無傷ではいられない

小さい頭巾

1、結城 奏太(1)

 【結城 奏太】


 頭の中で文字が飛び交う。


 目に入ってきたものに対して色んな感情が湧く。綺麗だなとか、面白いなとか、不快だなとか。光があれば僕はそれを感じ取ることができるし、僕の思考はしっかりと機能している。僕だって人間で、周りにいる人たちと同じ人間で。だから僕の脳はいつだって働いている。寝ている時も起きている時も。


 朝目が覚めて、カーテンの隙間から漏れる太陽光を顔に浴びる。その隙間に手をかけて思い切り開くと、ベランダにいた数羽の雀が羽ばたいていった。


 布団を畳んで、着替えを済ました後は階段を降りながらゆっくりと息を吸う。下から漂う朝食の香りが僕の嗅覚をくすぐる。この匂いは味噌汁と卵焼きに違いない。


 リビングに置いてあったのは予想の通り味噌汁と卵焼きだった。母は僕が降りてきたのを確認すると、机の上に茶碗一杯のご飯を追加してにこりと笑った。甘さの際立った卵焼きが味覚を刺激する。脳が今日という一日の活動開始を身体全体に合図し始める。今日は始業式だ。今日からまた二学期が始まる。


 朝の支度を全て済ませて、僕は玄関を出た。後ろを振り返ると母が手を振っていた。僕も振り返した。


 外は日光がこれでもかと言うほどに照っており、半袖のシャツを着ている僕の腕はピリピリと痛みを感じるほどだった。学校に近づけば近づくほど、道を歩く生徒の数は増えていく。地面を見つめて無表情の人もいれば、友人と笑い合っている人もいる。今日もいつもと変わりはなかった。


 学校での生活は平和そのものだった。友人がいたわけでもなかったが、それは僕にとって悪いことではなかったし、いない方がむしろ気楽であるという考え方だってある。僕の考えはむしろそれしかなかった。


 僕の周りでは何も起こらない。恋愛も青春も、事件もいじめも何もない。実際には何かが起きているのかもしれないけれど、僕には届かない。だからいつだって僕と僕の周りは何からも無縁だし、何があっても無傷だった。


 僕はそんな生活が、そんな生き方が、とても心地良かった。


 ずっとこんな人生が続けばいいのにって思った。


 一学期の試験の結果はすこぶる良好だった。二年生になってから僕の上にいるのは三人くらいで、僕は成績トップに居続けていた。この地位に立つことで学生であることを実感できるし、学生である意味を持つことができた。それに僕はこれだけの結果を残さないといけないと感じていた。


 今日は始業式。


 夏休みは終わりを迎え、二学期に突入する。


 担任の先生が教室に入室すると、生徒は皆席に着き始める。担任の隣には見知らぬ男子が一人立っていた。あそらく転校生だろう。今日からこのクラスの一員になるようだ。髪の毛はワックスでガチガチに固められており、ズボンも早速着崩していた。正直第一印象はあまり良くなかった。


 転校生は黒板に自分の名前を書き上げる。


『柏木辰巳』


 彼はそこそこに挨拶を済ませると、満面の笑みで深々とお辞儀をした。彼の指定された席は僕から大きく離れていた。やっぱり僕の周りでは何も起こらない。こうして転校生が来たところで、僕の生き方は何も変わらない。


 柏木君は転校初日にして、放課後には五人以上のグループの中で笑いながら会話をしていた。端から見ればまるで数年来の友人が、気を許して笑い合っているようにしか見えない。彼の社交性は一般人のそれと比べてもずば抜けていると見た。人の懐に入るのも距離の取り方も、相槌の打ち方も全てがきっと完璧なのだ。そうでなければああはならない。少なくとも、僕には無理だ。どう転んでもあんな風にはできやしない。


 彼の周りはキラキラと輝いている。


 放課後誰もいなくなった教室にも、彼が残した煌びやかな空気感はいまだ漂っているようにさえ感じた。


 下駄箱を抜けてそして校舎を一歩出たところで、朝にも感じた日光の痛みが再びピリピリと腕を刺激する。校庭にはグラウンドを走る野球部員。花壇から漂う土の匂い。色んなものを感じ取る。色んなものを受け取る。


 他のみんなと同じように。僕にも色んなものが感じ取れる。

 

 家に帰る途中、肩をトントンと二回叩かれた。振り向くとそこには柏木君がにっこりと笑って立っていた。


『同じクラスだよな』


 顔すら合わせていないというのに、僕のことを覚えていることに驚いた。僕はこくりと頷いて肯定すると、彼は右手を差し出して握手を求めてきた。


『帰り道一緒だ。よろしくな』


 彼は本当によく話す。色々聞いてくるし、色々伝えようとしてくる。正直そんなことしてくれなくていいと思った。気を使われている気がして嫌だった。クラスの中に溶け込んでいない僕を見て、優しさから話しかけてきたのだったら今すぐにでもやめてくれ。そう伝えたかった。でもそんな僕の気持ちはお構いなしに彼は勝手に僕との距離を詰めようとしてくる。


 ああこういうことなのかって思った。こういうことが大事なのかって、そう思った。でも僕はそれを理解したところで、受け入れたくはなかった。


 彼のこの行為を肯定したくなかった。


『またな』


 柏木君の家は僕の家より先にあるらしい。柏木君は僕に手を振って、そして駆け足で帰っていく。


 嫌な予感がした。もしかしたらこれがこれから毎日続くんじゃないかって思えたからだった。僕の家がここにあって柏木君の家がこの先にある限り、彼は僕と帰ろうとしてくるんじゃないだろうか。迷惑だ。でもそんなこと伝えられるはずがなかった。もしこれが彼の善意であったとしても迷惑だし、彼にとってなんてことないただの成り行きであったとしても迷惑には違いなかった。


 でも残念なことに僕のこの予感は見事なまでに的中してしまったのだ。


 柏木君は毎日のように僕の帰り道についてきた。タイミングさえ合ってしまえば朝だって僕と一緒に登校しようとしてきた。教室で一緒にいることはほとんどなかったけれど、学校の外に出てしまえば彼は僕の隣にいた。

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