第42話 燃え残りのカケラ
「何だコレは」
「今日創刊のファッション誌だ。それよりもこの写真を良く見ろ!」
「写真?」
李仁は雑誌を手に取ってよく見てみる。藍色の海の中、水面に向かって真っ直ぐに指先を伸ばす白い腕。羽織っただけの赤い襦袢が水に広がり、垣間見える美しい肢体に靄のように絡み付いている。
性を超越した幻想的でうっとりするほど美しいフォトグラフ。顔は広がる髪で顔の半分ほどが隠れてはっきりとは見えないが、その面差しは紛れもなく棗そのものの顔立ちだった。全身が震えた。
冷えて固まっていた胸の辺りから熱い何かが流れ出すのを感じる。動き出した灰色の脳が色彩を帯びていくのが分かる。李仁の中であらゆるものが目覚め芽吹いて行く。
「町中この写真で一杯だ。電車の中吊りや駅ビルにもこの写真のでかい垂れ幕が下がっているぞ!」
「この写真を撮ったのは誰だ!出版社は!!」
智也の言った事は本当だった。雑誌の創刊号のCMフォトが書店などにも貼られており、李仁がこの写真家と連絡を取るのに手間取っている間に、この湿性植物のように中性的でアーティスティックな写真は、世間でちょっとした話題になっていた。
この日、李仁はなかなか捉まらないこの佐竹という写真家に漸く会う事が出来た。雑然とした出版社の応接室に現れた男は眠そうな顔をしたむさ苦しい男だった。
「あー…、初めまして。佐竹ですが…えーと、」
「藤城李仁と言う者です。今日はお忙しいところ無理を言いまして申し訳ありません」
跳ね散らかした髪を無造作に撫で付けながら佐竹は立ち上がる李仁に名刺を差し出して来た。互いに名刺を交換する通過儀礼の後、差し向かいで座った。
「この写真を撮られた経緯を教えて頂けませんか。このモデルさんは何と言うお名前か分かりますか」
「いや〜申し訳ないが、本当のお名前は教えて貰えなかったので知らんのですよ。場所はなら分かります。静岡のヒリゾ浜と言う所です」
「ヒリゾ浜…」
「はい。美しい場所ですよ。ご存知ないですか」
李仁は聞いたことのない浜の名前だった。しかし何故そんな場所に居たのだろうか。
「その当時、名前は椿と名乗っていました。浜と言っても船でしか行けない場所でしてね。同じ船に乗り合わせたのですがあんまりにも綺麗な子だったんですっかり夢中になってしまいまして。
一週間と言う約束で撮ったものの一枚なんですが…実は、ここだけの話ですが…彼は男の子なんですよ。初め驚きました」
間違いない。棗だと思った。
「連絡先は分かりますか」
「いや、教えないと言われましてね。ひと所に住んでいないようでした。撮った写真も好きにして良いと言われましてね。
しかし、夢見心地の一週間でした。写真家としてこんな出会いはそう無いと思いましたよ」
棗の事を話す佐竹の高揚感が伝わって来ると、あの懐かしくもヒリつく感覚が蘇る。棗はこんな男に惜しげもなく裸体を撮らせたのか。肌を合わせたものだけが享受できる何かを手にしたからこその、この美しいフォトグラフなのだろうか。嫉妬心を煽られた。
『嫉妬』自分の中にまだこんな感覚が残っていた事に李仁は驚愕した。苦いはずの、苦痛だけの味しかしないこの感覚は、同時に身体の奥深くで命が燃え滾る感覚を伴っていた。李仁はその事実に歓喜していた。
李仁は佐竹と別れた後、そのまま居ても立ってもいられずにヒゾリ浜へと車を走らせていた。そこに棗がいるはずもない事も分かっていたが、それでもその場所に行かずにはいられなかった。
そこは浜と言っても佐竹が言うように観光船でないといけない場所だった。しかも、季節外れの為に船で五分というのに、上陸が叶わない。
船着場から望む晩秋の海が、波が、李仁の熱った心を宥めるように寄せては返していた。
「今おまえは何処にいるんだ棗…」
道端に面した駐車場に停めてあった車へと李仁は乗り込むと、ふと目の前を過っていく黒いタクシーに目が止まる。後部座席に乗る人の、黒艶髪と白い肌が目に飛び込んできた。
「棗…っ!?」
見間違えようも無い。あれは棗だ!
李仁は焦ってアクセルを踏むが、目の前を大きなトラックが数台連なって通り過ぎ、なかなか道路に出られない。
「ええい!クソっ!退け!!」
毒づきながら急発進するが、黒いタクシーは己の車の遥か先を走っていた。
途中でいくつかの信号に邪魔され、何台もの車が前に入り、片側一車線の黄色い中央分離帯は追い越すこともままならない。李仁は無常にも棗を乗せたタクシーを見失った。
とっぷり日も暮れた。ここが何処だか見当もつかない。このまま闇雲に走っても、棗には辿り着けない気がして、コンビニの駐車場に車を止めると李仁はハンドルに凭れて項垂れた。
自分はもう何度こうして棗を見失ったのだろう。
少しでも棗を感じられるあの場所に、棗の声を最後に聞いたあの埠頭へと李仁は赴いていた。
明るい携帯の画面にじっと目を凝らすと心の中で呟いた。
もう危ない奴だと思われても構わない。怖がられても仕方ない。警戒されて細い蜘蛛の糸が途切れたとしても構わない。
棗じゃなかったとしても言わずにはいられなかった。
書き込む指がスマホの上を勝手に滑り出していた。
『君に逢いたい。 龍』
『あの埠頭からやり直せたら。 虎』
携帯を握りしめて泣いている人がいる。道端にしゃがみ込んで細い肩を震わせて。
それは棗だった。
「あの人だった。…やっぱり、これはあの人だった…龍は貴方だった…!」
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