第18話

 二人が軽口をたたき合っていると、アンが近くにいたロールへ耳打ちする。


「……あのイェナ様が……あんなに楽しそうにしていらっしゃる」

「え、真顔じゃん」


 イェナの表情は確かに無表情で、いつもと変わらない。だが、アンの目には違うように映っていた。


「分かってないわね、あんたはまだまだよ!」

 

 何度も瞬きをして幻想ではないことを確認すると、今度は微笑む。すると二人の背後にはジャムが現れた。


「ナツが来てから随分柔らくなられましたよ、イェナ様は」

 この二日間で随分と変わったこの家の長男には使用人たちももちろん気が付いていた。そしてその原因が突然現れたたった一人の少女だということも。


「よく執事室に来るもんね。イェナ様」

「イェナ様が?」


「うん。ナツを呼びに」

「あのイェナ様が!?」


 ナツとイェナが話をしている様子を見て、三人の執事はため息をつく。


「執事室になんて、来たことなかったのにねー」

「ほんっとに愛されてるのね、ナツは」


 肩を竦め微笑ましく見ていると、イェナがアンを呼び、近づいていく。アンも彼のもとへ歩み寄ると、イェナの肩の向こうでナツが不思議そうにしていた。



「──アン、ナツのことは聞いてるね?」

 ナツには聞こえないように、小声で話すイェナ。アンはそのイェナの目を真正面から見つめ、小さく頷く。


「ええ、愛らしい子ですわね」

 コロコロと表情が変わっていくナツ。マヴロス家には似つかわしくない、イェナとは180度違ったその姿はどこか目を引く。

「……そう?」  

 イェナも横目に視線を向け、長年仕えてきたアンでさえも見逃してしまいそうなほど──優しく微笑んだ。


 ──ああ、ようやくこの人も。人間らしい感情を手に入れたのか。


 当主であるオクトーヴについて屋敷を留守にしていたが、連絡は随時入ってくる。ナツのことももちろんアンの耳にも届いていた。そしてイェナからも直々に執事長であるアンのもとへ連絡が行っていたのだ。



『──頼みごとがあるんだけど』


 アンは小さな頃から見てきた彼の成長を嬉しく思うが、それと同時に思案する。もしもナツがいなくなってしまったら?ここは平和な世界ではない。まして人から憎悪の目を向けられる極悪非道のマヴロス家である。いくら強い者ばかりが揃った安全な地だとしても、“絶対”ではないのだから。そんな輩に真っ先に狙われるのはナツだろう。


 ……危うい。今まで知らなかった感情を知ったイェナが、それを突然壊されたとしたら。きっと今度こそ──“人間”とはかけ離れた、ただの殺人ロボットになってしまうのではないだろうか。


『──あいつが泣いてるのは見たくない』

 驚く、なんてものではなかった。あのイェナから出た言葉なのか?電話の主が偽物ではないかと疑いもしたものだ。


 守らなければ、とアンは決意する。ナツという稀有な存在はもちろんのこと、初めて手にしたイェナの感情を。彼が初めて持った“大切”という感情を、“人間らしさ”を。



「マヴロス家使用人全員をもって、お守りいたしますわ」


 力強い言葉に「頼んだよ」と珍しく言ったマヴロス家長男は、やはり今まで見せてこなかった表情をしている、とアンは思う。


 本人に言っても否定されてしまうだろうが──彼女へ向ける瞳はいつもと変わらず深く濃い黒。しかしそこには、少なからず“愛情”が含まれていた。

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