第48話 ユイナ、投げられます!
ハヤトの懸命な躍動が残像のように頭に入る。ボールはゆっくりと流れる。無意識に体はタイミングを計り、じわじわと迫りくるボールの動きに合わせて、テイクバックを取っていた。
空振りをするつもりだった。ワンストライク取られても、ランナーを二塁に進める事が出来れば、勝機を掴めると踏んでいた。異変に気づいたのは、たぶん、この時だ。
——ボールが遅い!
走馬灯のように世界がゆっくりと動いていた。初めての感覚。思考だけが巡る不思議な感覚の中、頭は冴えていた。ゾーンに入ってる……なんて感じがした。
これが、超一流選手だけが体感する、ゾーンってやつなのか、どうかは定かではない。
あれだけ騒がしかったスタンドの熱狂はやけに静かで、自分の心臓の鼓動だけが、非常に近くに聞こえた。
目線はあちこちに飛ぶ。ありとあらゆる情報が、頭の中を駆け巡る。出遅れたハヤトのスタート。ただ、ひたすら声援を送る保護者と応援に駆け付けた生徒のいる観戦席。ハヤトのスタートの悪さに気がついたのか、落胆する表情を隠せない見方のベンチ。アオイの少し悲しそうな、儚げな顔。ユイナだけは、何処か先、次を見据えたように落ち着いた表情をしていた。
目線が千切れる。相手投手は、凄い剣幕で投げ切っていた。決して、このゆっくりと流れる白球が、スローボールの類では無いと証明していた。
体は(空振りをする)という意識とは別系統で、バットを力強く握らせる。頭に思考が巡る。
——この球は打っていいのか?
とある日の道徳の授業を思い出していた。「盗塁のサインを無視して、サヨナラホームランを放った少年は正しいのか」といった内容だった。クラスで話し合い、結局はどっちつかずで、なんとなく打ってはいけないみたいな、曖昧な終わり方をした覚えがある。
道徳の授業はいつも眠たい。それでも脳裏をかすめたのは、机上で野球を知らない人達が、野球を話し合う事に違和感を感じたからだ。野球を知らない人間が、その良し悪しを決める事が腹立たしかったことを思い出す。
「勝ったんだから、良いじゃん」
「むしろ、英雄じゃね」
「いや、倫理的にダメだろ」
——勝手な言い分だ。そもそも、倫理ってなんなんだ。
飛び交う意見の中。「これは皆んなで決めた作戦なんだから」そんなことを言っていたアオイの顔が浮かぶ。ハヤトを二塁まで進めて、ワンヒットで勝負を決める。これは、チームの意思表示。盗塁こそが、みなで決めた勝利への道筋。
——打ってはダメだ。
ハッと我に帰るとボールは目の前で、打って下さいとまでに静止していた。体は無意識のまま動いた。目は白球に釘付けだった。時が止まっているかのようだった。(ダメだ)と念じる意思とは裏腹に、テイクバックを十分にとった体は、タイミングを合わせ、まるで捻られたゴムが元に戻るかのように、バットを螺旋に動かす。
それは、まるでバッティングセンターで打つかのような、無駄な力の抜けた完璧に近いスイング。
「キーン!」と金属音。それを皮切りに全ての音が耳に入ってくる。ゆっくりと流れていた白球は、左中間へと勢いよく飛んでいった。体は無我夢中に一塁へ走り出す。(打ってしまったのだから仕方がない)という言い訳も微かに芽生えた。
——この一打で決めなくてはならないんだ
一塁ベース上、祈るようにハヤトを眺めた。後方守備をしていたセンターは思いの外、早くボールに追いつき、中継に入ったショートにボールが繋がる。
ハヤトは三塁ベースを蹴っていた。スピードは衰えず力強く赤土を蹴り飛ばす。陸上の短距離、一蹴り一蹴り毎に加速する、まさにスプリントの走り。みんなの膨れる上がる希望を一身に背負うっているみたいだった。一歩一歩を噛み締めるように、細身の脚が地面を弾く。
「ハヤトー、いけー!」
右手を掲げていた。大声で叫んでいた。
ユウキが転がるSSKのバットを引き、腕を大きく振り下ろし、「右だ!右に滑れ」とバックネット側に誘導。
ショートからはワンバウンドで相手キャッチャーミットに届く。ハヤトは掻い潜る様に足から滑り込み、左手をホームベースに伸ばすと、乾いた砂塵が舞った。
一瞬の静寂に、ゴクリと唾を飲む。
……刹那
「セ、セーフ!」
大きく躍動する主審の一声。霧が晴れたかのように露になる映像。ホームベース上には、敵のミットを搔い潜ったハヤトの左手が、堂々とした存在感で乗っていた。
サヨナラ勝ちの歓喜。蜂の巣を突いた様に、ベンチから湧き出すチームメイトが、ハヤトの下に駆け寄る。僕も上げた右手を下げるのも忘れて、駆け寄った。ユウキは泣いていた。
「ゲーム!一同、礼」
「「「ありがとうございました」」」
整列し帽子を取り頭を下げる。
やっとの事で長い長い決勝戦を戦い抜き、県大会の切符を手に入れた。後は表彰式を控えるだけとなる。(アオイのクールダウンは付き合わないとな)と思い、ベンチ内を探すも見当たらず、服の裾を引っ張られる。
「私、次は投げれます。だから、お願いです。ピッチャーをやらせて下さい」
歓喜が冷め切らないままの、次を見据えた一言に「あぁ、頑張ろうな」と活気ある言葉が溢れた。が、それよりも、ユイナのその先、アオイの冷たい視線が少しだけ気になった。
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