第2話 手の中に降る雪
小さな町に、きらきらした雪がゆっくりと降り積もる。
私はあなたの腕に包まれて、雪とあなたの顔を見つめている。
こんなに近くにいるのに、あなたの顔はぼんやりしてよく見えないから、私は手を伸ばしてあなたの頬に触れる。
その手にあなたも手を重ねてきて、私たちの体温が混ざり合っていく。
*
孫娘のこのみが「ばあばのスノウ・ドーム見せて」と私を揺り動かした。
ソファに座ったまま、いつの間にかまどろんでいたようだ。
マンションのひとつ上の階に住む5歳の孫娘は、合鍵でいつでも自由に私の家へ出入りしている。
このみが壁際の棚を指さす。
「ねえ、棚に無いよ」
「ああ、……ここよ」
と、私は手のひらを開いてスノウ・ドームをこのみに見せた。
「なあんだ、ばあばったら持ったまま寝ちゃってたの?」
「ばあばはいつもこうやって持ってるの」
「このちゃんのコロンみたいだね。一緒にいると安心するんでしょ?」
抱えているくまのぬいぐるみを私に見せながらこのみが問いかける。
それは彼女が生まれた時に私が贈った物だった。家にいる時はずっとこのみが連れ歩いているので、5年経った今ではだいぶくたびれているけれど、彼女にとっては宝物だ。
「そうだよ。このちゃんはなんでも分かるのね」
このみにスノウ・ドームを渡すと、さっそくドームをひっくり返し、ガラスに閉じ込められた小さな町の雪景色をコロンに見せていた。
彼女──千佳──がこの世を去ってから、十年目の秋が来る。
私が彼女の元へと行かないまま、息子が結婚し、孫のこのみが生まれた。
このみの誕生を見届けた後、病気療養中だった夫は静かに亡くなった。
最期まで看取ることが出来て、妻としての責務も終え、肩の荷が下りた。
千佳の娘も結婚し、今では小2の男の子と保育園児の女の子の働くママだ。毎年欠かさず送ってくれる年賀状には、彼女によく似た笑顔で写る幸せそうな家族写真が載っている。
彼女の孫達の誕生日とクリスマスには少しばかりの図書カードを贈り、そのたびに子ども達は電話や手紙でお礼を伝えてくれる。躾がしっかりしているのだろう。
千佳がさよならも言わずに突然世を去った時は悲しくて辛くて絶望したけれど、月日は夫との穏やかな別れと、このみや彼女の孫達というかけがえのない存在を贈ってくれた。
40代で彼女と出会い、思いがけず恋に落ちた時、まるで大きな波に飲み込まれるようだった。足元から波にさらわれて、それまで当然だと思っていたことが全て押し流され、私は彼女しか見えなくなった。
自分の気持ちをコントロールできなくなった私は、離婚届も用意した。
──でも、彼女は私を止めた。
いつかきっとしがらみから解き放たれて、二人で一緒に暮らせる時が来るからと。
その「いつか」は実現しなかったけれど、結局その決断が彼女亡き後の私を一人にすることなく、可愛い孫の側で暮らせる今の日々をもたらしてくれた。
言葉を交わすことはできなくても、おそろいのアクセサリーや洋服を身につけ、スノウ・ドームを手に包めば彼女の存在を感じることが出来る。
40代の頃「いつか役に立つかもしれないよ?」と彼女に言われて撮影したキス動画は、彼女の死後、しばらく私の支えとなってくれた。
これほど私は愛し愛されていたのだと、だからきっと必ず会えるのだと信じることで、どうにか前へと向かうことが出来た。
携帯電話の機種変更を息子に任せるようになってもう見られなくなったけれど、彼女との口づけの感触はまだ唇に淡く残っている。
昨日何を食べたかは忘れてしまうというのに。
でも──いつか彼女とのことも忘れてしまいそうで怖くなる。
何百と残された手紙には彼女の言葉が生きていて、どれだけ愛してくれたかということも思い出すことができる。
私も本気で彼女を愛していたし、今も愛している。
それなのに彼女のその優しい表情が、声が、匂いが、少しずつおぼろげになっていく。
他のいろいろなことと同じように彼女を忘れてしまうことだけが、怖い。
*
頬に誰かの温かな手が触れて、私は目を覚ました。
「──真希子」
私の深い場所に響くその声に私ははっとした。
真っ暗な部屋、千佳の気配が私を見下ろしている。
「76歳の誕生日おめでとう」
「今日?」
ああそうだった、今日は私の誕生日だ。
「顔を見せて……暗くてよく見えない」
「うん、カーテンを開けるね」
静かに開かれた布地の向こうから月光が降り注ぎ、あの頃のままの千佳の姿が現れた。
顎の線で切り揃えられた髪には白髪が少し交じっているけれど、つやつやと輝いている。私がいつだかに贈ったストライプのシャツにいつものデニム。彼女がお揃いでプレゼントしてくれた白珊瑚のピアス。私を見て愛おしそうに微笑む目尻のしわ。唇から零れる歯。
「千佳、……」
言葉にならなかった。涙が溢れ、あれほどもう一度会いたい、一目見たいと思った彼女の姿が揺れてぼやけてしまう。
千佳が私の背中に腕を回し、肩を抱き締めた。
ああ、ずいぶん年を取ったと思うかしら?
背中が丸くなったと思うかしら?
──こんな年になっても彼女を前にすると恋心が溢れてくる。
「真希子、たくさん頑張ってきたね。ずっと見ていたよ」
私は嗚咽をこらえきれず、千佳の胸に顔を埋めた。
「突然死んじゃうなんてひどい」
「ごめんなさい。あれが私の運命だったみたい。私も真希子のことが心残りだった」
「寂しかった」
私はあえぎながら涙を拭い、千佳の顔を見つめた。
「なかなか迎えに来てくれないから、私すっかりおばあさんよ」
「私の前では真希子はあの頃のままよ」
彼女が私の手を取り、目の前に差し出してくれた。しわしわのはずの手の肌がピンと張っている。
夢なのかしら? 不思議なことだったけれど、私は素直に受け入れた。
「よかった。──それじゃあ、ようやく迎えに来てくれたのね」
「ううん、まだよ。それはもう少し先」
「なぜ」
また涙が溢れる私の頬を彼女が指で拭ってくれる。
「あなた、もう少しこのみちゃんの成長を見ていたいでしょう。教えたいこと、伝えたいこともたくさんあるでしょう?」
それはそうだった。早く彼女の元に行きたいと思うのに、日々成長していくこのみの姿をもっともっと見ていたい、一緒にお料理やお買い物もしたい。私が経験したこの世の素晴らしさ、美しさを全て伝えたいという願いが強くなっていく。
申し訳なさに私が口をつぐむと、千佳が笑顔で私を抱き締めた。
「それが生きていくってことなのよ。そして幸せそうに年を重ねている真希子を見て、私も幸せなのよ」
「──でも私、このまま年を取って千佳を忘れるのが怖いの」
「大丈夫。少しずつ真希子もこちらの世界に近づいて来ているから、こうして一年に一度くらいは私の姿を見せることができるようになったし」
「また来てくれる?」
「もちろん。来年の真希子の誕生日に」
真希子が私に雪降るスノウ・ドームを握らせた。
「それに、見えなくても私はこの中にいる」
「やっぱりそうだったのね。ドームを握ると安心できたから」
「そう。ずっと私は真希子の側にいたの」
千佳が顔を寄せてきて、私たちは11年ぶりに口づけた。
愛しさが直に伝わる。
こんなにも彼女を愛していると。
こんなにも私は愛されていると。
彼女が亡くなっても、会えなくて十年経っても、なお。
「……真希子、愛してる」
千佳の切実な声に、私は彼女の頬に手を伸ばした。
「私も千佳だけを愛してる。今までもこれからもずっと」
私の手に千佳も手を重ねる。
あの頃と同じように混ざり合っていく二人の体温。
「成海や孫達のことも気に掛けてくれてありがとう。──さあ、今日はもうこれまで」
もう一度千佳は私に口づけると、私の髪を撫で、少しずつ離れていった。
「スノウ・ドームの中で真希子を見守っているから」
「千佳、行かないで」
私の言葉が消えないうちに、千佳の姿は月光に溶けるように見えなくなった。
*
まぶしさに目が覚めた。
カーテンが開かれたままの窓から朝陽が射し込んできている。
手の中にはスノウ・ドーム。
──夢ではない。
ドームを朝陽にかざす。
ガラスがプリズムのように七色に光り、雪景色なのに温かく胸に沁みた。
──私は一人ではない。ここに千佳がいる。
*
彼女の娘の成海から小包が届いたのはその日の午後のことだった。
開けてみると、何重にも梱包材にくるまれた中から、千佳のスノウ・ドームが出てきた。
驚きつつ添えられていた成海からの手紙を読む。
「真希子様
母の死後十年が経ち、少しずつ遺品を整理しています。
このスノウ・ドームは、母が特別大切にしていたもので、真希子さんと行った小樽で一緒に買ったと聞いています。母はこのドームを見ては、もう一度小樽に行きたいなあと言っていましたが、真希子さんに会いたいと思っているんだろうなと私は理解していました。
亡くなった年、毎年恒例の二人旅行が出来なくて、母はどんなに残念だったかと今更ながら思います。
スノウ・ドームは母の形見として私の手元に置いていましたが、真希子さんの元へ行きたがっていると感じるようになりました。
真希子さんのお誕生日に合わせて、母のドームを贈ります。
是非、真希子さんのドームの隣に置いてあげてください。
真希子さん、どうかいつまでも母を忘れないでください。
そして、母の分まで元気に長生きをしてください。
それが私の心からの願いです。
成海」
──成海は、私と千佳のことを気づいていた。
でも、色々な思いを飲み込んで、母の死後、ずっと私との付き合いを続けてくれたのだ。
十年経って、私たちのことを認めた証にドームを贈ってくれたのだろうか。
溢れる涙をそのままに、私は二つのスノウ・ドームを窓の桟に並べた。
光のなかできらきらと降っていく二つの雪景色。
──これはあなたと私。
ようやく一緒になれた。
もう二度と離れない。
「ばあば、ただいま!」
声がしたかと思うと、部屋に入ってきたこのみが窓際へ走り寄った。
「あれー、スノウ・ドームが二つになってる!」
と指さして私を見上げたこのみが、はっとして心配げな表情になった。
「ばあば、なんで泣いてるの?」
「ドームが二つ揃ったことが嬉しくて泣いてるの」
「嬉しくて……? このちゃん、怒った時とか痛い時しか泣かないよ」
このみの視線までしゃがみ、頭を撫でる。
「そうだよね。そのうち、嬉しい涙も出てくるようになるよ。
嬉しい涙はたーくさん流していいんだよ」
「そうなんだ!」
ほっとしたように笑うこのみを抱き締める。温かな命のかたまり。
──いつかこのみに伝えよう。
誰かを心から深く愛する気持ちを。
それがどんなに幸せなことなのかを。
「千佳、私は幸せよ」
彼女に聞こえるように、私はそう小さく呟いた。
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