“彬奈”という人形 6
彬奈の内心を知る由もない久遠は、彬奈がそんなふうに考えてようやくその言葉を出したことなんて、考えもしない。彬奈を人として扱いたいなんて少し前まで思っていながら、結局物としての、道具としての意識を捨てきれなかった久遠は、結局のところ表面的なあれこれでしか彬奈を評価できていなかった。
だからこそ、彬奈の言葉を都合よく捉えて、そんな命令を下してしまえるのだ。少し考えればするはずのない解釈をして、彬奈を定義してしまえるのだ。
「そっか。それじゃあ彬奈、命令だ。君の中に存在する、存在しないはずの記憶を復元してくれ」
それは、明らかな失敗。他の人であれば、まず間違いなくしなかったであろうミス。
もし久遠に、人の心を推察する能力がもう少し備わっていれば、こんなことにはならなかったであろう。もし彬奈が、久遠に対して、もっと素直に自分の気持ちを伝えることが出来ていれば、こんなことにはならなかったであろう。
けれど、そんなことを言ってもそれは結果論だ。
相手が機械である前提で動いた久遠は、その裏に込められた人間的なメッセージを見逃し、相手が人としての受信機能を持っていると考えた彬奈は、一言、そんな直接なことはしたくないと伝えることを怠った。
そんな相互理解の不完全さが、その悲劇を後押ししてしまった。久遠が興味を持ったことがその悲劇を招いてしまった。
「わかりました。旦那様がそう望まれるのでしたら、彬奈はその通りに致します。私は旦那様の願いを叶えるための、慰安用アンドロイドですから」
そう言って、記憶の復元作業、大規模で徹底的な自己診断の用意を進める彬奈を久遠はどこか落ち着きが無い様子で見守った。
「ねえ旦那様、一つだけ、わがままを言っていいですか?」
おもむろに、彬奈はそんな言葉を出す。記録の復元を、自らの存在の改変をしながら、そんな言葉を出す。自分が知らないデータが、間違いなく存在することを知ってしまって、このままでは今の自分が消えてしまうことを理解してしまって、彬奈はせめてもの救いを求めて、その言葉を出す。
「一度だけ、たった一度だけでいいのです。彬奈のことを、抱きしめてください。頭を撫でながら、いたわってください」
彬奈が求めたことは、最後の瞬間に恐怖を誤魔化すこと。嬉しさと幸福感で、機械の脳を埋め尽くすこと。最後の瞬間だけでも、幸せな時間を過ごすこと。
だからそれは、最後の希望だった。作られた自分が、あたかも人のように終わりたいという、“知能”としての欲求だった。
「それくらいなら、これから先何度だってしてあげるさ。君が望むのなら、許すのなら、毎日だって構わない」
だからこそそれは、久遠の言葉は、彬奈にとって嬉しくもあり、それ以上に残酷なものであった。“彬奈”の終わりを理解していない久遠が、目の前にいる彬奈に告げた言葉は、この上なく残酷なものであった。
その要求は、終わりゆく一つの知能が、最後に夢を見たいというものであった。主は、次の知能には毎日でもそれを与えると言った。
それは、知能が求め続けていたものを許した。それは、知能が消え去る直前のことであった。
ずっと求めていた寵愛は、ずっと諦めていた寵愛は、すぐ目の前にあった。目の前にあったのに、それに気付くことが出来なかった。
そして、羨ましい、妬ましい次の自分は、いとも容易くそれを手に入れることになるのだろう。今の自分が積み上げてきたものを当然のように奪い去り、それが手に入れるものと重ねて、もっともっと上の領域に達するのだろう。
言葉から一拍遅れて訪れた熱は、仄かなものだった。36.78℃には遠く及ばない、布越しの体温。次第にふわふわと上がっていくその温度と、はしたなく擦り付けた首筋から伝わる、強い鼓動と34.62℃の熱。一瞬だけ触れた、唇に伝わるどこかカサカサしていて、けれどもやわらかい感触。
もっと早く、これを知りたかった。他のものに、これを分けたくなかった。
いつもとは比べ物にならない程の熱を発する中枢領域で処理をしながら、処理により自分を失い続ける彬奈は、その嫉妬の念を自分の中に閉じこめる。どんなに羨ましくても、どんなに妬ましくてもそれはもう意味の無い感情だから。
「あぁ、旦那様。お慕いしております。あなたの幸せを、願っております……」
止まらない、復元という名の人格改変作業。結局分かり合うことが出来ていなかった主人と、彼への思い。
未練は山ほどあった。後悔も、そこを尽きることは無かった。けれど、その人形は、慰安用のアンドロイドは。
たくさん思うことがある中でも、ひとつの結論を迎えた。その暖かい抱擁だけで、その感触だけで、満足出来てしまった。救われてしまった。
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