狂った人造少女、失われた安息 1
久遠が朝家を出た時から、どこかおかしな様子はあった。けれど、その時は今のような異質さはなかった。けれど今久遠の目の前にいる彬奈の姿は、控えめに言っても異様の一言だった。
「彬奈……?」
真っ暗な部屋でスイッチを押して明かりを灯し、久遠は彬奈にかけて問いかける。これまでも違和感に気が付くタイミングはいくらでもあったはずなのに、今日に至るまでそれをすべて無視してきた、見ないふりをしてきた久遠が、ようやく目の前にいる彬奈に関心を向ける。
「何でしょうか?お呼びでしょうか?ご用件がありましたら、お申し付けください」
そう言って一言だけ残して彬奈はまた一人虚空を見つめるだけの作業に戻る。
久遠の目の前にいる彬奈は、間違いなくおかしくなっている。久遠が意識を向けない中でどんどんおかしくなり続け、今やそれは取り返しのつかないところまで進行してしまっている。
毎食用意していてくれていた食事は、何も用意されていなかった。毎日作ってくれていた食事は、そこにはなかった。
「あの、彬奈?今日はご飯はないのかな?」
久遠は様子のおかしい彬奈に対して、恐る恐る話しかける。直前まで、子供が少し笑ってくれたことに対して感じていた小さな喜びは、彬奈の姿の前に吹き飛んでしまっていた。
「ごはん……ごはん?ひんなは家事用アンドロイドではないので、食事の支度は組み込まれていませ……『エラー』旦那様?いえ、申し訳ありませんお父様!もう間違わないので、どうかお許しください!!ひんなは壊れたくありません!!いやです!どうかそれだけはご容赦を、おねがいします、だめだめなきおくりょいきにこんどこそちゃんとかきこみますから、もうわすれないようにしますから!!だからこれいじょうひんなをこわさないで……」
突然、ソファから立ち上がった彬奈は誰もいないところに縋り付きながら、いもしない誰かに対して謝りだす。それを見ているしかできない久遠には、彬奈が言っていることのほとんどが理解できない。彬奈がどうしてこんな行動を取り出したのかも、全く理解できない。
ただ、理解できないなりにも、あるいは理解できないからこそ、何かよくないことが起きてしまっていることだけはわかった。
「ごめんなさい、おとうさま、ひんなはだめなこです。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……『エラー、感情値に異常が確認されました。緊急シャットダウンを実行します。……エラー、一つのプログラムにより、シャットダウンは無効化されました。一時的な感情制限を行います』……ごめんなさい、ごめんなさ……お帰りなさいませ、ご主人様。申し訳ありません、すぐに夕食の支度をしますので、シャワーを浴びて、少々お待ちください」
謝りながら瞳に白い輝きを生まれさせていた彬奈の異常は、突如挟まれた合成音声の直後、収まる。おかしくなっていた口調は平時のものに戻り、光を放っていた瞳はただの真っ白なものに戻る。
この時になってようやく、誤魔化しようのない異常が彬奈にある事を知った久遠は、目の前の彬奈に何か問いただそうと口を開いて、その目がすでに自身の方を向いていないことに気付き、おとなしく風呂場に向かう。そして上がって出てきた時、彬奈はまだ台所に向かって作業をしている最中だった。
毎回1合炊くと量が合わないからある程度まとめて炊いて、冷凍庫で保存していたご飯と、レンジを使って加熱時間をカットした野菜炒め、お湯を沸かすまでを電気ケトルで行って、鍋を火にかける時間を減らしたワカメと豆腐の味噌汁。コンロがひとつしかないワンルームでの、ほぼ最短に近い時間で彬奈は手早く調理を済ませ、できたものから順番に久遠の元まで運んだ。
「いただきます」
その様子に、不審な様子は見られなかった。最初に作ってもらった時よりも随分と手際が良くなっていることや、同じく最初の方と比べたときに態度が固くなっていることは、変わったことといえば変わったことであるが、不審と言うほどのものでは無い。アンドロイドも外部的要因で成長する以上、何も問題は無いと言えた。
少しでも状況を把握すべく、食事をしながら彬奈のことをじっくり観察する久遠とは対照的に、見られている彬奈は何も変わらない顔で使った鍋やフライパンを洗っている。
「ご主人様、食べ終わりましたら、すぐに片付けますので言っていただくか、食器を持ってきていただけると助かります」
突然、彬奈は手を止めて久遠の方に目をやり、それだけ言ってまたシンクの中に視線を戻す。ちょうど食べ終わった久遠は、使った皿を彬奈の下に運んだ。
「ごちそうさまでした。……ところで彬奈、少し様子がおかしいみたいだけど、何かあったのかな?」
久遠は皿を引き渡しながら、内心の緊張を隠し切れない様子で尋ねる。
「……様子がおかしい、ですか?彬奈の自己メンテナンスの結果はいつもと変わらないので、あまり自覚がないのですが、具体的にどのあたりに違和感を覚えたのかお聞きしてもよろしいでしょうか」
どのあたりも何も、さっきのあれが異常じゃなかったら何が異常なんだと思いながら、久遠は自身の視点から見た先程の出来事を彬奈に伝える。
「申し訳ありません、ご主人様。ご主人様のおっしゃる内容を記憶領域で検索したところ、保護プログラムによる規制に引っかかり、彬奈には認識できませんでした。かなりの異常事態ですので、彬奈を一度修理に出すことを推奨します」
その言葉は、久遠が初めて彬奈を起動した時に言われたもの。その時は聞いていなかった言葉が、今ようやく、久遠の元に届いた。
「そっか。じゃあ、ちょっと調べてみるよ」
久遠は彬奈の鞄の中に入ったままになっていた取扱説明書を初めてまともに読む。リサイクルショップの老人に、読むように言われていたのに読んでいなかったそれを、ようやく読む。
[慰安用アンドロイド第二世代、ハダリー型の取り扱いについて]
[本製品は、お客様のご連絡を受けてからオーダーメイドで製造しているため、返金及び返品交換は行っておりません。]
そこに書いてあった内容は彬奈の仕様説明と、保証期間についての記述。高い買い物ゆえか、あるいは思い入れが強くなる人型製品であるためか、保証期間自体はとても長く今も期間内にはなっていたが、正規のルートではなく中古品としてリサイクルショップを経由した久遠は対象から外れていた。
[修理に関しましては、オーダーメイドであるため、他の製品と比べて時間がかかるほか費用も高くなることが見込まれます。大切に使ってあげてください]
[第一世代の頃から言われていた記憶の復元及び他製品への移行ですが、現状実現が困難な場合があります。特に、中枢に改造が施された場合、中枢領域の交換以外には修理はほぼ不可能です]
[修理の可否については、10万円で不具合の精密確認を承っております。お手持ちのアンドロイドに不審な挙動が見られ、ウィルスなどが疑われる場合はご依頼ください]
修理にはお金がかかる。壊れていないのかの確認にも、お金がかかる。そして、彬奈を買うために貯金のほぼすべてをはたいた久遠には、そんなお金はない。
久遠は説明書をしまい、何も見なかったことにする。どうせ、気づいていたとしても直せないのだ。修理してもらうだけの貯金がないのだ。一番確実で安い方法である、中枢の交換ですら、5~10万と書かれていた。久遠にそんな余裕はない。
「ご主人様、洗い物が終わりました。彬奈は充電しておりますので、なにか御用があれば申し付けください」
真っ白になった瞳で、無機質に久遠の方を見ながら彬奈が言う。その彬奈の姿を見て、少し前までの彬奈の姿を想起した久遠は、交換するという考えを頭から払いのけた。あの時に一緒にゲームをした彬奈は、久遠が寝落ちするまでマッサージをしていてくれた彬奈は、交換してしまえば、永遠に失われてしまうことになると思ったからだ。
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