マガサス

 悪夢を見た。

 そこは平均台のような細く狭い道で、僕はそこを否応なく歩かされていた。一歩進むたびに周囲の光源は消え、足取りは覚束なくなる。

 拘束されて首が固定されているのか、後ろを振り向くことも下を向くこともできない。果たしてこの道に終わりがあるのか、落ちるとどうなるか、それさえ何もわからないのだ。どうしようもない不安に襲われ、僕は視覚以外の五感で状況を把握しようとした。

 背後で聞こえる喧騒は、幸福な過去の暗示かのようだ。きっと、それは有り得た無数の選択肢で、進む道の先にない暖かさなのだ。


「——かえってこい」


 遥か遠くの背後で聞こえる声の正体さえも掴めないまま、僕は延々と歩く。引き返せるものなら引き返したい。僕はそう強く思った。引き返して、立ち止まって、安寧を得たい。

 身体を拘束して縛り付ける鎖が、僅かに軋む。今なら間に合う、引き返すんだ。身体を捩り、必死に首を動かし、背後を見ようとした、その瞬間。

 意思に反して、視界が揺らぐ。空を切る足の感覚から、足を踏み外したことを遅れて理解した。縛り付けていた鎖が千切れ、僕は足元に何があるかを理解した。


「——かえってこい、よ」


 無数の白い手が、落下していく僕を待ち受けている。受け止める、というよりも『囚われる』予感がした。

 一斉に手招きする無数の手に恐怖しながら、僕はゆっくりと、落ちて、おちて、堕ちて堕ちて堕ちて堕ちて堕ちて堕ちて堕ちて堕ちて


    *    *    *


 目が覚めた。ベッドの上で相当もがいていたようで、着ていたTシャツは汗でじっとりと濡れていた。僕は自分の体が無事なことを確認し、握っていたものをそっとテーブルに置く。

 昨日赤月さんからもらった御守りを強く握っていたのは、自分でも気付かない不安の表れだろうか? くしゃくしゃになった朱色の布地を一瞥し、僕は肌寒さを感じる。晩夏とはいえ、エアコンの効いた部屋に汗をかいた状態でいれば寒いのだろう。そう納得しかけ、僕は違和感を覚えた。

 カーテン越しの外が暗い。慌ててスマホの画面を確認すれば、時刻は午後六時。半日ほど眠っていたことになる。昨日、命の危険から逃れた反動だろうか?


 とにかく着替えようとクローゼットに近付く。コツン、と何かが窓を叩いた。僕はそれを無視し、服を物色する。再び窓を叩く音。何度も、何度も、等間隔に、妄執のように。

 悪戯だろうかと考えるが、ここはマンションの上階だ。ベランダの位置も遠く、誰かが忍び込むのは不可能に近い。嫌な予感がした。悪夢に引っ張られているのかもしれないが、昨日赤月さんが言ったことも脳裏にちらつく。


(結界を出た後も、何かに襲われるかも……)


 理屈はわからないが、専門家が言うならきっとそうなのだろう。僕は例の御守りを握り、必死に存在感を希薄化させた。外に出てはいけないことは、わかっているんだ。


 数十分の後、等間隔に窓を叩く音が徐々に激しくなる。

 もしかしたらこの音が化け物というのは自分の思い過ごしで、実際はひょうのような自然現象なのかもしれない。未知への恐怖が、存在しないものを有ると錯覚させる。カーテンを開けて確認するだけなら、いいんじゃないか?

 僕は必死に逡巡しながら、無意識的に布の表面がほつれるほど御守りに爪を立てていた。中に入っている物体のさらさらした感触さえもわかるようになり、自分がそれだけ何かに囚われていることが急激に腹立たしくなる。そうして、カーテンを開けることを決意した。


 最初に見えたのは、何もない闇だ。それが何かの空洞であることを理解したのは、コツコツと音がするたびに上下に脈動するからである。その縁を囲う白は燻み、欠けている。その空間の正体が巨大な眼窩だと気づいたのは、巨大な手の骨が窓を叩くのを見てからだ。

 骨格標本めいた巨大な髑髏が、窓越しに僕を覗いている。所々風化して欠けた歯をガチガチと鳴らし、数十メートルの巨躯を窮屈そうに屈めて。

 昨日見た怪物に比べて、大きさも危険度も違いすぎる。悪意以外の無駄を削ぎ落としたかのような姿はまさしく幽鬼で、僕に自らの矮小さを直面させる。


「た、助け……」


 やはりスマホは圏外で、恐怖から家にいるはずの家族に助けを求めることもできない。僕は一心不乱に御守りに祈り続ける。お許しください。助けてください。助けて……。

 ガラス窓にヒビが入りはじめる。家にいれば入ってこない、そう思っていたのに。温く生臭い風が隙間から入り込み、僕は逆に悪寒を感じ続けていた。やめてくれ、入るな。誰か、助けて……。


 髑髏の指を構成する骨が、轟音と共に吹き飛ぶ。僕を射抜くような闇の視線が上空——マンションの屋上に移り、銀の輝きが閃いた。それが見知った黒影と共に降り注ぐ瞬間を、僕は待ち侘びていたのかもしれない。


「——間に合った。二日連続で災難だったな、クレムツくん!」


 重力を味方にした一撃によって、髑髏の左腕が崩れ落ちる。シャベルの剣先を地面に突き刺すことで落下の衝撃をいなし、小さな人影は声を張り上げた。


「これだよ!! これくらいの大物の方が……狩り甲斐がある!!!」


 その瞬間、髑髏はまるで煙か幻かのように左腕骨を残してその場から消失する。分が悪いと考えたのか、何らかの活動限界か。


「おい、逃げんのかよ……!?」


 カナタは苦々しげに地面に残った骨を砕き、大地へ還した。そのまま昨日のように穴を掘って結界の元を探すのかと思ったが、彼は何故か空を見上げている。その視線がマンションの上階へ移り、窓越しに戦闘の様子を見ていた僕と目が合った時、彼は合点がいったかのように笑った。


 数分後、カナタは窓から僕の部屋へ入ってきた。わざわざ一旦屋上に登り、飛び降りるように侵入したのだ。


「なんでそんな入り方したんですか……? 普通に危ないですよ」

「わざわざ玄関から入るのって面倒じゃん? クレムツくんの家の間取りもわかんないし、それならこのやり方が一番シンプルかなって」

「怪物から二回も助けてくれたことには感謝しますけど、今通報したら普通に不法侵入ですからね?」

「まぁまぁ、そう固いこと言わずに! それにしてもこの饅頭、美味いね……」


 はにわ饅頭を口に運びながら、カナタは何故か僕の部屋で寛いでいる。異常な状況だが、間違いなく命の恩人だ。無碍にはできない。


「それ、赤月さんから頂いたものなんですよ。……僕もまだ食べてないんですけど」

「あー、なんかそんな感じするわ。アカツキ、こういう時でも奇を衒わないというか、歴史があるものを選ぶんだよ。『歴史への敬意〜!』ってよく言ってるのも頷けるよな。まぁ、形以外はどこにでもあるシンプルな和菓子は嫌いじゃないぜ?」


 はにわ饅頭は文字通り王勾市で出土した埴輪を模した饅頭で、外側の香ばしい小麦粉生地の皮と滑らかな餡のバランスはどこか懐かしさを感じる組み合わせだ。どこかの地方都市の銘菓に似たものを感じたが、この饅頭もきっと歴史があるのだろう。


「……そんなことより、なんで来たんですか!? まさか、これを食べに来たとか……」

「バカ、これも仕事だよ。結界の元、この部屋にあるだろ?」


 彼はそう言うと、机の傍に置いていた御守りを取り上げる。


「あっ、ちょっと……」

「いいから、黙って見とけって」


 慣れた手つきで結んでいる紐を解き、カナタはその中身を暴く。罰当たりな、と思う間も無く、露わになったのは青銅色の金属片だ。

 それが遺物であることは、僕でも察しがついた。そして、きっとこれが結界の元だ。


「これ、誰から貰った?」

「……赤月さんです」

「……そうか」


 カナタはそれを数秒間、黙って見つめていた。僕はその間、赤月さんがこれを渡した理由を拙いながらに考えている。


「此処の呪いはしつこくてな。標的にされた人間は、結界の外に出ない限り狙われ続ける。食われるんだよ、呪いに。俺もガキの頃、片目をやられたからな……」

「食われる……?」

「呪いに食われるってのは、物理的な意味じゃねぇよ? 自我を乗っ取られるんだよ。余計な情報や思念が流れてきて、世界が歪んで見えるんだ。だから、俺はシンプルなものが好きなんだよ。複雑なことを考えると、狂っちまうから……」


 僕はカナタの眼帯を確認し、彼が過ごしてきた人生に想いを馳せる。左眼を呪いに侵食され、正気と狂気を行き来したのだ。直情的な性格はその反動から生まれたものなのだろう。


「俺はなんとか耐えたけど、普通のやつなら無理だ。だから、呪いを広めるやつは許せないんだよ……!」

「もしかして、遺物を壊してたのって……」

「俺なりに結界の増殖を防ぐつもりだったんだけどな。これ、先月回収した銅鏡なんだよ。アカツキに気付かれる前に壊したつもりだったんだけど、破片でもしっかり効果は発揮してたらしい。結果がこれだ。……笑えるだろ?」


 カナタは自嘲じみた笑みを浮かべると、銅鏡の破片を己の手で回収する。何かを噛んで含むような、悲痛な表情だった。


「ごめんな、クレムツくん。今日に関しては、俺らの不手際だ。部下の失態の責任は上司が負う。だから、この場を借りて謝らせてくれ」


 項垂れるように頭を下げるカナタに、僕は二つ目のはにわ饅頭を差し出す。なんの気休めにもならないかもしれない。それでも、何かをしなければ気が済まなかったのだ。


「……赤月さんの目的が気になりますね。こうやって結界を広げて、何をするつもりだったのか」

「だから、それは俺が責任を持って……」

「僕も連れていってください。情報をくれれば、難しいことは全部僕が考えます。……足手まといになるかもしれないけど、当事者になれないのが一番嫌なんです」

「三度目は無いかもしれない。危ないぞ!?」

「それでも、行きたいんです」


 カナタに必要なのはストッパーだ。赤月さんが行っていたその役割が不足した場合、彼に何が起こるかわからない。だから、僕は危険の最中に飛び込むことを決めたのだ。

 カナタは困ったように笑い、僕に手を差し出す。赤月さんの真意を問いただすため、僕たちは手を組んだのである。


「まずは赤月さんがどこにいるか調べないといけませんね。普段どこにいるかとかは……」

「……どうやら、それを考える必要はないっぽいぞ。クレムツくん、外見てみな」


 窓越しに見た景色には、明確な違和感があった。日が暮れ始める黄昏の空をバックに、再開発エリアのビルの狭間を闊歩する巨大な体躯。左腕を欠損した泥の巨人は、僕の想像するダイダラボッチに近い姿だ。文明を嘲笑うかのように悠々と街を歩くその頭上は例の緑色に染まり、目的地に向けて建物を通り抜けるように歩き続けている。その視線の先には、王勾氏の中心に位置する小高い山がある。


「どうも、古墳跡に向かってるようだ。あのデカブツ、肉を纏うとああなるのかよ……」

「赤月さんも、きっとそこにいる気がします!」


 作戦の確認もそこそこに、僕たちは古墳跡に向かって走り出す。吹き荒ぶ風が届けた巨人の声は、夢の中で聞いたものだ。今なら、それが放った言葉の意味もわかる。


「——還ってこいよ」


 これは、過去への回帰なのだ。

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