オルフェンの塔

前夜

第66話

 ──それは、突然だった。


 いや、厳密には突然ではない。必然だ。



 イェナが帰宅後私の淹れた紅茶を飲みながら淡々と言った。

「来月から、武術会がある。それに参加することになったから、当分屋敷には帰らないよ」

 その言葉に衝撃を受けたのだ。“当分帰らない”ことが問題なのではない。“武術会”という言葉に雷が落ちたような衝撃が私の体に走ったのだ。


 ──ああ、どうしてこんなに大切なことを忘れていたのか。


 この“武術会”は物語中最大のイベントだ。読者からの人気も高く、物語の中枢を担う部分。私も手に汗握る戦闘シーンにページを捲る指先に力が入っていたものだ。


 そしてこの大会で主人公パーティーとアロ率いるチームとの対決が決勝戦にて行われる。アロのチームで大会に参加するイェナは──この決勝、副将戦で実の弟ノエンとの死闘の上、命を落とす──かもしれないのだ。


 世界でも最高と言われる暗殺者のイェナ。しかも実の兄である。ノエンでは絶対に勝てない相手だった。それは作中でも明確に描かれていたし、ノエン自身も痛感していた。私たち読者にもノエンとイェナの試合は最後まで不安が拭えなかったものだ。


 だがノエンは準決勝にて強い意志と力を手にすることができ、無事に勝利する。弟であるノエンに敗北し倒れたイェナはアロが抱えて一旦会場を出ていった。再び姿を現したアロの腕の中にはもうイェナはおらず、ただ単に医務室へ連れて行っただけなのか、はたまた墓標でも立てに行ったのか──読者の間でも、アロの行動は様々な憶測を呼んだ。


 そしてそのまま、イェナの生死は発表されている最新話まで明かされていない。



 イェナから聞かされた話で時間は確実に流れていることを知る。このままでは、イェナは死ぬかもしれない。死なないにしても、今のような幸せな時間が壊れてしまうかもしれない。


 それがあまりも怖くて、私はバンッと机を叩いて立ち上がった。

「……その大会、私もお供させてくださいっ!!」

 イェナが私の顔を怪訝そうな顔でじっと見つめる。

「何言ってるの?」

「私はイェナ様のメイドですよ!身の回りのお世話をしなければ!」


 普段ならこの言い分で折れてくれるのだが、今回はそう簡単なことじゃないらしい。もちろん足手纏いにしかならないことは承知の上だ。だけど、恋人になった途端イェナが消えてしまうことはどうしても避けたい。


 未来が変わる──それがどんなに許されないことだとしても。


「危険だよ、とてつもなく。ナツみたいな激弱な人間が行く場所じゃない」

「でも……でもナツは、イェナ様のおそばにいたいんです!!」

「……」

「恋人が傷ついてるかもしれないのに、私にはそれを癒す力があるのに──ただ黙って待っているなんてできません!」

 “恋人”という部分を強調してみれば、彼の眉がぴくりと動いた。私のことを思って拒否していることももうわかっている。だけどあまり見縊らないでほしい。イェナに「拾ってくれ」と懇願したあの時の覚悟に比べたら、なんてことない。


 それに大会中のことは主人公目線ではあるものの、大体は把握している。出場者のこともある程度なら知っているのだから、危険があれば逃れられるはずだ。   


「自分の身は、自分で守れるように努力します……!」

 勢いのまま立ち上がっていたことを思い出し、もう一度椅子に座る。グッと握り拳をつくって見せると、イェナは珍しく大きなため息をついた。


「……その必要はないよ。どうせオレがいるから手出しはさせないし」

「え……」

 自分でも気が付かないくらいに細かく震えていた手を、イェナがそっと握ってくれる。この返事は……OKということだろう。


「……おそばにいても、よろしいんですか」

「ナツを屋敷に残して、もしトラブルがあっても助けられないしね。今回の親父の出張、ちょっと面倒な依頼らしくてアンとジャムもついていくみたいだし、オレはロールを連れて行こうと思ったけど。そうしたら屋敷の中に執事がいなくなるからナツに何かあったら困る。それならオレといた方が安全でしょ」


 私のことをよく見て考えてくれているのだと思い知らされる。ぱあっと笑みが広がる私の顔を見て、椅子からお尻を浮かして身をこちらに乗り出すと頬に口付けられた。


「……オレから離れないこと。それが守れるならついてきても構わないよ」

「はいっ!!イェナ様大好きですっ!!」

 こちらに近付いていた彼の首元に腕を回して抱きつくと、ぽんぽん、と背中を優しくたたかれた。


「……特にアロには気をつけなよね」

「はい!!」

 自分で言うのも何だけれど、イェナは私にとことん甘い。“恋人”になってからはその甘さが更に増していた。


 私は絶対にこの人を死なせない。


 そう心に誓って、私はもう一度拳を握った。

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