WWⅠ 帝国陸軍欧州派遣軍

極月ケイ

第一章 欧州派兵

第1話 道奥の端ての者

 第一次世界大戦、今日こんにちこう呼ばれる世界を巻き込んだ戦争を、当時は「世界戦争」、「大戦争」、「欧州大戦」、「戦争を終わらせるための戦争」等と呼ばれていた。


 私にとって言わせれば、世界大戦あれは、私の人生の一部だった…



 明治21年(1888年)の8月15日、私は日本最北端の土地、「道奥みちのおくての地」とも云われる、奥端おは県の奥端の城下町で生まれた。

 名を藤条とうじょう 智尋ちひろと云う、旧奥端藩足軽の藤条家の長子だ。



 ここで少し、私の生まれ故郷である奥端と、私の実家である藤条家についてしるそう。


 奥端の町があるのは、樺太島の北端の地で、もっと言えば、日本列島の北端に位置する所である。

 奥端の町は、奥端藩の本拠地として栄えた城下町であり、奥端城を囲むように、碁盤の目の様に通りが造られた町だ。

 奥端藩のある地は、元々は北条小田原藩の領地であった。


 北条小田原藩は、戦国末期の豊臣氏による小田原戦役後、相模国の相模川以西と、伊豆国一国を安堵され、幕末まで続いた雄藩だった。

 その小田原藩は、徳川幕府による鎖国後も、イギリスと伊豆諸島、小笠原諸島で交易を続け、三浦按針ウィリアム・アダムスから指南された造船能力を維持し、大船の運用を幕府から許され、対英交易で力を蓄え、北の地の開発を幕府から任された。

 小田原藩は、松前藩並びに東北諸藩と共に、十州島と樺太島、千島列島の開発に着手したが、その地があまりに広大であったが故に、幕府にその事を報告し、一時的に幕府の天領として欲しいと申し出た。徳川幕府はその申し出を受け、一度その地を幕府天領とし、検地と測量を行い、朝廷に対して、琉球と共に、令制国に組み込む様に嘆願した。

 こうして、十州島はその名の通り十の国から成る地となり、樺太島は六つの国から成る地、千島列島は千島国と定められ、これらの国は北海道とされ、日本ひのもとは五畿八道と成った。

 その後江戸幕府は、北方の開発を重視して、樺太南部を北条氏に与え、その地には、北条小田原藩の支藩、北条豊原藩が誕生する。それと時を同じくして、樺太北部には幕府から命を受けた北海ほっかい氏が、千島列島には千島氏が赴き、同地の開発を行った。


 北海氏はもともと幕臣であったが、北条氏の流れをくむ者で、樺太北部に所領を与えられた際に、「北海」という姓が与えられた。その北海氏の所領が、樺太島の奥端国、縫江ぬいえ国、後戸のちと国の樺太北部三国であり、その統治の中心地が、奥端の町であった。

 奥端藩は、北条氏がイギリス商人から得た知識を元に、北欧諸国の様な、丸太と石、土の屋根と芝生で出来た家を城下に建てさせ、樺太島の寒さを凌ぎ、間宮海峡を越えて、シベリアの諸民族やロシア商人と交易し、幕末まで存続した。


 幕末に戊辰戦争が起こると、奥端藩は最初は中立を貫いたが、江戸城が無血開城すると、新政府に与し、函館戦争に参戦した。

 奥端藩は、明治維新後の廃藩置県の際に解体され、奥端国は奥端県となり、奥端の城下町は、奥端県の中心地となった。


 その、奥端の城下町に住む藤条家は、奥端藩の世襲の足軽であった為に、明治維新後に父、智兵衛ともべえは、最初は卒族という身分を与えられ、明治5年に卒族という身分が廃止されると、士族へと編入された。


 ちなみに、明治9年に元勲である岩倉氏と木戸氏が尽力した事で、明治17年に、士族には士爵という爵位が与えられ、名ばかりではあるが、士族には一応の箔がついた。


 話を戻そう、我が家は所謂いわゆる貧乏士族ではあったが、父は母と、私を含めて三人の男子に恵まれて、幸せだったという。


 父は安政4年(1856年)に、奥端藩足軽、祖父、智左衛門ともざえもんの一人息子として生まれた。祖父は、奥端藩が新政府軍として参加した戊辰戦争(1868~1869年)で戦死した為、齢13の頃にその後継者として足軽を世襲した。明治2年のことだった。


 祖父の智左衛門は、奥端藩で整備された西洋式軍隊の歩兵隊で、今でいう下士官の様な役目を担い、中間ちゅうげんや小者の兵卒と共に、函館戦争で戦ったと聞く。


 父は奥端藩の足軽の頃、城下の警備と、畑仕事をしていた。奥端の町の外に広がる麦畑で、父は、畑仕事をする際は、農民さながらに農業をしていたという。その時に、農家の末娘であった母ミヨと出逢い、後に結ばれた。


 明治4年の廃藩置県の時に、知藩事の役を解かれる寸前の前奥端藩主の命により、父は取締方とりしまりがたとなり、明治5年には取締方は改称され、邏卒らそつと成った。なお、取締方、邏卒とは、今でいう警察官だ。その邏卒の名称も、明治7年には巡査に改められた。

 父、智兵衛が、取締方、邏卒となった最初の頃は、警察の仕事を与力や同心の様なお役目だと認識していたらしい。

 明治13年に奥端県警察本署が置かれる。この時父は、24歳となり、階級は一等巡査に成っていたという。

 父は警察官として真面目に働き、私生活では質素倹約に努め、31歳に成った時に、母であるミヨと結婚した。

 それから1年後、私が生まれることになり、それから2年後の明治23年に、弟の智永ともながが生まれ、三男 智義ともよしは明治26年に生まれた。


 以上が、奥端と藤条家の事である。



 私はというと、尋常小学校卒業迄を奥端で過ごし、卒業後は、奥端藩最後の藩主であった北海ほっかい 康政やすまさ氏が、東京で元奥端藩士や領民の為に無償で営んでいた寮に入り、その後陸軍幼年学校に進み、予科、本科を経て、陸軍士官学校に入り、明治41年5月、陸士20期を卒業し、同年12月、私が20歳の時、歩兵少尉に任官した。


 私が陸軍に進んだのは、簡単に言ってしまえば、家計の為である。あの時代はそういう者がごまんといた。


 明治44年12月には歩兵中尉に昇進し、大正2年12月には、陸軍大学校に入学し、大正5年11月に陸大28期を卒業し、樺太の第八師団、歩兵第八連隊付を拝命。

 この時の私は、陸軍士官として順調にその道を歩んでいた。

 個人としても、陸大に通っていた頃の行き付けの喫茶店で出会った、ゆきという女性と結婚し、実に満ち足りていると実感したものだ。


 この頃の世界はというと、大正3年、1914年の7月28日に勃発した世界大戦の最中であった。

 英国等の要請により大戦に参戦した日本は、青島チンタオや南洋のドイツ帝国軍を撃破、東洋の敵対勢力を駆逐し、東亜は安泰であり、大戦は遠い欧州ヨーロッパの出来事であると、あの時の私には思えた。


 だがついに、あの日を迎える…


 大正6年(1917年)2月1日、私は歩兵大尉に昇進し、第八歩兵連隊中隊長を拝命した。そして、その日のうちに、欧州への派兵を命じられたのだ。

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