第133話


「──本当、馬鹿な子だよね」

 ふぅ……とため息をつくと、イェナは──リングから飛び下り、土の上に足をつける。




「──まいった、俺の負け」


 ノエンを見上げ、淡々とそう言い放ったのだった。


「──はあ!?」

「……え!?」

 ノエンとナツが数秒おいて同時に大声を上げる。そしてその直後、イェナの言葉を理解した会場中の叫びが耳を貫いた。


「は、兄貴……!?どういう……」

「だってナツの手当てしなきゃだし。ナツを泣かせてまで戦う意味はないかなって」

 まるで「なんの問題が?」とでも言いたげだ。場内全員の開いた口が塞がらない。審判までも状況が理解できずに呆然としていた。


「プライドの欠片もねーのかよ!?」

 声を荒げてノエンが問いただす。

「特にないよ、あの子を泣かせてまで貫きたいプライドなんて」

 それでもイェナの顔色は1ミリも変わらない。眉一つ動かさずに答えた。


「俺が勝ったならナツは貰うぜ?いいのかよ!」

「ああ──そのことだけど」

 思わず座り込んだナツのそばに行き、手を差し伸べる。ナツも考えるより先に目の前の手のひらに自分の手を乗せた。


「オレの地位や殺し屋としての名誉、お金、家……オレ自身の腕や脚でもいい。なんでもあげる。──けど、ナツだけはあげられないんだ。悪いね」


 ナツを軽々と抱き上げるとノエンを振り返った。その顔には悪びれる様子もない。


 これ以上責め立てても無駄だということが分かり、ノエンは諦めたように大きくため息をついてしゃがみ込むと頭をガシガシとかいた。

「……兄貴」

「……なに」

「俺はお前が大っ嫌いだ」

「そうみたいだね」

 抑揚のない声に呆れたように笑う。ナツはまだ状況把握ができずにイェナの腕の中で固まっていた。


「……でも、あんたは変わったよ。ナツが来てから」

「……」

「ナツといるときのあんたは──すげー人間らしくて、前の兄貴よりずっとマシだと思う」

「……そう」

 静まり返った空気の中、兄弟の言葉は全員の耳に届く。


「俺だって、あいつが嫌がることはさすがにしねー。……ナツのこと、ちゃんと守れよ」

「言われなくても」

 ノエンの言葉に迷う様子は微塵もなく、即答した。それに安心したノエンは審判に「俺の勝ちだってよ」と言うと彼らに背を向ける。最後にノエンはイェナの口の端が小さく上がるのを見た。


(──ああ、そんな顔ができるんじゃないか)

 家族である自分にも生まれてから一度も見せたことがなかった優しさ。それを初めて見た弟は、嬉しいような寂しいような──複雑な感情を抱く。




『……多分またお前を泣かせると思う』

 先程の悲しみを含んだ意志の強い瞳を思い出した。


『それなら──私も一緒に殺してくれますか』



(あんなこと言われて、未練がましく縋り付けねーよ)

 痛む胸を押さえながら、善戦を称賛し労ってくれる仲間のもとへ向かうのだった。



「あ──勝者、の、ノエン!!」

 審判が戸惑いながらアナウンスすると、イェナはナツを抱きかかえたまま入場口へと向かう。アロとすれ違う瞬間、立ち止まって会話を交わした。


「邪魔して悪いね。でもキミが勝っちゃったらボクが戦えないからさ」

「……いや、いいよ。どうせ両方無事では済まないだろうからね。どっちが勝ってもナツは泣いてた」

 いまだ放心状態のナツを見てアロは笑う。


「ボクはあのままでも良かったんだけどねぇ」

 ナツを抱きしめた感触を思い出すとうっとりと顔を緩めたアロにイェナは顔を顰めた。

「……次はアロ専用で強力な結界かけとくよ」

「楽しみだな♡」

「……」

 蔑むような目でアロを一瞥すると、舌打ちをする。そしてイェナはナツを抱え直して再び歩みを進めた。

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