一と千がつりあう天秤
下川関
序章
その日ジオニス王国の城下町はかつてないほどに賑わっていた。
晴天の空の下、老若男女も身分の違いも関係なく誰もが歓喜の声を上げている。いつもは仲の悪い隣人も、奴隷と彼らを売りさばく商人も、その日だけは皆が肩を組んでいた。彼らは英雄たちの帰還を待っている。何年もの間人々を苦しめ続けた魔物の長、魔王を倒した英雄たちを。
警備兵の合図と共に門が開く。いよいよその時がやってきたのだ。
国旗を誇らしげに掲げる男がこの行列を纏めるトリスタン。ジオニス王国最強の兵士と呼ばれ、討伐隊の隊長に名乗りを上げた男だ。
彼の入場と共に町の活気は最高潮へ到達する。少しでも彼らに近寄る為、人々は我先にとトリスタンへ駆け寄った。それを見たトリスタンは、普段の彼からは想像もできないほど穏やかな表情で手を振った。
続いて、トリスタンの後ろを何百という行列を作って戦士たちが立ち並ぶ。彼らもまた国民一人ひとり温かく迎えられた。戦士たちの家族や恋人、親友は心から帰還を喜び行進に割って入る者までいる。
腕を失くした者もいた。脚を失い、仲間に支えらえながら行進する者もいた。そんな彼らに対してはより一層の拍手で祝福された。生きて帰ってきたこと、そして勇敢に戦い抜いたことを最高の尊敬を込めて讃えている。
生還者全員の行進が終わった後、一変して町は静寂に包まれる。
人の波が途切れた後、後続の馬がゆっくりと行進していく。馬は荷台を引き、その荷台には白い布に包まれたものが大量に載せてあった。
かつて人だったもの。魔王を倒す為、平和を取り戻す為、懸命に戦い尊い命を散らせた亡骸が静かに歩く。布には文字が書かれている。生きていた時は誰だったのか、その名を記しているのだ。
死者の行進では無言で拍手をするのが礼儀だった。古くから戦士たちの間では、個人的な感情を捨ててただ称賛する姿こそ死んでしまった者への最大の弔いだとされているからだ。しかし住民の中には自分の身内の名前が書かれた布を見て、涙を流す者がいる。それを咎める者は誰一人としていない。誰もがそれぞれの形で英霊を讃えていた。
行進の後には葬儀が行われた。集合墓地では彼らと共に戦った仲間や遺族たちが丁寧に埋葬し、木の十字架にその名を刻む。
討伐に参加した少年兵カインは、一人で死体の埋葬を行っていた。仲間たちは手伝わせてくれと声を掛けたが断った。
ありがとう。でも、これは一人でやらせてくれ。何時間も費やして体に土を掛け終わって、十字架にナイフで名前を刻んだ。その名前を親指でなぞるとカインは膝から崩れ落ちた。
広場では宴の準備が始まり再び活気を取り戻している。だがとても参加する気分にはなれなかった。
元は城内の物置だったカインの部屋。二人で暮らすにはあまりに狭くて、いつか必ずここを出ると決めていたが、一人になるとどうしようもなく広く感じる。
窓の外はもうすっかり暗い。しかし、町の興奮は冷めず声はうるさいほどに聞こえてくる。全ての人に無償で料理が振舞われているようで、みずぼらしい恰好の男が見た目に合わない料理にありついているのが見えた。
腹が鳴る音がした。カインの人生で一度も食べたことのない料理に、普段ならば飛びついていただろう。
カインは二段ベッドの下側に寝転がった。戦いの疲れが頭痛として現れている。すぐにでも眠りにつきたかったが目を閉じても眠気はやってこない。頭痛は増すばかりだった。
この部屋にはエヴァという血の繋がっていない家族がいた。そう、いたのだ。もうこの世にはいない。
エヴァはカインらと共に討伐隊に参加した。戦闘員としてではなく、負傷した兵士の手当をする衛生兵だった。生還者の中には彼女の手当のおかげで救われた者もいる。何時間もの戦闘の末、ようやく魔王を倒したと皆が思い込んだ。しかし魔王は最期の力を振り絞って飛び掛かった。運が悪いことに、前線で戦っていたカインを労おうと駆け寄るエヴァにその凶刃が襲い掛かったのだ。巨大な爪が彼女の腹へ深々と突き刺さって血が噴き出した。すぐに治療を試みたが回復は見込めず、エヴァは死んだ。
死に際の言葉は頭から離れない。彼女は最期に「強く生きて」と言った。誰よりも自分に掛けるべき言葉を遺して、息を引き取った。
冷たくなる体温、熱い涙と血の感触は今でも鮮明に思い出せる。六年もここで一緒に過ごした彼女がいないということは、そう簡単に受け入れられることではない。目の前で死んでいくエヴァの姿を見たにも関わらず未だに現実感がなかった。だがその時の記憶は否が応にも、エヴァが死んだことを実感させる。その矛盾は彼を苛み続けた。
目を閉じれば、最期の瞬間がフラッシュバックして現実を思い出させる。目を開けば、彼女がいない空っぽな部屋が真実を突き付ける。
カインはベッドの上で嘔吐した。一日中何も食べていなかったにも関わらず簡単には止まらない。胃液まで吐き出してようやく吐き気は収まった。 それと同時に激しい疲労感と眠気に襲われる。鉛のように重い体では吐瀉物を掃除することもできず、気を失うようにカインは眠りについた。
朝起きてすぐに集合墓地へ向かう。エヴァの名前が刻まれた十字架の前でお祈りすると、カインがその日やるべきことは終わる。それからカインはずっと部屋に引き籠った。何もせず、ただ寝転がって一日が終わるのを待つだけだった。
魔王討伐の報酬として、カインは一生遊んで暮らせるだけの金を手に入れた。今すぐにでも大豪邸を建てて、何人もの召使を雇って尚有り余るほどの富だ。いつかこの生活から抜け出そうと躍起になっていたというのに、実際に手に入れた今はどうすればいいのか分からない。かつて共に夢を語った唯一の家族を亡くし、カインは自分が生きていることに価値を見出せずにいる。
カインの行動の全ては、エヴァがあってこそのものだった。
元々は、明日生きているかさえ分からないような生活から身を守る為に住み込みの兵士になることを決めた。命の危険があることは十分に理解していたが、当時のカインは躊躇わなかった。それは自分の命よりも彼女の安全を守ることが大切だったからだ。
しかしもうエヴァはいない。
生きる意味とも言える存在を失った今、ただ人生が終わる時を待つだけの毎日が苦痛でしかない。後悔と自責に苛まれて、手の届かなくなった幸せな日々を夢想しては心の穴をより広げる。
それも今日で終わりだ。
いつものように目を覚まして墓地へ行き、お祈りをする。これを繰り返して今日で三十回目だ。カインは十字架の前に座り、語り掛けた。
「エヴァ。話したいことがあるんだ」
その言葉に答える者は誰もいない。カインは構わず続けた。
「エヴァは強く生きてって言ったけどさ、もう疲れたよ。俺もそっちに行っていいかな」
もしもエヴァが生きていたら、きっと怒られるだろうな。そんなことを考えながらも彼の意思は決まっていた。
「金も名誉も手に入れたけど、エヴァがいなかったら何の意味もないんだ。悪いとは思っている。でも許してくれ。お前がいないと俺は生きていけない」
十字架に名を刻んだ時に使ったナイフを手に取り、カインは自分の首筋に刃を当てる。あと少し力を加えれば、たちまち失血死を起こすだろう。
恐怖はなかった。寧ろ、ようやくこの苦しみから解放される安堵の方が大きい。
「じゃあ行くよ。もしも二回目があったら、次こそは幸せにしてみせるよ」
最期の言葉を遺して、カインはナイフを振り切った。目が覚めるような痛みと共に、自分でも驚くほどの血が噴き出す。しかし今はその痛みすら愛おしい。寒気に体を震わせながら、遠くなる意識の中でカインは微笑んだ。
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