第147話


 後ろで扉が開いて、入ってきたフレヴァーが抱き合う私たちを見て驚いている。

「……イェナが追ってきている様子はありません」

 彼がそう小さく告げると、アロは無言で頷いた。まだその顔は険しく、見惚れてしまいそうなほど美しい。


「……元の世界に帰りましょう」

「──え?」


 他のことに気を取られていた私は、突然の話に理解するまで時間を要した。フランが放った言葉は少し掠れていた。


 私に伝えられなかっただけで、四人の間では話に上がっていたのか。それとも各々頭のどこかでその案が浮かんでいたのか。私以外は誰も驚いてはいない。視線を逸らして俯いていた。


「残念ながら記憶を戻す確実な方法はまだ糸口すら見つかっていません。もちろん、そうすぐに見つかるとは思っていませんでしたが……先程の出来事で話が変わりました」

 イェナが私を殺そうとしている。ただその事実が、苦しい。私はフランの話を聞きながら膝に乗せた拳をギュッと握った。


「このまま記憶を戻す方法を探し続けたり何かの拍子にイェナの記憶が戻るのを待てるほど、今のあなたには時間がありません。彼の暗殺対象となってしまったのですから、イェナは迅速に──そして確実にあなたを殺しにくるはずです」


 私は暗殺者としての彼の有能さを知らない。それを知っている他の四人が絶望したような顔をしているのを見ると、深刻な状況である、ということがぼんやりと分かるくらいだ。ここにいる四人が力を合わせて私を守ってくれたとしても、イェナが私を殺す事は造作もないのだろう。それくらい、暗殺に長けている。それが世界最高峰の暗殺一家・マヴロス家の長男。彼の優しさに甘えていたときは分からなかった、彼の恐ろしい一面だ。



「あなたを、元の世界へ逃します。こうなったのも私のせいですから」

「……フランさんのせいではありませんよ」

 力なく笑えば、腕を組んで黙り込んでいたアロが口を開いた。


「……そうするしか、ないね」

 ポツリと落とされた言葉はやけに重くこの部屋に響いた。アロですら打開策を見出す事はできないと言うのなら、私が考えたところで何も意味を成さないだろう。

「仕事モードのイェナを止めるのはかなり厳しいよ。ボクでも勝てるかどうか五分五分だ。残忍な上、諦めが悪い……。しかもなっちゃんと出会う前に戻ってしまったのなら、尚更ね」


 腿の上で組んだ手に力がこもって血管が浮き上がっていた。アロが俯く姿など、見たことがない。さらりと揺れた金色の前髪が彼の表情を隠した。

「ツラいだろうけど……キミが死んでしまうより、マシだよ」


 私はただ、ゆっくりと首を横に振った。

「……仕方ありませんよ、もともと私のいる世界じゃない……いつかは、戻らなきゃ……」

 瞼が熱くなるのをグッと堪えたのと同時に添えてくれたアインの手を強く握ってしまう。滲んだ目の端にフレヴァーがオロオロしているのが映って、少しだけ気分が晴れた。



「……記憶を戻す術は見つかりませんでしたが、元の世界に戻る方法ならば心当たりがあります」

 フランの言葉に耳を傾ける。実感がわかない帰還への道筋はどこか他人事のように聞こえた。


「“満月の夜、聖なる泉が月光に照らされる時──異世界への扉が開かれる”と、遥か昔から語り継がれていたといいます」

 あまりにも在り来たりで、面白味のない伝承だな、と私は思うけれどフランは真剣だ。彼の出した三本の指をしっかりと見つめた。



「──満月は三日後。その日に作戦決行です」


 三日後、私は本当にイェナの婚約者ではなくなり、この世界の出来事を長い夢だったと思うのだろう。そしてまた私は、あの漫画を読んで──泣いたり笑ったりを繰り返す。


 そういう私の日常に、戻るのだ。

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