4-3 傘は1本しか買わなかったのか?
テラスから温室の中へ戻り、入り口へ向かうように歩いてゆく。
スロープを下ると道が三方向に分かれていた。真ん中の道を突っ切れば入り口への近道だ。
そのとき、手を引かれて歩いていた子どもがハジメに尋ねた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「はい。なんでしょう」
「みずいろのおはな、こっち?」
「水色のお花、でございますか」
ハジメが助言を求めるようにこちらを見たので、俺は手持ちの小さなスケッチブックに色鉛筆で絵を描いてみせる。
「この花か?」
「うん!」
よほどその花が好きなのだろう。絵を見たとたん、子どもはパッと顔を輝かせた。
ハジメが上から覗き込み、絵を眺める。
「これは、ヒスイカズラでございますか」
「ああ。まあ、今は親を見つけるほうが先か」
「しかし、入り口まで戻ればヒスイカズラからはだいぶ離れてしまいます」
「そうだなあ」
ハジメの言葉に、俺も頷く。
この温室は道が複雑に入り組んでいる。
入り口まで戻って家族と合流できたとしても、またヒスイカズラの咲いている場所まで行くとなると、かなりの距離を歩くことになる。
この子どもの年頃でそれができるのかどうかは疑問だ。とくに、親を探してあちこち歩いたあとだとしたら、なおさら。
「ハジメ。たしかヒスイカズラはここから近かったな?」
「さようでございます。ここから左の道を20mほど戻ったところにございます」
「よしよし。じゃあまずはそこへ向かうか。ボウズ、負ぶってやるから背中に乗れ」
しゃがんで背中を向けると、子どもは素直に乗ってきてくれた。
ずしりと重みがかかり、少し高めの体温が伝わってくる。
ハジメに先導を任せ、そのうしろをついて歩く。
ゆるやかなカーブに差し掛かると、すぐに天井から垂れる水色の花が見えてきた。
自然界では珍しいその独特な色は、まるで明るい色のターコイズで作られた細工のようだ。
「わあ! きれい」
背中から嬉しそうな声が上がる。
そのときだった。
「ショウ!」
あたりに鋭い女性の声が響く。
視線を向けると、ひとりの女性とその傍らにいる少女がじっとこちらを見ていた。
「おかあさん!」
背中の子どもが女性をそう呼ぶ。
俺は子どもを背負ったまま、女性へと近づいていった。
「……この子のお母さんですか?」
そう確認すると、女性は頷いた。
「はい、そうです」
「お節介かとは思いましたが、迷子になっていたところを2階のテラスで見かけて保護させてもらいました」
2階のテラスという言葉を聞き、母親の顔が青ざめたのがわかった。
柵から身を乗り出して下を覗き込んでいた、ということは言わないほうがよさそうだ。
「そんなところにいたなんて……。温室の中で姿が見えなくなって探していたんです。本当にありがとうございました」
よほど心配していたのだろう。彼女の目に涙が浮かぶ。
俺は背負っていた子どもをゆっくりと降ろしてやった。
「おかあさん!」
駆け寄った子どもを母親がしっかりと抱きしめる。
母親の隣にいた妹も、そろそろと近寄ってきて「おにいちゃん」と心配そうに声をかける。
その様子を見届け、俺はようやく自分の役割が終わったと感じた。
「おとうさんは?」
「出口の近くにいるわ。もしショウが外に出て行ってもわかるようにって」
「おとうさんも、おはなみてほしかったな」
「大丈夫よ。電話をすればきっとすぐに来てくれるわ。みんなで一緒に見ましょう」
「うん!」
母親はあらためてこちらに向き直り、俺とハジメに深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「いえいえ。それじゃあ俺たちはこれで」
手を振って別れ、俺とハジメはその場をあとにした。
◇ ◇ ◇ ◇
元の道に戻り、俺は花の写真を撮り続けた。
ハジメは相変わらず黙ったままだったが、不思議と空気は重く感じない。
温室の端まできたとき、ガラスの表面にぽつりぽつりと水滴がつくのが見えた。
春先の天気は変わりやすい。
天気予報を確認しておけばよかったなと思ったが、後悔先に立たず。
「……あちゃ。傘を持ってきてないな」
「入園口付近の売店の店先にあるのを見かけましたので、取り急ぎ購入してまいります」
俺の独り言に、ハジメが素早く応える。
「温室から出るってことか?」
「私だけで行ってまいります。ご主人様はどうぞ撮影の続きを。温室の出口でお待ちしております」
「お、おう。……ありがとな、ハジメ」
そう言い終わる前に、奴はもう通路の向こうへと消えていた。
◇ ◇ ◇ ◇
温室を一周して出口に到着する頃になると、雨はますます強くなっていた。
ハジメの姿をみつけ、声をかける。
「待たせたな、ハジメ」
「お帰りなさいませ、ご主人様」
その手元を見て、ふと尋ねる。
「……もしかして傘は1本しか買わなかったのか?」
「ええ。どうぞ、ご主人様」
ハジメは傘を1本しか持っていない。
俺に差し出してくるということは、自分の分ではなく、俺に使わせるつもりで買ったのか。
「売店には残り1本しかなかったのか?」
「いいえ、数本ありましたが……」
なにが問題なのかまるでわかっていない様子で、ハジメは不思議そうな顔をした。
人間とアンドロイドの考え方、あるいは意識の違いだろうか。
差し出された傘を、俺は受け取らなかった。
「お前が使えよ。お前こそ必要だろうが」
「私でございますか?」
「冗談だとしたら笑えねぇぞ。お前、人間みたいなナリをしているが中身は精密機械の集まりだろうが。いくら生活防水がついているとはいえ、濡れたら困る」
「しかし、ご主人様が濡れてはお風邪を召してしまいます」
「俺なら風邪で済む。お前ならまたメンテナンス工場行きだぞ」
「…………」
「お前が使え。俺は
「……かしこまりました」
きわめて不服そうに、ハジメは一礼した。
◇ ◇ ◇ ◇
温室の出口から空を見上げるが、雨はやむ気配がない。
雨宿りをしても時間のムダになりそうだ。
思い切って温室を出て足早に入園口の売店へ向かう。だが、急な雨で他の客たちも次々と傘を買ったらしく、もう残っていないと言われてしまった。
こればかりはどうしようもない。
しかたなく、雨に打たれながら駅へと向かう。
ハジメが何度か俺を傘に入れようとしたが、すべて断った。
来たときと同じように七駅分の道のりを電車に揺られる。駅に着いたら、そこからまた自宅まで歩く。
家に帰りつく頃には、すっかりずぶ濡れになっていた。
室内に入り、雨音が遠くなると、少しだけほっとした。
とはいえ、体は芯まで冷え切っている。
「とりあえず風呂にするか」
「では、お着替えをお持ちいたします」
「ありがとな」
そんなやり取りをして、脱衣所へ向かう。
濡れてごわごわになったジーンズと、雨水を含んで重くなった靴下を脱ぎ捨て、洗濯かごに放り込む。それから羽織っていたジャケットを脱ぎ、洗濯機のふちにばさりとかける。シャツもじんわり湿っていたので脱ぎ、これも洗濯かごへ。
風呂の湯をはろうと踏み出した途端、めまいがして倒れた。
思い返してみれば、あまりにもいろいろなことが起こり過ぎた一日だった。
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