5-3 ご主人様にいただいた大切なものですから

 それからしばらく、ハジメはその輪ゴムを指につけて過ごしていた。

 どうせすぐに捨てるのだろうと思っていたが、これには予想を裏切られる結果となった。しかも暇さえあればそれを眺めて微笑んでいるのだから、さすがにいたたまれなくなってくる。


「お前、まだその輪ゴムつけてるのか」

「ご主人様にいただいた大切なものですから」

「そんなもん大切にするなよ。ただの輪ゴムじゃねぇか。貧乏くさいからいいかげん捨てろって」

「嫌です」


 ハジメは輪ゴムをつけた左手をかばうように抱き込み、非難がましく俺を見る。

 もしかしたら、一昨日の昼あたりに俺がふざけてゴムを引っ張ったことをまだ恨んでいるのかもしれない。

 犬からお気に入りのおもちゃを取り上げるようで、少々気が咎める。


 結局、俺は「なぜあんなものを渡してしまったのだろう」と後悔するはめになった。


    ◇ ◇ ◇ ◇


 それから一か月経ってもハジメの指には輪ゴムが巻かれていた。

 汚らしくなろうものなら文句のひとつも言えるが、どうやらたまに水拭きなどで念入りに手入れしているらしく、黒ずんでくる気配さえない。

 最近では「ゴム」と口にしただけで警戒されるようになってしまったので、もう見て見ぬふりをするしかなかった。


 そんなある日のことだった。


「ご主人様。お仕事のメールが届いております」

「わかった。ありがとな」


 ハジメに声をかけられ、新着メールを確認する。


 送信元は、以前イラストの依頼をしてきたメーカーだった。

 俺が携わったポスターの評判がとてもかんばしいという内容が書かれている。

 わざわざ知らせてくれるとは、ありがたいことだ。

 メールの内容にざっと目を通し、ハジメにもそれを伝える。


「前に描いたイラストのポスター、評判がいいらしい」

「アクセサリーのメーカー様からご依頼をいただいたものですね」

「そうそう」


 正確に言うなら、俺はイラストを描いただけで、ポスター全体のデザインはまた別の人がしている。

 それでも、評判が芳しいと言われればやはり嬉しいものだ。


「イラストを拝見しましたが、私も素敵だと感じました」

「そうか、へへへ」


 依頼主に納品したものと同じデータファイルを見つけ出し、久々に開いてみる。


 女性の上半身を描いたイラストで、指輪をはめて微笑む様子をやわらかなタッチで表現している。髪の毛の繊細な表現や光の描写は特にこだわった部分だ。

 見る者に「この女性の未来は幸せなものになるだろうな」と思わせる絵だ。

 うん、やっぱり我ながらいい出来だ。


 指輪の商品広告は、本来なら写真を使うことが一般的だ。

 それなのにあえてイラストが使われたのには、理由がある。


 この指輪は『若い層でも気軽に買える』というコンセプトのもとに企画されたそうだ。

 高価なものというイメージのある結婚指輪の値段をあえて控えめにすることにより、これまでとは異なる購買層を獲得しようという狙いらしい。


 だから、あえて写真ではなくイラストを使用することにより差別化をはかろうとしたのだろう。

 そのポスターの評判がいいと聞けば、俺も誇らしくなる。


「この女性、雰囲気がどことなく私に似ておりますね」

 画面を覗き込みながら、ハジメがそんなことを言う。

「そりゃそうだろ。お前をモデルにしたんだから」


 あの輪ゴムのごたごたがあってからも、俺は暇さえあればデッサンを繰り返した。

 そのすべてがハジメの表情や手元を描いたものだ。

 そして、そのうちの一枚をもとにして、このイラストを描いた。


「それでは、モデル料をいただかなくてはなりませんね」


 冗談めかしてハジメが笑う。

 だが、それを聞いて俺はひらめいた。

 奴の左手の薬指には、いまでもあの輪ゴムの指輪がはめられている。だが、ようやくそれをはずせるチャンスがめぐってきた。

 椅子の上からハジメを見上げ、俺はにやりと笑ってみせる。


「わかった。払ってやるよ」


   ◇ ◇ ◇ ◇


 バスのターミナルを出ると、青空にそびえる白い建物が見えた。


 建物は大通りにそって奥まで続き、一階から三階までたくさんのショップが軒を連ねている。道の反対側にも同じような建物があり、このあたり一帯すべてが広大なショッピングモールとなっている。


 俺たちは美しく整備された散歩道プロムナードを歩いてゆく。

 花壇に植えられた植物たちが、大きく葉を広げて花を咲かせている。サツキの赤と白、葉の緑のコントラストが目に鮮やかだ。

 ショーウィンドウの中に飾られた商品には、ちらほらと夏向けのものが交ざり始めている。


 今日のハジメの服装は、遊び心のある柄シャツの上からゆったりとした紺色のカーディガンを羽織っている。太ももからくるぶしにかけて均整のとれた肉付きは、ライトグレーのアンクルパンツの上からでも嫌というほど目立つ。


 俺も髪を少しばかり短くしたり、服装もせめてだぼっとしていないものを選ぶようになったが、それでも奴と並ぶとどうしても見劣りする。これはもう仕方のないことだと諦めている。


 エレベーターで二階に上がり、大通りをまたぐように連絡通路を渡る。

 さらに三階へ上がると、ようやく目的の店に到着だ。


 よく磨き上げられた大きな窓ガラスの奥に、いくつものショーケースが並んでいる。その中に指輪やネックレス、イヤリング、ピアス、カフスといったアクセサリー類が陳列されている。


 窓ガラスには、俺が携わったポスターが貼られていた。

 どこかくすぐったいような気持ちになる。

 そのポスターをじっと見つめ、ハジメが呟く。


「このお店は……」

「いつまでもあんな輪ゴムを指に巻かれてちゃ、ユーザーとしての面目が立たねぇんだよ。ほら、新しいのを買ってやるからさっさとそれはずせ」

「……かしこまりました」


 しぶしぶ頷くと、ハジメは一か月も指に巻きつけていた輪ゴムを名残惜しそうにはずし、ズボンのポケットにそっとしまい込んだ。

 そして、戸惑うように尋ねる。


「あの、ご主人様……。本当に指輪を買ってくださるのですか?」

「お前が欲しがったんだろ。ああそうだ、そのポスターのやつにしてくれよ。値段が手頃らしいからな」

「しかし、ご主人様の収入三か月分となりますと……」

「うっせえなあ、放っとけよ。依頼料も入ったしいいんだよ。俺の気が変わらねぇうちに選ばねぇと買ってやらんぞ」

「……かしこまりました、早急に選ばせていただきます」


 ハジメは決心したようにドアの前に立った。

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