人形主人の一冬 3

「それじゃあ、そろそろ時間もあれだし、俺は帰ることにするよ」


 久遠がそう言って、奈央と自身の間に漂う心地よい空気を散らしたのは、それから三十分も経ったころだった。


 特に話し込むわけでもなく、だからといって黙っているわけでも、気まずいわけでもない。冬の気温とは似つかないような、じんわりと温まるような空気。


「わかった、じゃあおじさん、また今度暇なときに会おうね」


 突然寒さが戻ってきた中で奈央は今日も、聞き分けよく素直に別れる。そこにあるのは楽しかったという感情と、それが終わってしまうことに対する若干の寂しさ。


 そのことを押し込んで、奈央は目の前にある幸福を見送る。それを辿れば、少なくとも現在の状況よりはましになるということがわかっていても、それくらいには久遠のことを信用してたとしても、奈央はその道を選ばない。そうやって目に見えた幸せを求めることを、奈央は選ばない。


 だからこそ、本来それに気が付けたはずの久遠は悔やむことになるし、恨むことのなる。この時このことに気が付けていれば、もっと手っ取り早く解決できた。


 けれど、久遠の思考はすでに帰宅後のことにシフトしていた。だから、奈央の表情を注意深く見るようなこともなかった。


 久遠はベンチから立ち上がると、まだ座ったままでいた奈央に向かって軽く手を振って、二、三度振り返りながら公園から出て行く。残された奈央が、未練がましくいつまでも手を振り返したままなことになど、知る由もなく、久遠は手に提げていたビニール袋の中で冷えたままになっている缶チューハイのことを考えていた。



 一人残された奈央が手を振るのををやめた時の顔を、久遠は知らない。笑みが失われてわずかに歪んだ表情を、久遠は知らない。もう家に戻らなくてはいけなくて、けれどもそれをしたくない奈央の心のうちにある葛藤を、久遠は知らない。



 知らないからこそ、気付けなかったからこそ久遠は何も気にすることなく、自身の家に帰る。待っていてくれる人が、彬奈がいる家に帰る。




 ガチャリと音を立てながら鍵を開けて、少しだけ時間を置いて、財布の中に入っていた鍵をもとの位置に戻して財布を鞄の中にしまって、少しだけ息を整えてから扉を開ける。


 扉の向こうにあったものは、きちんと電気が付けられた明るい部屋と、その明かりを受けてエンジェルリングを浮かべた濡れ烏の御髪を備えたアンドロイド。


「おかえりなさいませ、旦那様。何か買ってこられたのですね、お荷物お預かりしましょうか?」


 久遠が玄関を開けるのに間に合った彬奈は恋人のように、使用人のように久遠に尽くす。極力久遠が不快にならないように気を使って、極力久遠が気分よく過ごせるように計算して、久遠のためだけに尽くす。


 久遠の反応から、かいがいしく世話を焼かれるのが好きだと判断して、けれど行動を制限されることは嫌いだと考慮して、言い回しの一つにも気を使いながら彬奈は久遠に傅く。



「ありがとう、彬奈。それじゃあ鞄と袋を持ってもらおうかな」


「お預かり致します、旦那様。袋の中身は冷蔵庫に入れた方がよろしいでしょうか?」


 彬奈の問いかけに対してYESと答えて、久遠は、手に持っているものを引渡す。丁寧にそれを受け取った彬奈は、自然な流れでそれを冷蔵庫の中に入れ、中身が入っていたビニール袋をクルクルとまとめた。


 久遠は、彬奈のそんな様子を傍目に見ながら部屋の奥へと進んでいく。自身の部屋の、ベッドの上。そこが、久遠がいつも座っている位置であり、定位置である。


 彬奈用の充電椅子もあるけれど、久遠はそこには座らない。普通の人が座ったところで、なんの問題も無い椅子ではあれど、そこは彬奈の専用スペースという認識の久遠は、たとえ疲れていて柔らかい背もたれ付きの椅子に座りたい気分だったとしてもそこに座ることは無い。


 それは、

 彬奈をモノとしてみていた時の、心理的な抵抗の継続であり、彬奈を人として捉えている今となっては、大切な人が大切にしているものに土足で踏み込むのはよくないななんていうありきたりなものでもある。



「旦那様、今日の晩御飯は特売で安くなっていた鶏肉の親子丼です。旦那様にとってはわざわざ肉を買うことは無駄に思えるかもしれませんが、彬奈の行動原理の中には旦那様が健康でいられるように計らうことも含まれていますので我慢していただきたく存じます」


 久遠が食べやすいサイズの丼をもって、やってきた彬奈に対して、久遠はいつものように、メニューに関してはわがままを言わないから彬奈がいいと思ったものを作ってくれと言う。だが、今の彬奈にとって“いいと思うもの”は、以前の久遠が好んでいたものの中でなおかつ比較的栄養バランスが取れていると思うものなので、久遠の言葉の真意は彬奈には伝わらない。


 久遠は言外に彬奈が以前のように戻ってくれることを望んでいるのに、彬奈はその言葉を額面通りに受け取って過去の久遠に合わせようと試行を重ねる。


 当然、そんなことでお互いの思いが功を為すはずがない。


 けれど、互いに何かを恐れてストレートに気持ちを伝えることはないので、その状態は改善しない。



「今日もありがとう、彬奈。親子丼は結構好きだから、うれしいな」




 彬奈のセンサーが、久遠の言葉に若干含まれているわずかな“嘘”を検知する。


 体温、脈拍、視線、その他いくつかの、アンドロイドに搭載された判断基準が、久遠の言葉を嘘であると検知した。気を遣わせてしまったことに、彬奈は反省する。主人に嘘を言わせてしまうような自分に対して、主人が気を使わなくてはいけないような状況を作ってしまった自分に対して、慰安用アンドロイドは自責の念を抱く。


 対する久遠は、そんなセンサーにかけられていることなど想像もしていない久遠は、彬奈が作ってくれた料理なら、彬奈が自分のことを考えて作ってくれたものであればなんでもうれしいという気持ちをそのまま伝えることができずに、親子丼が好きだと少しだけ虚偽を交えた発言をして心のうちの喜びを伝えた気になっていた。


 わざわざ分析をかけたりしないだろうという油断は、以前までの彬奈をもとにして立てたもの。当然だが、久遠は自身が少しだけ混ぜた嘘が彬奈にバレているなんて思ってもいない。


 そんなことは思いもせず、久遠は彬奈が作ってくれた親子丼を平らげる。間違いなく、久遠にとってはおいしくて何なら贅沢な一品だった。そこまで親子丼が好きではなくても満足できたくらいには、美味しく食べれた。


「ありがとう、彬奈。すごくおいしかったよ。また今度、鶏肉が安かった時にでもッ作ってもらえたら嬉しいな」


 その言葉は、まごうことなき本音だった。心の底からまた食べたいと思うくらいには、久遠の舌に合った。


 けれど皮肉なことに、そのときにはすでに、彬奈のセンサーはオフにされていた。通常状態よりもエネルギー消費量が著しく大きい分析状態をキープすることを、家庭の支出に気を遣うようになったアンドロイドが見過ごすはずもなく、その機能は基本的によっぽど彬奈にとって大事なことじゃない限りは使われない。久遠の食の好みはその条件下に収まっていたが、直前に好みではないとわかったばかりの食についての感想なんてわざわざ聞かなくても十中八九が酷評かお世辞だ。


 アンドロイドとしてわざわざその真偽を確かめる必要もないと考えた彬奈はその思考に従って、何もすることなく久遠の言葉をただのお世辞として受け止めた。






 ──────────────────







 たぶん半月くらいになります、お久しぶりですエテンジオールです。


 前回と前々回のあとがき(?)で話した通り課題とレポートがバイトすら許さない頬度みっちり詰まっていたので(自業自得)たいへん遅くなりましたが、この度、楽しめる最後の夏休みと呼ばれるものがやってきたので少し前までのうつろな時間を取り戻すべく更新を再開したいと思います。


 とはいえ、以前までのような毎日投稿は少しだけ難しいと思うので、二日に一回くらいを目安に(もちろん毎日更新を目指す(目指すだけ))頑張っていきたいと思います。


 以前のような、一日以内に動画と課題を十講義分以上片付けなくてはいけない日々とはおさらばしたので今度という今度こそ本当です。その証拠に、今月中には最低でも一本挙げて見せます。


 というわけで、“おかしくなったアンドロイドっ娘の中身をすげ変えようとしたら、消えたくないと泣き叫びながら必死で媚びてきた話”二章、長らくお待たせしたけど本格的な投稿はっじっまっるっよー♪


 ということで引き続きよろしくお願いします。

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