第53話 蜃気楼
帰って、風呂に入って、一言目。「アンタは来月から齋藤だから」と母に告げられた。「宜しく」と握手を求めた齋藤さんの手を払い
自室に
トボトボと夜道を歩き、立ち止まる。
土手には夏草の茂った小川。その上、赤石橋を数台の車が通り過ぎた。
——アオイ?
赤石橋の
向こうも気づいたらしく、手を振ってきた。こちらも恥ずかしながら、手を振り返す。
「こんばんは」と他所行きの、ツートーンくらい高めの声で、撫でられる。
「こんな時間に……眠れないのか?」
「シンジこそ、暗い顔して、どうしたの?」
言葉を探していた。言っていいのか分からず、互いに牽制するように、目線が飛び交い沈黙が続く。それでも、アオイならと口を動かした。
「俺、来月から齋藤になるんだって」
「あら、そぉ」
呆気ないほどの冷たい返答に、少しカチンと苛立った。
「あっ、そっ。って」
「中身が変わる訳じゃ無いんでしょ」
「そりゃ、そうだけど」
彼女は遥か先、闇に溶けるような山々を見つめていた。俺がこんなにも、アオイの事を見ていると言うのに。
「それより、私さ……もう投げられないかもしれない」
そう言葉を漏らした彼女の後ろ髪を、夜風が優しく凪ぐ。ふわりと耳に入った彼女の言葉。「マジか」とだけ呟き、見上げた夜空には月が浮かんでいた。
「試合の後、ユイナとキャッチボールをしてらた、肘に電気が走ったみたいにビリッとて……」
アオイが肘を壊したのだと、ようやく頭の理解が追いついた時、何故か父の言葉を思い出していた。父も受け売りだと言っていた。誰からの受け売りかは分からないが、その言葉は今でも自分の血肉となって、心の隅で生きている。
「マウンドで投げるなら、一人で投げ切れる投手になれ」
それが、小学生、初めてのマウンドに上がった自分に、父がかけた言葉だった。父はキャッチャーだった。草野球で四番打者を任されるような、打つことも守る事も出来る、信頼されるキャッチャーだった。そんな父が自分の球を受けてくれるのが嬉しくて、毎日毎日、大きなミット目掛けては投げ、父の声に耳を傾けた。
「自信のあるストレートを手に入れろ」
「タイミングを外す変化球を身につけろ」
「調子が悪い時に使える変化球をもう一つ」
それを呪文のように言い聞かされた。勿論、変化球は体が出来てからと言われていたが、こっそり練習して投げれるようになったスライダーは、少しだけ大人になったようで嬉しかった。
毎日毎日、投げた。部活動の時、帰った時。少しずつ速くなるストレートを褒められる度に歓喜し、自分の価値は投げる事にあるんだと感じていた。自分という人間のほとんどが、野球というスポーツで構築されていた。
肩を故障した。もう本気で投げる事は出来ないらしい。いや、本当は投げれる。安静にし経過観察を重ねれば、少しくらいなら投げれる。ただ、そこに何の意味があるのか、自分では価値を見出せなかった。
「野球は続けろよ」と言った、遥か昔に出会った少年。その言葉が、今も不安定な自分を
「野球は続けろよ」
「……投げれなくても、いいの?」
「アオイはアオイだろ。別に中身が変わる訳じゃ無いんだろ」
「はぁ〜」と長い溜息が聞こえた。でも、いつも通りのアオイらしい顔つきに戻っている……そんな気がした。
「カッコつけないでよね。何も覚えてない癖に」
初めてアオイの球を受けた時、彼女が言ってた130キロはハッタリだと気づいた。それでも、サブマリンのような投球フォームから繰り出される、浮き上がるストレートは、十分に通用すると感じた。そして、スローカーブ。父の言っていたタイミングを外す変化球も兼ね備えていた。もう一つ変化球があれば……俺はアオイに、いつしか自分の理想を託していたのかも知れない。
「最初に投げたアオイの球は覚えてる」
「ホントに!」
「あぁ、転校初日に……」
更に重いアオイの溜息が木霊した。
「そんな事だろうと思った。アンタ鈍感だもんね。信じて損した」
「どう言うことだよ」
「はいはい、そんな事よりユイナを頼むわよ」
こうなってはユイナに頼らざる負えないが、何故、そこまで固執するのか分からない。
「何でそこまでユイナに?」
「最後まで投げ抜き、自信の持てるストレートとタイミングを外す変化球を持ってる。あと一つ変化球を覚えたら、理想的だからよ」
「……なんで、知ってんだ?」
それ以上、アオイは口を開かなかった。顔に張り付く髪を掻き上げ、一歩、また一歩と近づく。襟首のヨレたティーシャツが少年の目には悩殺的で、ゴクリと情けなく喉が鳴った。
吸い込まれそうな漆黒の眼。その瞳が自分を一心に捉えて離さない。
目と鼻の先、アオイの足が止まる。風でそよぐ黒髪からは石鹸の
夜更けの田舎の街道に、人通りは全くと言って良いほど無く、終電を逃した酔っ払いもいない。黄色に点滅しだした信号を、車が通り過ぎる事すらない。朝に鳴かない虫の音と、小川のせせらぎだけが、世界を作っていた。二人は見つめ合っていた。
フッと彼女は妖艶に音もなく笑う。距離が更に近づく。そして、唇が重なる。
脳は蕩けるほど永遠にも感じられる刹那。眼を開けたまま、瞬きすら忘れていた。アオイは、たぶん目を閉じていた。苗字が変わるなんて戯言は、もう、どうでも良くなっていた。
彼女の華奢な腕が、さらに近くへと抱き寄せる。彼女の腰に手を添える。
「もう、忘れないでよね」
何を覚えておけば良いのかも分からぬまま「分かった」と力強く返事をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます