第75話


 身体のラインをなぞっていたイェナの指先が胸元に触れるまであと少し、というところで──。


 ピンポーン

「わっ!」

 この部屋のチャイムが鳴る。慌てて離れようとするが、イェナは離してはくれない。

「……ほっといて」

 唇が合わさったままそう言った。そのまま彼に身を委ねていると、

 コンコンコンコンコンコンコンコン

 ノック音が軽快に何度も連続で鳴り響く。

「怖っ!!」

 思わずイェナを押し返してベッドの上に座ると顔を見合わせた。ずり落ちてきたドレスを慌てて掴む。

「……」

 不機嫌MAXのイェナが舌打ちをしながらドアへと向かう。

 これ以上邪魔される前に、用件を片付けてしまおうという思惑だろう。


「やぁイェナ♡何だか面白そうなことになってるってボクの勘がね。来ちゃった」

「アロ……殺す……」

 ガチャッと扉を開く音がしたと同時によく聞き慣れた声がここまで届いて、私は脱力しベッドに沈み込んだ。

 ──「来ちゃった」じゃねぇよ。


「なっちゃんは?」

 と明らかにニヤついているのが分かる声でアロが言う。踏み込んでこられたら面倒なことになると、慌てて背中のチャックを閉めた。

「お前に関係ない。死ね」

 ご主人は相当お怒りのようだ。「死ね」が本気だった。

 そんなイェナを見れて満足したのか、アロは雰囲気を木っ端微塵にぶち壊したまま、意外とあっさりと自分の部屋に帰っていった。



 帰ってきたイェナはかなり険しい顔をしている。

「イェナ様……」

 ベッドに仰向けに倒れ込んだイェナの顔には疲労が滲んでいた。これはなかなかレアな顔だ。

「この大会が終わって無事に帰れたら……続きをしてくださいますか?」

 布団に沈み込んでいるイェナの顔を上から覗き込む。

「──だから絶対生きて帰りましょうね」

 私が絶対に死なせない。だからあの家に二人で帰ろう。そう言った意味を込めて、彼を宥めるように柔らかく笑った。

「……ご褒美ってことね、分かった」

 イェナを見下ろすことなんて貴重なこと。この幸せを噛み締めて、その髪を撫でた。

「楽しみにしてる」

「……楽しみにはしないでください」

 それまでに、自分磨きをしようと決心した。

 ──まあ、命の駆け引きが行われる戦場のような場所にいるから無理な話かもしれないが。




「イェナ様、この花は誰が選ぶんですか」

 ベッド脇のテーブルに置いていた真っ黒な薔薇を見て、イェナに尋ねると彼は首を傾げる。

「さあ?適当にっていつも言ってるから」

 彼らしい答え。知らないだろうなあ、と私は笑った。


「この世界では分かりませんが、私の世界には“花言葉”というものがあるんです」

「花言葉?」

「贈る花の種類によってそれぞれ意味が込められているんですよ」

 この世界に花言葉という概念がないのか、イェナが知らないだけなのかは不明だが、花言葉について少しばかりかじったことのある私が教えてあげよう。

「赤い薔薇は“愛しています”、青い薔薇は“夢かなう”などなど」

「へえ、詳しいんだね。そんな花を貰った経験でもあるの?」

「まさか!でも両手いっぱいの花束でプロポーズされるのは、女の子の夢ですよね」

 私の過去にも嫉妬してくれているのか、イェナの前で元彼の話はできないなと思う。


「ふーん、じゃあその黒い薔薇は?」

「……確か、“憎しみ” “死ぬまで憎みます” “化けて出ますよ”」

「……知らなかっただけだから」

 わざと悪い意味の花言葉を教えてあげれば罰が悪そうだった。私が気分を害するとでも思ったのか。

「花言葉はね、一つだけじゃないんです。黒薔薇には“決して滅びることのない愛” “あなたはあくまで私のもの”って意味もありますよ」

 そう言えば安心したのか寝ころんだまま頬杖をついた。


「あと、薔薇の花には本数によっても意味が変わってくるんです」

 私の言葉に「面倒臭いんだね」と言う。乙女心など後にも先にもこの人が理解できることはないだろうな。

「プロポーズの時には百八本の薔薇の花束を贈ったりもするんです。たしか一本は……“あなたしかいない”ですね」


「……ああ、いいね」

「え?」

「その意味が、一番ぴったりだ」


 ──“あなたしかいない”

 それはあまりにも心揺さぶられる響きだった。

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