それは果たして誰が主人公であったか

中尾

明後日の方向

第1話 主人公:蘇芳リサ

 これからどうしようか。彼からの話の件名は、およそそんなことだろう。私の答えはあらかじめ決めていた。


「別れましょう」と。


 そもそも私と彼には、いくつかの問題点があった。私と彼は歳がひと回り離れていたし、大体の価値観が合わなかった。物についても、人についても。その全てにおいて、彼と重なったことなどない。


 それでもいいと、最初は思っていたのに。お互いがお互いを好きで大切にできればそれでいいと、そう思っていたのに。彼から呼ばれた場所まで向かいながら、足元にある石を眺める。


 どうやらこの数ヶ月で私は随分と傲慢になったらしい。彼から様々なことを要求され、苛ついた感情を思い出す。

 爪を切ることを禁じられたり、お洒落を否定されたり。そりゃ、貴方はそういう価値観でしょうとも。でも、私は違う。そうじゃない。目一杯お洒落を楽しみたいし、好きな時に爪を切りたい。

 年相応の女の子なのだ。そういうもんでしょ?


「……リサ。来てくれて感謝する」

「いいよ、別に」


 いつものように理科室に閉じこもっている彼。私は彼のどこに惹かれたのだろう。そして彼は、私のどこを受け入れたのだろう。


「次会うときは話があると、言っただろう? 今、その話をしてもいいだろうか」

「勿論、ぜひ話してほしいの」

「……ところで。また、告白されたんだってな。聞いたよ、栗山先生から」


 私の背伸びした言い回しも、態度も、全部全部貴方だけに向けて努力したものなのに。別に同じクラスの誰かに好かれようとなんかこれっぽっちもしていないのに。私の努力はどこか空回りしていく。


「栗山先生はその手の話にすぐ飛びつく……」

「気にしてくれているんだ。俺と、君のことを」

「そんな風には見えないけど」

 私の言葉に彼は少し顔を上げた。

「彼は……過去に大切な人を失ってしまっている。大事な人の手を何かあっても決して離してはいけないことを誰よりも理解している」

「そう」


 栗山先生の大切な人のことをムムお姉さんから聞いたことがある。

 確か……そう、カノンさん。私も巻き込まれた、あの事件の被害者だ。灰木グループのお嬢様ということもあって、何度かパーティで一緒になったこともあるそうだけど、しかし私は残念ながら、なにも覚えていない。小さかったときのことだし、しょうがないと割り切るしかないだろう。


「栗山先生はただのお節介よ。絶対そう」

「でも、彼は優秀だ。特に人の気持ちを読み取ることにおいては」

「栗山先生は貴方の何を読み取ったの?」

「……さぁな」


 どうやら聞かれたくなかったらしい。わざとらしくも私から目を逸らす彼から、私も目を逸らす。



「今日話したかったのは今後の話だ」



 彼が私を見た。私の大好きな低い声で、私を痛めつける言葉を吐き捨てる。


「来年から君は高校生になる。そして……俺のいる高校へと来るだろう」

「そうみたいね」

「……だから、君と距離をとりたい」


 彼は口下手だ。それから素直だ。そんなことわかっていたのに。背伸びしてみても、どうしたって、私はまだ子供なのだ。小さい女の子なのだ。その簡潔で残酷な言葉に、必要もないのに耳がドクドクと脈打ってしまう。これから伝えられる事実に、怯えてしまう。彼から嫌われることが、私にとっては一番恐ろしいのだ。

 他の何より、ずっと。


「……リサ?」

「……貴方の気持ちは分かってるわ。ええ、そうあるべきなのよ。……貴方の言う通り、別れましょう」


 困った顔なんてしないでよ。そんな顔、恋人同士のときすら、一度たりとも見せてくれなかったくせに。別れる時になってそんな顔をして、私の記憶にいつまでも残ってしまうようなことして。



 本当に……本当に、馬鹿!



 私は知ってる。彼が私にやましいことがあるってことを。だから私の告白を了承してくれたってことも。彼が悔やんでいることも、その罪悪感に耐えきれそうにないくせに、それでもどうにかその気持ちを払拭するために色々手を尽くしていることも、全部、全部知ってる。

 蘇芳家の力を使えば、それらを知ることぐらいどうってことはない。でも、だから何っていうのよ。それでいいじゃない。私だって、貴方に近づきたかったからなんでも利用した。おあいこでしょう?


 私の目線に彼は少し泣きそうな顔をして、それから首を横に振った。あーあ。結局そう。私の努力は空回りしてばかり。



 彼と別れて、帰り道。いつもは見ないコンクリートを眺めながら、頭に鉛を埋め込まれたように騒ぎ出す頭を押さえつけ、どうにか歩き出す。


 身体は感情を表に出したくて仕方がないようで、目頭は熱く、そして視界が暗くなる。


 あーあ。泣きたくなんか無かったのに。


 別に彼が悪いわけでも、私が悪いわけでもない。簡単に言うと、法律のせい。私たちはこの身分でいる限り、幸せにはなれない。彼に仕事を辞めてと、そう言えれば楽なのだろうが、そんなこと言えるほど傲慢に育ってもない。


「……人を不幸せにする法律なんて、」


 何が禁断の恋だ。何が違法だ。私は愛しただけなのに。彼からの愛も、罪悪感が大きかった気もするが、それでも多少は受け取っていた。彼は優しい。私から利用されてるなんてそんなの絶対気づかない。


「……はぁ? おい、どうした? 蘇芳」

「……泣いてるレディには話しかけないのが礼儀よ、栗山先生」


 でた。お節介野郎。いつも持っている定規を今日は何故か持っていない。この先生はいつもあどけない笑顔で私の嫌味を無視する。


「レディは道端で泣かないだろ。レディは」

「貴方に関係ないことよ」

「そうか? 泣いている生徒がいればそこに関係が生まれると思うけどな」


 私の目をじっと見つめる栗山先生は何を考えているか、まるでわからない。


「オレは応援してるぜ? お前らのこと」

「……たった今、関係が解消されたところよ。応援お疲れ様ね」

「解消? なんで?」

「……振られたのよ、私が。彼に」


 私の報告は栗山先生の予想外だったようだ。ひどく驚いた様子の栗山先生は、細く小さな目を大きく開く。


「嘘だろ? 少なくとも、アイツはお前との将来を心配していたのに」


 お前との将来。こんなに魅力的な言葉があるだろうか。辛かった心が光を指す。


「どういう意味」

「そのままの意味だよ。お前はどうせ蘇芳家を継ぐんだろ? アイツは蘇芳家に婿入りするのは忍びないからって、今から大学行く準備までしてたってんだぜ?」


 知らない。私はそんな彼を、知らない。


「歳も離れてるし、お前の学生時代を潰したくないって、延々と悩んでたな。お前との将来を考えるために高校教師辞めたって聞いたはずだが」


 ぐちゃぐちゃな思考に、お節介な言葉がスムージーのように混ざり合って、もはや原型が何だったかも思い出せない。私の顔を見て、栗山先生は笑った。


「お前はお前が思っている以上に、愛されてんだよ。アイツに。だから、もっと我儘になってもいいんじゃねーか? アイツはお前のどんな我儘にだって、答えてくれるよ。惚れてんだから」


 今だけは、今だけは、このお節介な教師に感謝してあげてもいいのかもしれない。彼が言ったんだ。栗山先生は人の感情を読み取ることが得意だと。ならば、この言葉たちは真実だと、そう思っていいわけでしょ? 彼は私を愛してる。


 そして、彼は私に惚れてる。


「……今度の私の数学のテストは満点よ、絶対」

「おっ? そりゃ採点が楽でいいなぁ」

 栗山先生は笑った。これだからこの先生は。

 どうあったって、好きにはなれそうもない。


 急いで、また来た道を走る。走って、走って。どんどん道を駆け抜ける。さっきまで鉛のような景色だったと言うのに。今では、景色が何かすら分かりそうもない。


 興味がないのだ。彼のこと以外、まるで興味がない。私には、彼が必要だ。


 あぁ、早く顔が見たい。少し冷たくて、それでもとっても優しい、彼の顔を。それから言ってやるのよ、明日も明後日も、どんな未来にだって、私との幸せな生活を約束してあげるって。

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