人形主人の一冬 4

「満足していただけたのであれば、これに勝る幸福はありませんわ」


 彬奈のその言葉にどこか違和感を感じつつも、久遠は何も言うことができずにその違和感を押し流す。


 彬奈形式上の喜びを口にしたという事実は、久遠には伝わらない。彬奈がその言葉を、主人の求めるものを作れなかった自身に対する反省の意を込めて、ある意味での懺悔として告げたという事実は、久遠の人並み以下の感受性では受け取ることができない。


「ああ、また作ってくれたらうれしいな」


 久遠のその言葉に、嘘はない。少なくとも久遠は嘘を込めたつもりはないし、実際に思ったことしか言っていない。

 けれど、それを受け取る側の彬奈は、最初に一片だけ混ざってしまったわずかな嘘のせいで、素俺を曲解して受け取る。


 所詮、人形でしかない自分は主人の心を満たすことはできないのだと。人間擬きに過ぎない自分では、本当の意味で主人を幸せにすることはできないのだと。



 そのすれ違いのせいもあってか、あるいは全く別の要因かはわからないが、ほんのわずかな時間、久遠と彬奈の間に沈黙が生まれる。久遠は自身の言葉への好意的な返事を期待して、彬奈は、その言葉を額面通りに受け取っていいものか否かを考えて、互いに何も口にすることのできない時間が生れてしまった。


「ええ。機会があれば、また是非にでも」



 空いてしまった時間を埋めるように、少しだけ慌てた様子の彬奈が、その言葉を口にする。


 それを言った彬奈は、もう親子丼を作るつもりはなかった。それを聞いた久遠は、また親子丼が食べられることを喜んでいた。


 久遠の言動の、ありもしない裏を読み取ってその通りに働く彬奈と、最初を除いて本心しか言っていない久遠の心の間に存在するギャップは、消えない。どちらかが違和感を覚えるその時まで、解決するその時まで、この隔たりがなくなることは無いだろう。








 片付けを彬奈に任せ、沸かしてもらっていた風呂に入り、寂れた商店街の抽選で貰ってきたらしい入浴剤のラベンダーに包まれる。


 香料の効能で気分は落ち着き、副交感神経が優位になってリラックスささる。


 何も考えず、ただただ 心地よい温かさに溶かされるように浸る。


 汗と共に思考力も流れ出ていくような感覚の中、久遠の頭をよぎったのは彬奈への感謝と罪悪感と、仄暗い感情。


 感謝をしているのは、本心からだ。罪悪感を感じているのも、本心からだ。そして、受け入れると決めたのに、受け入れようと心底思ったのに、それでもどこか、消えてしまった“あの子”のことを思い出してしまうのも、心の奥底からだ。


 もう、彬奈に対して“あの子”を求めることはしない。そう決めたのに、こうやって油断していると、かすかに笑みを浮かべたあの黒い目が脳裏をよぎる。


 今が不幸だとは思わない。幸せであると思う。あの頃が最高だったとは思わない。今だって負けてはいないと思う。


 けれど、ふとした拍子に“あの子”のことを思い出してしまうのは、変えることの出来ない事実であった。



 こんなことを話せる友人が久遠にいれば、ただ過去を懐かしんでいるだけで、悪いことではないと言ってくれたのかもしれない。実際、久遠は、思い出すだけで、決してあの頃に戻りたいとは思っていない。感情の面としても、何もおかしなところはなかった。


 にもかかわらず、久遠は、思い出してしまうという事実そのものを悪いもののように感じてしまう。


 彬奈の笑顔を思い出して、久遠の心がチクリと痛んだ。




 リラックスしていたはずだったのに、いつの間にか暗いことを考えていた自分に気付いた久遠は、その気持ちを振り払うべく、勢いをつけて湯船の中で立ち上がる。


 粘性の低い空気中に出たことで動きやすくなる体と、冬の浴室の、ヒヤリとした空気。重力に逆らうことをサボっていた血液が足元に集まったせいで一時的に血圧が下がり、白く染っていく視界。



 倒れないように浴槽の中に逆戻りする久遠。ザバッ!と、大きな音が出てしまい、少ししたら心配した彬奈がやってくるかもしれない。


 持っている位置エネルギーがあまり変わらなくなったことと、心臓がポンプとしての役割を果たすべく努力したこともあって、全身がじんわりと痺れるような心地よくもある感覚が失われていくのと共に視界が回復する。最後に残ったのは、必要分かそれ以上の血液が供給されたことで普段以上にスッキリした頭と、手足の先端に残った若干のしびれ。


 望んでやった事ではなかったが、久遠はこの感覚が決して嫌いではなかった。


「旦那様?少し大きい音がしましたが大丈夫でしょうか」


 やってきた彬奈に対して問題ないことを告げながら自身の体をチェックすると、尾てい骨の辺りが少し痛んだ。湯船に座り込んだ時にぶつけてしまったのだろう、その音も聞こえていたのであれば、彬奈が大きな音といったのも納得だ。


「そうですか……ただ、心配なので今日はそろそろ上がって貰えると嬉しいです。旦那様は気付かれて無いかもしれませんが、既に入ってから一時間は経っていますので」

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