きると決めました。だから、あなたと生きられないのなら殺してください。元の世界に戻ったところで、あなたがいないんじゃあ苦しいですから」
私はふにゃりと力なく笑った。生きていればいいと言ってくれた仲間たちには申し訳なく思う。だけど、私は先程ある事実を思い出してしまった。結局行き着く先が同じなら──あなたの手で。
──これは最初で最後の、私の賭け。
私は左手の薬指から、肌身離さずつけていた指輪を抜き取った。
「これ、お返しします」
「……」
私を守ってくれるものはこれで無くなった。イェナは不意を突かれたような顔をして条件反射のように指輪を受け取る。
「はい、もうこれで、簡単に殺せます」
絶好の機会にも、イェナはすぐに動こうとはしなかった。それをいいことに、私はある提案をした。
──私を掴むために泉に入ったあなたの髪が少し濡れている。それすらもう、愛おしいと思う。
「最後に一つ、お願いがあります」
「……何」
──ほら、残虐無慈悲なあなたが暗殺対象のお願いだなんて聞くことはなかったでしょう?
「……10秒だけ、目を瞑ってください。もちろん逃げませんし、激弱な上、丸腰なので危害を加えることもできません」
私の言葉を受けて、イェナは数秒考え込むと「……わかった」と素直に目を閉じた。瞼を閉じる無防備な姿が記憶を失くす前のようで、思わず抱きしめたくなる。
私は彼に掴まれているのと反対の腕でイェナの肩に手を置き、背伸びをした。精一杯、踵を浮かせて──イェナの唇に自分のものを寄せた。
小さなリップ音が私たちの間でだけ響き、イェナが微かに身を震わせる。
「──はい、もういいですよ」
踵を地面につけてそう言うと、イェナが何度か瞬きをして目を開けた。
「これで、あなたを好きなまま死ねます」
キスまでさせるなんて、どれだけ油断しているの?と笑ってしまいたくなる。瞬時に首を跳ねられてもおかしくないのに、やはりイェナは身動き一つせずに受け入れてくれた。開いた瞳には、微かに驚きが滲んでいたけれど。
「覚えてないかもしれませんけど、前に約束しましたからね。……『痛くしないで』って。だから一思いにお願いします」
畳み掛けるように私が話を進めるが、イェナは聞いていないのか呆然としている。力を少し込めれば掴まれたままだった手が離れた。そのまま彼の胸に顔を寄せて抱きついて、最後の言葉を発した。
「……さようなら、イェナ様」
いつでも殺してくれ、という合図に、私はそっと目を閉じた。
このまま死ねるなら、未練はないかもしれないな。イェナの体温はそれほどに心地良くて、落ち着く香りに満たされていた。
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