第2話 昼食
夢なのかもしれないと、このまま目を覚ます気がした。毅はまれに自分の夢の中の対話をしたまま目を覚ます。あんたは自分の寝言で起きると母によく言われた。さぁ俺よ今すぐ目覚めよと念じたが何も起こらない。
田中という女は毅に「いいボケだったよ」と言いつつ名刺を寄越した。
田中良子とあった。
正午になると各々が弁当を取り出したり最寄りの大衆食堂に向かう。毅は田中良子から距離を置くためにいつもならコンビニで弁当を買ってきてデスクで食べるが、外食することにした。
すると田中も立ち上がり彼の手を握った。彼女のもう一方の手には車の鍵があった。
後のことを踏まえれば、彼はこの手をはなすべきであった。
駐車場は入社して数度しか立ちよったことがない。数ある車の中で唯一の黄色い車に案内され、そのまま出発した。
「どこに行くんですか」
「どこがいい?」
「お任せします」
「じゃあルビーやな」
聞いたことがない店名だった。彼は、やはり乗るべきではなかったのだと後悔しはじめた。
「敬語はやめて。朝から気になってた」
「いや、でも俺は誰にでも敬語なんですよ」
「いや職場ではいいけれどさ。こういうフリーな時にも気を遣わなくていいよ。パートナーなんだし」
「パートナーですか」
「そう。パートナー」
男女の関係をパートナーと表現するとき交際相手という意味が一般的なはずだという毅は、戸惑う自分の顔がルームミラーに写った。首を絞められているかのような顔色だった。かつて経験したことのないほどの心拍数だった。心臓が痛くなるほどの鼓動を耐えつつ眺めた彼女の顔は、平静であった。
ルビーとは喫茶店であった。二人の顔を見るなり、いつもありがとうございますと店員の女が言う。ランチもしているのだが、やはりメニュー数は少ない。カレーか魚かハンバーグであった。
「お弁当もあるみたいですし、買って戻りませんか」
「ダメ。打ち合わせするんだから」
彼女はタブレットを取り出した。ワードを開いて、物騒な文言が箇条書きで記されていた。
・湿原の死体
・抜き取られた内臓
・鳥葬
・食人族
・新興宗教
「なんですか、これ」
彼女は信じられないという目で毅を見た。店員にはカレーを二つと勝手に注文した。
「ホラー小説の合作のアイデアよ。貴方から誘ったんでしょ。君にできる限りの恐怖を俺に見せてくれって」
「いい加減にしてください。そんなのした覚えはありません」
氷水を飲んだ。頭が熱くなるのが分かる。自分は今、腹が立っているのが分かる。アラサーになってからここまで腹が立ったのも久しぶりだというほどだ。
一方で田中はといえば、憎々しげに顔が歪む。そして目頭から涙が落ちた。
「そんなの、ないよ。合作を誘ってくれたときに、私がどれだけ嬉しかったか想像できる? ずっとひとりで書いてきたものをようやく共有できるんだって、大人げなくはしゃいだんだけど。毅くんが私の小説を面白いって言ってくれたときも嘘だったわけ」
「貴方の小説を読んだことはありません。もっと言えばです。そもそも貴方とは会ったことがありません」
毅はこの一言を放つ決意をしたとき、なぜ今まで言わなかったのか不可解であった。
「そう。分かった。私が誰かも分からないととんでもない嘘をついてまで合作はしたくないわけ」
「そうじゃない。本当に貴方のことを知らない。貴方の席にいたのは大城という40がらみの男だ」
「ふざけたことを言わないで。じゃあなに、三門さんや明美や金沢常務やらも初対面っていうの」
「彼らは知っています。貴方だけが知らない」
「私を馬鹿にしてるんだ。合作がめんどくさくなったのか知らないけれど断るならマトモに断ってほしかった」
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