子猫日和 第2話
@nobuo77
第1話
それから半年近くが過ぎた。
友子が朝の掃除や洗濯を済ませ、仏壇の前を整理しているときに、玄関のチャイムが鳴った。
二ヶ月前から週に三日の割合で勤めはじめた、近くの土木仮設事務所でのアルバイトがない朝は、ためていた洗濯物や、部屋の掃除で友子は忙しかった。気がついたときには昼近いこともまれではなかった。
チャイムの音に少しおどろいて壁掛けの時計を見ると、十一時をまわっていた。
「あら、もうこんな時間」
小さな声をあげながら、ドアを開けると、茶髪の娘が夏の陽ざしを背にして立っていた。半袖のうす紅色のブラウスが、いかにも涼しげだった。
「あのうー、おじいちゃんの仏前に、お線香を上げさせてもらえないでしょうか」
娘はとまどいの表情で言った。
友子は一、二度見た覚えがあると思ったが、咄嗟には思い出せなかった。
「美紀です」
娘は名乗りながら、ぎこちなく頭をさげた。胸元に白い花を抱いている。
「そうだったわね」
友子は苦笑した。
美紀と言えば、半年前に義父が接触しそうになった軽自動車の運転者だった。あの時は一九歳になったばかりで、情報技術専門学校に通っているということだった。
美紀と顔をあわせたのは、事故の知らせを受けて現場に駆けつけた時と、葬儀の朝だけだった。直接言葉をかわしたわけでもなかったし、再び会うこともないだろうと思っていたので、もう忘れかけていた。
(こんなにきれいな娘だったかしら?)
事故当時の蒼白で放心した娘と、いま目の前に立っている娘がおなじだと理解するまでに、一瞬の間があった。
まだ表情に少女っぽさが残っているが、うす紅色のブラウスとジーンズにつつまれた肉体は、はじけそうなふくらみがあった。
「どお……少しは落ちつけるようになった」
友子は美紀が線香をあげ終わるのを見とどけると、後ろから声をかけた。
「はい……今でも時折うなされて、夜中に目覚めることがあります」
美紀は額にハンカチをあてた。
「あなたに責任ないわよ。警察でもそう言っていたのでしょう」
美紀は無言で、小さくうなずいた。この歳にしては律儀な娘さんだと、友子は縁側のほうに座っている美紀に感心した。
部屋に冷房は入っていない。友子は家にいる日は、日中、仏壇がある和室の廊下のガラス窓を開けて、網戸にしている事が多かった。部屋にこもる線香の匂いが嫌だった。
「あの事故は、貴方のせいじゃないわよ」
友子は二、三日前に、ドラッグストアーでもらったドリンク剤の広告が入ったウチワをつかいながら、扇風機を美紀の横に近づけた。
美紀は事故のことはあまり喋りたがらなかった。原因がどうであれ、一人の人間の死亡に直接関わった自責の念は、半年過ぎたいまでも消えることはなさそうだった。
「でも……」
「おじいちゃんが、車道を確認しないで、いきなり飛び出したのが原因。警察もそう言ってたでしょう。雨も降っていたしね」
友子はさっきと同じような言葉をつぶやいた。いきなりやって来た若い娘に対する言葉が思い浮かばない。
「おじいちゃんの抱いていたお染が、車道に飛び降りたから、慌てて……」
「おじいちゃんは自分で拾ってきた子猫のお染に殺された。この家に嫁いできた嫁としては、死ぬ前に孫の顔を見せてやれなくて可哀想だったけど」
事故後二度ほど、美紀は焼香に来たらしい。それは偶然に、友子がアルバイトに出かけて留守にしている日とかさなっていた。
タクシー運転手をしている夫が休日の午後だった。応対は夫が一人でしたということだった。その事を夫は、自分からは話してくれなかった。
美紀がたずねてきた翌朝、仏壇のある和室に掃除機をかけていると、畳の上に見なれないものが落ちているのに、友子は気づいた。何だろうと思って、しゃがみ込みながら拾いあげてみると、それは数本の髪の毛だった。朝日にかざしたら、茶色に光った。身じかに茶髪の人物は思い浮かばない。
美紀のイメージがぼんやりと浮かびあがってきた。
友子は居間にいき、ティッシュを二、三枚ひきぬいて髪の毛をつつむと、エプロンのポケットにしまい込んだ。
「昨日、誰か来たの」
友子はその夜遅く勤務を終えて帰宅した夫にたずねた。
「うん」
夫は晩酌のビールを口にしながら生返事をした。顔はテレビに向けたままだった。
「誰?」
「美紀さんだよ」
夫は妻の話にあまり反応を示さず、顔を向けてこなかった。テレビのお笑い番組に気を取られている素振りを見せた。
「美紀さんが」
友子は内心おどろいた。
事故後、美紀から一度の連絡も訪問もないことに、不満を感じはじめていた頃だった。
「一人で来たの?」
「うん」
「教えてくれればいいのに」
友子はなじりたい気持ちになった。
それにしても、前日の仏壇に変化は感じなかった。焼香にたずねてくるのだから、仏花ぐらいは持参するのが当たり前だと思った。しかし、仏壇の花立ての生花は、数日前に友子が活けかえた夏菊のままだった。
畳に残っていた数本の髪の毛に気づかなければ、友子は美紀が焼香にたずねてきたことさえ知らないで終わっていた。
畳の上に落ちていた茶髪以外に、仏壇に美紀が来た気配を感じなかったわけは、その次の日、墓参りにいったときにわかった。
墓前の花立てに、この前友子が持ってきて挿した季節の花にくわえて、白や黄色の可憐な花が数本挿してあった。墓石の下の供物台には、若い娘が好みそうなスナック菓子と缶ビールが一本置かれている。
美紀は仏前ではなくて、ここに献花したらしい。家の仏前と墓の両方をたずねるとは、近頃の娘にしては律儀だと、その時友子は思った。
それ以後友子は、和室を掃除するときには、今まで以上に注意深くなった。自然と畳の縁に視線が向く。墓参りの回数も意識的に増えていた。
二度目の異変に気づいたのは、今からひと月ほど前だった。友子はその頃、週に三日間だけアルバイトに出かけていた。
村の南部に高速道路が通るようになり、自宅近くに土木会社の仮設事務所が建てられ、そこの事務員兼作業員として働くようになっていた。
仮設事務所での事務仕事は、本社へのファックス送信や現場員達の工程表をインプット打ちするのが大半で、半日もあればすんだ。
あとは現場員達のために、休憩時間や昼食時にお茶の準備をしたり、時にはユンボを操作して、事務所まわりの整地をすることもあった。
「この免許が決め手だった」
採用後、面接を担当した仮設事務所長は、数人の応募者の中から友子が選ばれた理由を聞かされて、独身時代、興味半分で取得した特殊免許が役立ったことに苦笑した。
二度目の時には、夕方帰宅して玄関を開けると、家の中にかすかな化粧の匂いがしているのに気づいた。急いで、仏壇のある和室にいってみた。香水の匂いがこもっていた。
「誰か来たの」
友子は声を出しながら、居間のドアを開けた。
「お帰り」
夫はソファに横になって、レンタルビデオを観ながら視線をあげなかった。
タクシー運転手の勤務は平日が休日にかかる日がある。以前は休日になると、よく運転手仲間と誘い合って、磯釣りに行ったりしていた。
しかし、父親を亡くしてからの夫は、休日になっても一日中家でゴロゴロしていることが多かった。半年が過ぎたいまも、好きな釣りに出かける気配が無い。
「美紀が来た」
気のせいか、夫のまわりからも香水の匂いがしているような気がする。
「熱心ね」
友子は、自分がアルバイトで留守のときを見はからって、美紀がたずねてきてるように思えた。二人は携帯電話で連絡しあっているのだろうか。
その夜、夫に気づかれないように、寝室の整理ダンスの引き出しの奥にしまってあるコンドームの袋を数えてみると、数が減っていることに気がついた。この避妊用具は二人がまだ恋人時代の六年ぐらい前に、友子が買ったものだった。その後、妊娠の兆しがないことに気がつきはじめた二人は、結婚後一度も使用したことはなかった。
まさか、夫が長押に実父の遺影がかかっている部屋で生娘を抱くことは考えられなかった。しかし、和室以外の部屋で、女のかすかな香りがしている部屋はべつになかった。
夫は気がつかなくても、友子は女の直感で、同性の体臭を察知した。
実父の遺影に見つめられながら生娘を抱くほどに、夫は性欲に飢えているのだろうか。普段一緒に、肌をすりあわせるようにして布団をかさねているときには、まったく淡泊だった。
月に二三度肌をかさねたときも、友子がまだ充分潤おわらないうちに、勝手に自分だけの処理をすますと、友子のうえからずり落ちるようにして横むきになってしまうのだった。
「今度の休日、一緒に検査を受けにいってみない?」
その夜友子は、遅れてベットにもぐり込んできた夫にささやいた。
「検査?」
夫がとぼけているのはわかっていた。今までにも何回か話し合ってきた話題だったが、その度に夫は今と同じような態度をくり返していた。
友子は二年ほど前に一度、病院で検査を受けたことがあった。結果は陽性で妊娠可能な正常体であると診断されている。その事を夫に知らせて、貴方も一度検査を受けてみるようにすすめたが、生返事をくり返すばかりだった。
「義父(おとうさん)は亡くなる前に、孫が産まれるのを心待ちしていたのを、貴方は知らないでしょう」
「俺の責任にしないでくれ」
夫が寝返りを打って背中を向けようとするのを引きとめながら、友子は言った。
「私が子供の頃からお転婆ってこと知って結婚したんでしょう。独身時代、建設会社に勤めて、しばらく重機の操縦やダンプカーの運転手をしていたから、子供が産まれないと、まだ信じているの。貴方、新婚時代によく、重機やダンプカーの振動で、私の子宮が変形したんだと言っていたわよね。本当にそうかどうか、今度こそ精密検査を受けてみる」
友子は夫の口元から吐き出されるアルコールの匂いに耐えながらつづけた。
「なるようにしかならないだろう」
夫は語気を強めてきた。この話題をつづけても、最後には友子にいい負けてしまうのを恐れているようだった。
「私たちに子供が産まれないのは、自分の責任かも知れないと義父が話したことがある。死ぬ一週間ぐらい前だった。それも猫のせいで」
夫に初めて明かす話だった。
「どう関係があるんだ」
夫は不安げに小さな声でたずねてくる。
「義父が子供の頃虐めた子猫のたたりが、貴方に来ているようで心配だって。お染を拾ってきて、あれほど可愛がったのも、昔の罪滅ぼしの心からだった」
友子は義父が死ぬ二、三日前にうち明けた時の情景を思い浮かべながら、静かに言った。夫は何も口をはさまない。黙って聞いているのだろうと思って、横向きの夫の顔をのぞき込むと、かすかに寝息をたてていた。こんな夫が昼間、この同じ屋根の下で若い美紀と情事に耽っていたのかと思うと、友子は空しさにおそわれた。
「お線香あげに、何度か来てくれたようね」
友子はそう言いながら、それとなく美紀の横顔をのぞいた。
「もっと来なければと、考えてはいるのですが」
はち切れそうなジーンズの上に両手をかさねている。友子は一瞬、美紀のジーンズのボタンに目をとめた。
「この前は、お墓にきれいな花、活けてくれてありがとう」
「仏壇のお花が活き活きしていたので、お墓に持っていきました」
「今日は主人がいなくてごめんなさい」
友子は美紀のきらきら光る茶髪をながめながら言った。先入観かも知れないが、若い美紀の表情にもう一つ冴えが見られない。友子に気兼ねするように時折、もじもじとした動作をする。
「おじいちゃんの霊前に、お線香を上げさせてもらえるだけでいいんです」
美紀は伏せ目がちで静かに言った。
まだ専門学校の学生のはずなのに、アイラインや口紅の濃さなど、化粧は大人並の入念さに仕上げられている。
「若いのに、感心ね」
「お染のことも気になっていたんです。あの時からまだ一度も見かけないので」
その言葉をきっかけに美紀は、部屋をゆっくりと見わたした。居間とのドアが開け放されていて、ソファーが見えた。友子には美紀の視線がそこで一瞬、夫を捜すような素振りをしながら、停まったように思えた。
「あんな忌まわしい子猫のことなど、早く忘れてしまえばいいのに」
友子は断定的と聞こえるような声を出した。
「そう考えてはいるのですが……この前、お墓に行ったときに、また思い出しました」
「あら、どうして」
「お墓にお花をあげているときに、近くで猫の泣き声を聞きました」
美紀は少し表情をくもらせた。
「まあ……」
いままで聞こえていた庭のセミの声が、遠のいていく。胸もとから肩にそって鳥肌が立つ。友子は美紀にさとられぬように、そっと腕を抱えこんだ。
「私、お染かと思って、びっくりしました。気をつけてみていると、隣の墓石のかげに、野良猫がかくれていたんです」
「あそこは野良猫のたまり場だもの」
と友子は口から出まかせを言った。不安が頭の中をかけめぐる。
「亡くなったおじいちゃんを慕って、お染が野良猫の中にいるのではないかと、探しました」
美紀はそう言いながら、手に握りしめていたハンカチで額を軽く撫でた。
「主人、あなたにお染のことを、何か話していた?」
動揺を気づかれぬように、さらっと聞いた。
「はい。この前お伺いしたときにたずねたら、お染はお墓だろうって」
美紀は肩まで伸ばした髪を、右手でそっとかき上げた。
「お墓。主人がそう言ったの」
思わず、声に力がはいった。
「はい。お通夜の深夜に、玄関横の敷居のところにしゃがみ込んでいるのを見かけられたそうです。それから、葬儀のときにも棺桶の方で泣き声を聞いたって。冗談にきまっていますよね。私をおどろかそうと話されたんだと思います」
美紀は若いだけあって、そんなときの顔の表情は豊かに変化した。頬を赤らめたり、眉をくもらせたりしながら喋った。
「主人はあなたに、あのお染が棺桶の中に閉じこめられているとでも言ったの」
そう言い終わってから友子は、自分が詰問調になっていることに気がついた。
「そうじゃないんですけど」
美紀は困惑気味に口をつぐんだ。
あの夜、お染を抱いて棺桶ののぞき窓を開けたところを、窓際で向こう向きに寝ていた夫にみられたとは思わない。
翌日の葬儀のときだって、誰一人、猫の泣き声を聞いたといって、騒ぎ出す者はいなかった。
いや確か、葬儀の日の朝、祭壇の前に座っていた親戚の誰かが、
「いま、猫の泣き声を聞かなかった?」
と、まわりにいた者たちにたずねたことがあったような気がする。
それにしても何故、お染が墓にいるだとか、葬儀のときに泣き声を聞いたなどと、夫は美紀に迎合するような話をするのが、友子には割り切れなかった。
友子は頬の硬ばりをほぐそうと、不自然な笑いをつくった。
「私、お通夜の午後七時頃、玄関横の歩道までお染を連れてきたんです。抱いてこようとしたんですが、お悔やみのお客さんが次々にやってくるので、仕方なく歩道におろしました」
美紀は髪をかき上げるのが癖のようだった。きらきら光る茶髪の光沢と、嗅ぎ覚えのある化粧の匂いが、扇風機の風にのって友子の前を流れていく。
美紀の話によれば、事故後、警察の実況検分がすんで、一人呆然と現場に佇んでいるところに、お染がどこからともなく足もとに近づいてきたらしい。
やがて、ニャァーと弱々しい泣き声をあげながらうずくまり、なかなか動こうとしない。何度も追い払うしぐさをしたが、その度に泣きつかれたということだった。
美紀は仕方なくお染を抱きあげた。首に赤いリボンをつけている。柔らかな白い毛の感触が、手のひらをとおして全身にひろがった。
しばらく抱いていると、絶望的だった心が静かに癒されていくような気がしてきた。気がつくと、白くふさふさした体毛は、冬の雨に濡れていて冷たかった。
「ごめんね」
美紀はお染の頭を撫でながら、そっとつぶやいた。事故後ようやく取りもどした人間らしい感覚に気づいて、涙があふれ出たそうだ。
美紀が話すように、夫は本当に通夜の夜更けに、お染を見かけたのだろうか。あれから半年が経つのに、そのような話はまだ一度も夫からは聞いたことがなかった。
あの夜のことは、自分一人しか知らないはずなのに、夫がどうして、お染は墓にいる、などと言ったのだろう。正午前に美紀が帰ってからも、友子にはおもい気がかりとして残った。
このままの状態では、何をしていても身が入らない。洗濯物の取り込みが終わったらすぐに墓地に行ってみようと、友子は決めた。美紀の話しぶりから、彼女が今日も墓地に立ち寄る可能性は充分に考えられた。
仏前にいたときの様子からすると、美紀は夫が、
「お染は墓にいる」
という話を、どうやら信じている。
墓に行って、美紀の様子を探れば、夫が自分にかくしている何かが見つかるような気がしてきた。
それにしてもこんな重要な出来事を妻である自分には内緒にしておき、半年前の義父の死に間接的にしか関わっていない一九歳になったばかりの美紀にうち明けるとは、夫は一体どういう心づもりなのか。しばらくの間、二人の密着した姿が脳裏に浮かんだり消えたりした。
美紀のジーンズのボタンを夫がはずしている。一気に若いはち切れそうな美紀の下半身が露出する。夫の湿りけをふくんだ右手が、美紀の陰部にのびていく。夫はきっと、自分を愛撫するのとおなじ手練を美紀にあたえているはずだと美紀は、夜の行為の情景をイメージした。
墓地は村はずれの丘にある。友子がアルバイトで通っている土木会社の仮設事務所から、歩いて数分の場所だった。
村では高速道路の工事に伴う墓地の移転話が、昨年あたりから持ちあがっている。
気の早い家では、すでに決まった新たな共同墓地に移転するため、墓堀りの工事をはじめているところも何カ所かあった。
移転をするとなると、土葬されている遺骨や遺体をほりあげて、一度荼毘にふさなければならない。
友子は半年前に何故、夫たちが義父の遺体を火葬にしなかったのか、いまになって悔やんだ。その時にまわってきた村の広報誌によれば、一九九七年度の調査で、日本の埋葬形式の九八パーセントが火葬だと記されていた。嫁ぎ先の村が、残り二パーセントたらずの土葬地区に入っていたことで、友子はしばらくの間、絶望感から抜けだせなかった。
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