第30話「カピバラ」

 俺たちが最初に向かったのは『リスザルの楽園』。

 リスザルという名前だが要は混合舎であり、親和性の高いペリカンやら他の生き物がたくさんいる。

 その中でも渚ちゃん的に一番の推しと言えばやはり……。


「先輩、見てください。カピバラですよ」


 渚ちゃんが指差す方向にいるのは、当然カピバラだ。

 和名はオニテンジクネズミ。ネズミ目テンジクネズミ科カピバラ属に分類される齧歯類。

 一言で言うならでっかいネズミなのだが、ギリシャ語では水の豚と呼ばれ、漢名でも水の豚と呼ばれている。

 と聞くと混乱しそうだが、ネズミと豚が合わさるとちょうどカピバラになると考えればなるほどなという感じ。

 温暖な水辺を好み、性格は温和で人になつきやすい。

 食事は基本植物、水中や水辺にあるイネ科の植物などを食べている。

 俺、なんでこんなにカピバラに詳しくなってんだろうってそれは渚ちゃんが得意げに説明してくれるからだが。

 いやホント、カピバラの話させると止まらんねこのコ。


「わ、見てください先輩。あれが名物のタクシーですよタクシーっ、すごいっ」


 小さなリスザルたちがカピバラの背に乗って舎の中を移動することをタクシーと呼ぶそうなのだが、なるほどユーモラスなカピバラのシルエットと、小っちゃく賢いリスザルのムーブが面白可愛い。


 他のお客さんたちは手を叩いたりスマホで撮影をしたり。

 渚ちゃんも興奮しているのだろう、声を弾ませ、頬を染めながらカピバラを見ている。


「あああ~……いいなあ~……わたしも乗ってみたい~……」


 いかにも心の底からという感じにつぶやきながら、うっとりとしている。


「ああほら、今リスザルが降りましたよっ。カピバラはそんなの関係ないって感じでそのまま普通に歩いて行って……ああぁ~……可愛いぃ~……」 


 いつもはキリッと引き締まってる渚ちゃんの頬が、もうゆるっゆるに緩んでいる。

 

 すげえ、本物のカピバラすげえ……っ。

 あの渚ちゃんをここまで変えてしまうとは……っ。


「先輩ほら、見えますか。あそこでだらしなく寝そべってるのがお姉さんで、隣にかしこまって座ってるのが妹ちゃんなんですよ。可愛いぃ~……」


 俺が内心で感動していると、さらに驚くべきことが起こった。

 なんと、渚ちゃんが俺の肘をぐいと引いたのだ。

 1メートルの距離制限を完全に忘れ、直接触れて来たのだ。


 その時の気持ちを一言で言い表すならば『至福』だ。

 今まで望んでも叶えられなかった夢が、いきなり叶った。

 肘に絡みついた渚ちゃんの細い指、古武術を習っているおかげだろう意外なほどに強いその力を味わった瞬間、俺の意識は桃源郷へと遠ざかった。


「あれ……? 死んだはずの爺ちゃんが川の向こうで手招きしてる……? しかも何あれめっちゃいい笑顔……」


「先輩、先輩。どうしたんですか、大丈夫ですか?」


 慌てたような渚ちゃんの声で、俺はハッと意識を取り戻した。


「いかん、本気で尊死かけた……」


「もしかして、具合でも悪いんですか? 昨日あまり寝てないとか……」


「たしかにわくわくしすぎてあまり眠れなかったけど大丈夫、全然平気。今のはちょっと不意打ちが過ぎて……」


「不意打ち、ですか?」


 こてんと首を傾げる渚ちゃんは、ついさっき自分が何をしたか覚えていないようだ。


「いや、なんでもない。ともかく平気だから、このまま見ていよう」


「わかりました。ええと……カピバラだけだと飽きるでしょうから、他の場所へ行きますか?」 

 

 とか言いながらもチラチラ、チラチラ。

 渚ちゃんは名残惜しそうにカピバラのほうを見ている。


「いや、いいよ。好きなだけ見ていよう。俺はカピバラを見ている渚ちゃんを愛でていれば幸せ……じゃなくて、俺も渚ちゃんの好きなもののことを知りたいし」


「そ……そんなに好きなわけではないですけどね。動物の中では比較的と言いますか……その程度のものですけど……」


 1メートルの尺度にしたり、ラインのスタンプがいつもカピバラだったり、さっきも語彙を喪失するほど興奮していたり、挙句の果てには俺の肘を引いたことまで覚えていないレベルなのに、「そんなに好きではない」ですか。ほう、なるほど。


「な、なんですか。急にニヤニヤして……」


 いかん、ベタな照れ隠しをする渚ちゃんが可愛すぎて、めっちゃ顔がゆるんでた。


「なんでもないよ。ほら、そんなことより渚ちゃん。カピバラとペリカンが並んで泳いでる」


「わあ、ホントだっ」


 舎の中に設置された池の中を泳ぐカピバラの様子に、渚ちゃんはぱあっと表情を輝かせた。

 はい可愛い。子供みたいにはしゃぐ姿がスーパーキュート。

 もう俺、ずっとこのままでいいかな。

 他の動物見に行かないで、ここでずっと渚ちゃんといたいわ。

 なんだったら別荘でも建てて一緒に住みたいわ。







 ~~~現在~~~




「それで、ホントにずっとカピバラのとこにいたわけ?」


 呆れたような口調でちひろ。


「最初の30分はな。さすがにそれ以上一緒にいると怪しまれるんで、その後いったん解散して、それぞれの家族の元に戻って。また30分後に落ち合って、そん時はまた別のことをしたんだけど……」


「にしても30分は長いでしょ。兄貴もさすがに辛かったんじゃないの?」


 同情したようにちひろは言うが。


「辛い? 全然。だっておまえ考えてもみろよ。カピバラを見ることによってより可愛いくなった渚ちゃんを見られるんだぞ。しかも時々スキンシップまであるというおまけ付きだ。正直その後3回は尊死しかけたね」


「……ふーん、あっそ」


 いかにも興味ないという表情のちひろだが、残念この話はまだまだ続くんじゃ。 

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