第60話

 トイレは二つ目の角を左に曲がる──。


 フランの言葉を思い返しながら、言われた通りに曲がった──その時。


 ボスッと固いのか柔らかいのか、よく分からないものにぶつかった。それが人であることを一瞬で理解してすぐに謝ろうと顔を上げる。


「──え」

「やあ、なっちゃんじゃないか」

 それがサイコパス殺人鬼、アロであるなんて誰が思うだろう。思わず後ずさろうとするが、すぐに手首を掴まれて抵抗する間もなくトイレに連れ込まれた。


 強制的に閉められたトイレのドアで壁ドン。少女漫画であったなら、素敵なシチュエーションだっただろうに。

「ダメだなあ。今ボク危ないよ?気持ちが昂ってるから──激弱な君でも食べちゃいたくなる」

 舌なめずりするアロに本気で鳥肌が立った。今、奴の目は正気じゃない。


 ──これは、まずい。

 今までの冗談とは違う、と本能が危険信号を出す。


「キミがボクに食べられちゃったって聞いたら──イェナはどんな顔をするかな?」

 そう問いかけられても答えられるわけもない。アロの言う“食べる”がどんな意味を示すのかなんて分かりはしないけれど、どの可能性を思い浮かべても結果は最悪。


 文字通り“食べる”?いや、まさか。でも目の前のサイコパスなら有り得ないことではない。それとも女として“食べる”?私で満足できるのだろうか──なんて馬鹿げたことも考えた。それとも──“殺す”ことをそう表現しているのか?


「あ、あの……何でここに」

「ん?ミルに依頼された暗殺の件がさっき終わったからね。情報を貰ったお礼を言いに来たのさ」

 とにかくなんとか身を守らなければと会話で時間を稼ごうとする。アロは何かを思い出したような顔をした後、にやりと笑った。



「そうだ、知ってる?ミルってね、イェナが好きなんだよ。近いうちに告白するってさ」


 なんの前触れもなく始まった会話に心臓が嫌な音を立る。パーティー会場で会ったあのグラマラスボディを思い出してモヤモヤと胃もたれを起こしたような気分だ。あの時は、何とも思わなかったのに。今になって“嫉妬”しているだなんて。いくらイェナでも、あの誰もが羨むような身体で誘われたら──想像してまた胸が痛くなる。


 そんな風に考え込んでしまったのがいけなかった。アロがそんな隙を見て突然──かぷ、と私の肩口に噛みついたのだ。

「うぎゃっ」

 ピリッとした痛みに顔が引きつる。


 私は純潔の乙女ではない。恋愛も人並みにしてきたつもりだ。一通りのことは知っている。知っているからこそ──事の重大さに顔を青ざめた。これを最近独占欲というものを覚えたあの婚約者に知られたらどうなるだろう。純粋無垢な漫画のヒロインでもないのだから「虫刺されかなあ?」だなんて可愛らしく言えやしない。


 更に鎖骨辺りに唇を寄せようとするアロを私の持てる最大限の力をもって突き飛ばし、トイレから飛び出した。



 来た道など覚えていたわけではないけれど、感覚で走り抜けた。そしてさっきまでいた部屋の扉の前でフランと話をするイェナの後ろ姿を見つける。


「イェナ様あー!」

 人目も憚らず叫んだ私にイェナが振り返る。ホッとしたところで足が縺れて転び、またいつかのように地面とキスをしそうになったけれど──。


「──うわっ」

「……!」

 ぽすっ……と柔らかい何かに包まれる。イェナが私を床に激突する寸前で抱きとめてくれていた。以前屋敷で転倒した時とは違う、その優しさにジーンとした。


「なんで走ってるの。危ないでしょ」

 呆れたようにそう言ったイェナ。子どもじゃないんだから!と言いたかったが、今はそれどころじゃない。

「アロ様が……!」

 その名を聞くだけで、ぴくりとイェナが反応する。僅かに目を細めた。


「アロ様が変なことした!!」

 トイレのある方を指さすと、イェナの後ろに電撃が走ったような背景が見える。そしてイェナから禍々しい殺気が勢い良く放たれた。

「……」

「い、イェナ……」

 フランが頬を引き攣らせている。“頼むから事務所を破壊しないでくれ”という心の叫びが聞こえる。


「アロ……殺す」

 私を立ち上がらせると、指さした方向へ歩いていこうとするイェナを慌てて腕を掴んで引き留めた。

「殺さなくていいので早く帰りましょう!一刻も早く!!」


 私の必死の形相にイェナも納得はいっていなさそうだが、渋々折れてくれた。ため息をついて掴んだ私の腕を解き、代わりに腰を引き寄せてピッタリと寄り添ったまま歩き出す。


 困ったように笑って見送ってくれるフランに挨拶をして、不機嫌なイェナと共に帰路についたのだった。

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