第67話
それから武術会の前々日まではあっという間だった。主人公たちはそれまでの期間特訓に時間を費やしていたわけだけど、イェナはそんなことをする様子もなかった。
「明日、武術会の前夜祭なんだけど。パーティー行く?」
「パーティー?ですか」
主の部屋の窓を拭いてると突然の話にきょとん、とする。あの大会にそんなものあっただろうか。少なくとも主人公パーティーは参加していないだろう。そんな描写は一切なかったのだ。
私が知っているのはあくまでも主人公たち目線の出来事だ。イェナのそばにいるということは全く正反対の立場で成り行きを見守ることになる。当然知らない展開もあるだろうと思ってはいたけれど……こんなにも早くやってくるとは。
「うん、行きたいなら連れて行く」
私のために?
そんなのは聞くまでもなくて。緩む口元を抑える。
「いやぁ、でも私アロ様に連れられて行ったあの暗殺パーティーで少しトラウマに……。パーティーなんてあれで人生最初で最後にしておきます。イェナ様もお仕事以外でパーティーに行くのはお好きではないでしょう?」
私がそう言って断ろうとすればイェナの纏う空気がピリッとしたものに変わる。
「……やっぱり行く」
「え?」
「確かにオレは好きじゃないけど、アロと行ったのが最初で最後なんて腹が立つ。ドレスもオレが選ぶからアロに貰ったのは捨ててよ」
アロへの敵対心がすごいのはもう目を瞑っておく。要注意人物なのは身をもって実感しているのだ。庇う余地はない。
「それにもうあんな目には合わせないから」
あらゆる危険から守ってくれる、少々過保護な婚約者。イェナがついていてくれるなら無敵だと思う。私は笑顔で頷いた。
イェナがふと、思い出したように呟く。
「……ナツは、未来を知っているんだったよね」
「はい……」
未来、というほど大層なものではない。この物語の主人公たちが辿る道筋を少し先まで知っているだけ。
「この武術会については知ってる?」
「……知っています。対戦相手もどのチームが優勝するのかも」
「そう」
未来について尋ねられるのを待ったが彼はそれ以上聞かなかった。
ただ興味がなかったのかもしれない。それとも彼なりにこの世界の均衡が崩れてしまわないように配慮しているのかも。
窓拭きが終わり、洗濯物を畳んでいた手を止める。
「……記憶が、薄れてきているんです」
「え?」
一コマ一コマ、隅々まで見つめて、何度も読み返したはずなのに、時間が経つにつれて覚えていたはずのことが頭の中でぼやけていた。それが少しだけ怖かった。
「大まかな部分は確かに覚えているんですけど……細かいところから少しずつ思い出せなくなっています」
いつか原作について完全に忘れる時が来るのだろうか。忘れているからといって、今の私に影響があるわけではない。だけど今はまだ。イェナを救うために必要な情報は忘れるわけにはいかない。
イェナが手招きをする。首を傾げながら近付くと、頭を抱え込むように抱きしめられた。
「……オレについての記憶があるなら、どうだっていいけどね」
ぽん、と肩をたたかれてその優しさに涙が滲んだ。
「私は未来を変えたい……許されないことかもしれません。でも、守らなければいけないものがあるんです」
彼の背中に腕を回して苦しいほどに力を入れるけれど、きっとイェナにはちっとも効いてはいないだろう。
「オレは未来に興味はない。自分がしたいことをするだけ。だから、ナツがしたいと思うならそうしなよ」
以前は自分のことばかりだったくせに。私と出会ったことで、イェナは変わった。イェナが変わったことで未来は変わることはあるのだろうか。
「ただし、オレから離れるような選択肢だけは選ばないでよね」
「はい!」
未来はわからない。だから踠いてやろうと思う。
この物語は私が踏み込んだその瞬間……いや、イェナに拾われたその瞬間から変わってしまっているのだから。
「──はっ!」
「ナツってたまに面白い顔するよね」
あることに気付いて私は顔を輝かせた……と思っていたのだけど、それは思い違いだったらしい。面白い顔、とは。
「失礼なっ!かわいいと言ってください!」
「……」
「嘘です調子に乗りました」
久しぶりにイェナの感情が感じられない“無”の表情を見た気がした。
「……かわいいって思ったらキスするけど大丈夫?」
「ぶっ!!」
本当に何を考えているのか分からない!
イェナは「可愛い」と思った時=“キスしたい時”だと思っているらしい。確かに恋人になった時にそんな殺し文句を言っていたのを思い出した。
「……パーティーに参加するなら出発は今日。準備しておきなよ」
「はい!」
こうして前夜祭に参加するため、私たちは半日ほどかかるという武術会会場へ1日早く出発することになった。
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