日記 しずく

中尾

第1話 犬の貴方へ、さようなら

 生きるとは、いずれ死ぬことだ。



 そんなこと分かっていたはずなのだ。生きとし生けるもの全てが、死ぬことなど、私がこの世に生を受けたときから、分かっていたことなのだ。


 君の寝顔を見ながら、思うことは昔の記憶などではない。どんなことを経験したのか、忘れっぽい私は、何一つ覚えていない。悲しいことに、何一つとして思い出せないのだ。それでも、そんな私でも、今この瞬間におけるまで君の幸せを願わなかったことはなかった。

 君には、もっと言えば君たちなのだが、幸せに最期を迎えてほしいと、そう思っている。君たちとは言葉が通じないから、どんな意思があるのか、想像するしかなかったが、君は多分、すこぶる優しくすこぶる阿呆だったように思う。

 目につくもの全てに興味を示し、それが何であれ果敢に挑む。無謀なのか勇敢なのか。君はよく吠え、そして行動が早く、よくご飯を食べていた。私たちの食べた後のヘタや皮であっても、それらを進んで食べていた。可愛くも阿呆な君は、あまり私たちから意地悪をされることなく、一方で君の兄弟は意地悪ばかりをされた。阿呆な君は毛布に頭から被り、自分のお気に入りの場所を探してはいつまでも動き回っていた。今ではその毛布に私たちが包めてあげている。これは悲しい変化だ。


 とても、とても悲しいことなのだ。


 君が幸せな人生を送れたのか、私にはとてもじゃないが自信はない。言葉が分からないからこそ、顔を見て意思疎通をしてきたが、それでも百パーセントの自信など無い。阿呆な君は、純粋な君は、幸せだったか?



 騒がしかったこの家も、君がいないだけできっと見違えるほど静かになるだろう。あれほど君の奇行を嫌がっていた君の兄弟も、君がいなくなった後、その存在の大きさを知るのだろう。私たちが思うよりずっと、君の兄弟は繊細だろうから、君の後を追うことだってあるだろう。悲しいことに、私たちはそれすら受け止めなければならないのだ。



 ありがとう。君たちには感謝をしなければならない。私の人生の帰路には、君たちの存在が必ずあった。君たちがいてくれなければ、どうなっていたか分からない時もあった。度し難い私は、やはり先人の言うように一人では生きていけないのだ。そして、その一人を回避してくれていた大事な存在の一つが、君たちだったのだ。


 優しい君たちは死んだ後、何になるのだろう。どこへ行き、何をするのだろう。どうしても君たちに会いたくなった私は、どこを迷えばいいのだろう。

 優しい君は、私のそばにいてくれるだろうか。君を探し、涙を乾かすことが出来ない私を、馬鹿だな、とそう言って慰めてくれるだろうか。


 答えはきっと、否だ。


 君は優しいが、その優しさと同じくらい阿呆なのだ。君は私の元に来る前にどこかで迷子になるだろう。他の事に興味を示し、そちらに行ってしまうだろう。分かっている。分かっているのだ。君がいなくても頑張らねばいけないことなど、分かっているのだ。悲しいことだがしょうがない。私はその覚悟を、今のうちから固めておかなければいけない。



 愛している。君たちを、そして君たちと一緒にいた私を。

 だからどうか、幸せで。幸せいっぱいで、眠ってほしい。最期ぐらいは、君が望むままに。

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