第23話 ゼロじゃない

 ノアザークは再び航海を始めた。


 スエズ港を発って、紅海を南下。


 紅海はアフリカ大陸の北東部と、アジア大陸のアラビア半島に挟まれた、南北に細長い内海。南端のマンデブ海峡で外海のインド洋と繋がっている。


 人類はこの紅海も地中海と同じように死守してきた。外海から来るネフィリム海棲種を海峡で食いとめて。だがバハムートの死で全ての海棲種が姿を消すと、そこの守備軍は暇になった。


 そこで『なら近くの陸の戦いを援護しよう』という話になる。紅海と並行するように陸地を南北に流れるナイル川、その中流にあるスーダンの首都ハルツームで。


 そこがアフリカの最前線。


 アフリカ大陸は現在、北緯15度 以南の大半をネフィリム陸棲種に占領されているが、陸棲種がそれより北上してこないのは、そこに広がるサハラ砂漠が生存に適さないから。


 ネフィリムは変異したクマムシ。クマムシは水分の多い環境でないと活動できず、乾燥地帯では乾眠して動けなくなる。怪獣になっても、それは変わっていない。


 だが北緯15度 以北でも例外的にネフィリムが活動できる領域がある。それが大陸中部の湿潤地帯から発して、砂漠を縦断して地中海へと注ぐ、ナイル川。


 川岸を歩き、乾いたら川に浸かる。


 そうすれば陸棲種も砂漠を渡れる。


 ナイル川の岸辺には人の居住地が広がっている。ネフィリムがそこを通過するなら住人は逃げねばならず、遅れれば喰われるか踏み殺される。


 逆に人類側がそれを阻止するには、ナイル川が砂漠へと入る一点を守ればいい。その防衛拠点が、ハルツーム。


 そこに紅海の戦力を合流させる。


 軍艦に紅海とハルツームのあいだに横たわる陸地は越えられない。だが艦載機のフラッドなら飛んで越えられる。


 ハルツームに近い海岸からフラッドを発進させ、ハルツーム守備軍に貸す。そういう作戦が始まっており、ノアザークもそれに加わる。


 ただ、ノアザーク所属フラッド隊の任務はハルツーム防衛ではなく、そこで陸棲種と接触して、メイミを通訳に立てて交渉の意思を伝えること。


 そのメイミは今、艦内の医務室で泣いていた。







 エイトとのデートから帰った晩、ユウトへの想いを確かにしたとたん、それが実らないと気づいたメイミは自室で泣き明かし。翌朝、VRルームでの訓練に向かう途中で憲兵長に捕まった。


 泣いた跡をメイクで隠して表情も平静を装っていたのだが、憲兵長の目は誤魔化せず『そんな状態で訓練なんてさせられない』と医務室に直行させられた。


 医務室でコグレ軍医長からメンタルケアを受けることになったメイミは、昨日のことを話している内に悲しみがぶりかえし、また泣きだして……軍医長に頼みこんだ。



「催眠療法、受けさせてください!」



 それは忘れていることを聞いて記憶を刺激する方法と並んで、失った記憶を取り戻すのに用いられる治療法の1つ。記憶は取り戻したくないと言っていた方針をメイミは真逆に転換した。


 だが軍医長は、すぐに治療を始めはしなかった。見るからに冷静ではない今のメイミに、それはできないと。なぜなら、そもそもメイミが記憶の回復を拒んでいた理由は──



「メイミちゃん、貴女それ『死にたい』ってこと?」



 記憶喪失の回復には2通りある。


 1つは単に忘れていたことを思いだし〖記憶喪失中の自分〗と〖記憶喪失前の自分〗の記憶と人格が統合されるパターン。


 もう1つは元の記憶は戻るものの逆に記憶喪失中の出来事を忘れてしまい〖記憶喪失前の自分〗は復活するが〖記憶喪失中の自分〗が消えてしまうパターン。


 どちらになるかは不明。


 治療時に制御は不可能。


 メイミにとって前者は『今の自分が希薄化するのでは』という不安はあるものの『消えるわけじゃない』ので、絶対に嫌というほどではなかった。


 だが後者は──それをどう捉えるかは人によるだろうが──メイミはそれを己の〖死〗と同義と考え、拒んだ。


 後者になる可能性がある以上、記憶の回復なんて望まない。そう言っていたメイミが治療を望むのは自殺願望の表明に等しい。



「死にたいわけじゃないです」


「本当に?」


「ただ、今のワタシじゃ、ユウトさんに愛してもらえませんけど。今の記憶を保ったまま昔の記憶を思いだせれば、ワタシはミコトさんと一緒に……って。もう、それしかないんです」


「だけど……今の記憶を失ってしまったら」


「その時は、その時です。いいんです。ユウトさんに愛されないワタシなんて消えちゃっても。ユウトさんに、お嫁さんを返してあげられるなら……!」


「やっぱり自殺じゃない‼ そんなの──」



「はい、ストップ!」



「「!」」



 カネコ主計長だった。いつのまにか医務室に来ていて、ヒートアップした2人のあいだに割って入って、呆れた顔をコグレ軍医長に向けた。



「医者まで興奮してどうするのよ」


「ツカサ……」


「マモル、ここはわたしに預けて」


「……うん、預けるわ」


「預かりました♪ ──ねぇ、メイミちゃん?」



 主計長がメイミに向きなおった。


 柔らかく落ちついた物腰。


 それでメイミも少し落ちついた。



「はい……」


「記憶を取り戻すの、わたしは反対しないけど。ダイチ大尉に想いを伝えてからにしたら?」


「ッ⁉ ……そんな、ユウトさんは」


「ミコトさんは愛してるけど、メイミちゃんには興味ないって、もう言われたの?」


「まだ、ですけど。告白したら、言われますよ」


「そんなの訊いてみないと分からないじゃない」


「そうですけど! ユウトさんがワタシを好きだと言ってくれる可能性なんて、限りなくゼロに近いです‼」


「でも、ゼロじゃない」



 そう言うと主計長は、自らの大きなお腹を撫でた。



「この子、幸せになれると思う?」


「えっ?」


「まず無理でしょうね。世界に怪獣がはびこってちゃ。だから『堕ろそうか』って、ずいぶん悩んだのよ」


「そんな⁉」


「この子をどんな危険や不幸からも守ることなんて、できない。この子が幸せに生きぬける可能性なんて、限りなくゼロに近い」


「!」


「……でも、ゼロじゃない。それを、わたしが勝手にあきらめてゼロにする権利なんてないって。それで産むことにしたの」


「ツカサさん……」


「メイミちゃんは、どうしたい?」


「ワタシは……」



 まんまと乗せられてしまった。


 だって、そんなの決まってる。

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