第41話 色鮮やかに

『帰りたく無い。君で噎せ返える部屋などに。 龍』

『窓を開けて空に吸われて行けたなら。 虎』


 はる君の墓参りの時以来、薄れかけていた棗の香りがまたぶり返すように部屋の中で色濃くなったように感じる。あの時嗅いだ棗の香りはいつまでも李仁に纏わりついて来るようで、棗が自分を恋しがっているのでは無いかと頭が勝手に妄想する。

 やりきれず、例のサイトに愚痴を書くと、必ず連歌を寄せてくる誰か。もしやと思ってしまう。そう思いたいだけだと思っていても、その文面やその言葉の端々に棗の影を見てしまう。重症だと自分でも思う。

 こんな広大なネットの海で、小さな小さな砂粒を払うような物だと分かっていても、見れば見るほど、詩篇の向こうに棗の顔がチラつくのだ。既に切り札は全て切ってしまい、棗の消息はいよいよもって分からなくなってしまった。

 そうやって、一年が過ぎ、二年が過ぎ、あれらの日々は、本当に夢ではなかったかと、遠い遠い夢の話ではなかったかと思ってしまう。

 もしもこの詩篇の向こうに棗がいたならば、細い細い蜘蛛の糸はまだ確かに己が握っていると思えるものを。

 それを後生大事に守るように、李仁は掲そのサイトに詩篇を綴り続けていた。

そんなある日、何気に書いた詩が李仁のそんな妄想を現実世界に引っ張り込んだ。


『鈍色の桜を懐かしむ。悲しいほどに季節は移ろう。 龍』

『何時迄も何時迄も、この振袖が仕舞えません。 虎』 


鈍色と桜と振袖。三つのワードが揃ったのだ。思い浮かべるのは、棗にあつらえたあの振袖。鈍色桜と名付けたあの加賀友禅の振袖だった。


こんな偶然が果たしてあるものだろうか。

もしや本当にこの連歌は棗なのではあるまいか。

まさかな。


 そんなある日、デパートの着物の展示会で李仁は久しぶりに加賀友禅の大家、千悠にバッタリと会った。あの鈍色桜の着物を見事に染め抜いた人物だ。


「お久しぶりです、千悠さん。お元気でしたか?半年、いや一年ぶりくらいですか」


「いや、本当に久しぶりです。お互い何とか生きていましたなあ。どうですか、最近は…何か面白い話などありますか?」


 懐かしい者同士、展覧会場の片隅で一頻り話が盛り上がる。


「そう言えば、この前金沢にいらした時に工房に立ち寄ってくだされば良かったのに」


 妙な事を言い出すなと李仁は思った。


「いいえ、最近は出不精でして…特に金沢には行っていませんが…」


「おや?そうなんですか?

じゃあお一人でいらしたのか。いやね、あの鈍色桜を着ていた方をお見かけしたものだからてっきり藤城さんと御一緒かと思ったんだが…」


「え?!…それは…何時の事ですか?!」


 李仁の肌が総毛立った。消息がふつりと途切れた棗が金沢に居た?思わず千悠の肩を掴んで揺さぶっていた。


「つい半月前のことですが…どうかされましたか?」


 それに答える余裕もなく、李仁は更に千悠に踏み込んだ。


「何処ですか、何処で会いましたか!」


「あれは確か…ああ、そうだ。ひがし茶屋町の辺りでしたね。最初ずぶん別嬪の芸者さんが来たなと思いましたが、私の染めた鈍色桜をお召しだったので、ああこれは李仁さんの良い人に違いないと思いましてね、声をお掛けしようかと思ったんですが、見失ってしまいまして…」


 李仁は千悠の言葉を最後まで聞かずに走り出していた。金沢に棗がいる。その一念が李仁を突き動かしていた。

 財布と携帯だけを持って、李仁は新幹線に飛び乗っていた。車中では棗の事ばかり考えてまんじりともせず、飛び去る暗い車窓に目を凝らしていた。

 半月も前の話だ。会えるわけがない。冷静にそう考える一方で、もう一人の自分が囁いた。会える。会えるぞ李仁。

 早る気持ちを抑える為に、例のサイトを開くと、そこにめずらしく虎の方から詩篇が投稿されている。

李仁は齧り付くように携帯を握りしめ、寄せられたその詩篇に目を走らせた。


『わが恋は 人とる沼の 花菖蒲はなあやめ 虎』


 何処かで覚えのある言葉だった。考え込む李仁の脳裏にふと千悠の言葉が滑り込む。『ひがし茶屋町の辺りでしたね』


そうだ、これは泉鏡花だ!


そういえば、金沢のひがし茶屋町に泉鏡花記念館があった事を思い出す。以前千悠に連れて行ってもらった記憶が脳裏を掠めた。確証は無いが予感が走る。棗がそこにいるのかもしれない。


『愛は『無我』のまたの名 龍』


 思いつく限りの泉鏡花の言葉を捻り出し、やっと出てきた言葉をそこに書き込んだ。

今、そこに行く。そんな気持ちを込めたが、その人が棗とは限らない。全く別人の方が確率は高いのだ。自分でも詮無い夢だと笑ってしまうが、そんなささやかな藁にでも縋りたい気持ちだったのだ。


 金沢に着いたのは既に真夜中だった。夜に賑わうひがし茶屋町ですら、すでに人影は疎らで、泉鏡花記念館へ行ってはみたが当然扉は閉ざされ、そこにひと気などはありはしなかった。


 翌日早くから李仁は記念館へと赴いた。もしかして今この場所に棗が立っていたかもしれない。今触れたこの壁を棗が撫でたのかも知れない。そんな事を思う自分に笑えた。

 館内職員にこんな人物を見なかったかと聞いては見たが、写真も無いのでは埒もあかない。あんなに共に過ごしておきながら、棗の写真一枚残されてはいなかったのだ。

 数日李仁は金沢に滞在し、棗の痕跡を探したが、何の手がかりもないまま帰宅した。


もう、ダメなのかもしれない。戻る気があるならとっくに戻っているだろう。こんなに帰らないのは、もう自分に未練は無いからだ。


 家には棗の着物がそのままに残されている。どれもこれも、棗が袖を通した姿が二年経った今でも、くっきりと脳裏に鮮やかに甦る。


なのに君はいないのか…!


 李仁はその着物達を抱きしめて泣き崩れた。


女々しいと笑わば笑え!


 そんなある日、店に智也が現れた。智也はズカズカとレジカウンターの李仁の前まで来ると、とある雑誌を李仁の目の前にバン!と置いた。


「李仁、この表紙の写真どう思う!」


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