第39話 棗の素

 智也の決死の告白を、李仁は驚くでも無く、詰るでも無く、肯定するでも無く、ただ静かに聞いていた。


「何だ、あまりに気持ち悪くて言葉もないか」


 自嘲する言葉が智也の横顔に深く影を落としていた。この告白をする為に智也がどれほど悩んだろうか。子供の頃から男気のある男だった。長じては李仁の陰日向になり、気づけばいつも支えてくれていた事に思い当たる。本気でぶつかりあう事もあったが、それはどれも李仁を思うが故だった。友の告白に様々な思いが李仁の心の中に去来していた。

 智也のそんな思いを、李仁は丁寧に心の中で咀嚼していた。ややあって漸く口を開いた。


「今なら分かるよ。お前の気持ちが。オレはそれに応えることが出来ないとお前はもう、嫌と言うほど知っている。そんなお前に気持ち悪いだなんて、爪の先程も思わない。

…ありがとう。そしてすまない。智也」


 自分が男を愛したと分かった時、自分も狼狽えた。だからこそ分かるのだ。男だから、女だからと言う概念は意味の無いと言うことも。ただそこには愛だけしか無い事を。


「謝らんでくれ李仁。お前に謝られたら俺はどうして良いか分からない。これからお前にどう接して良いか分からんのだ」


「お前にしてみれば苦しいかもしれんが、オレはお前とまだ友でありたいと思ってるよ」


 どんなに悩んでも答えなど出ない。気持ちを保留したまま進んでいくしか無い。智也の苦しみはずっと続いていくのかもしれない。だが、その思いを踏み越えて智也に己と友でいて欲しい。李仁の正直な気持ちだった。


 その日から程なくして智也は正式に離婚した。


 都会の喧騒とは一線を画す高級住宅街。初夏の日差しに薄らと額に汗が滲ませながら、李仁はそのなだらかな坂を登っていた。

 坂を登り切った高台の一角に、棗の実家は瀟洒な佇まいを見せていた。緑の茂る広大な敷地の中に他に幾棟かの建物が立っているのが見えた。塀から溢れる藤の花には蜂や虻が羽音を立てて戯れ、鳥の囀りや羽ばたきが聞こえてくる。

 この豊かな自然に囲まれた場所からは、教授の言うような悍ましい狂宴が行われていたなど、まるで絵空事のように思えた。


 堅牢な石積みの門構え、背の高い門扉。棗は深層の御令嬢ならぬ御令息と言うところなのだろうか。

 呼び鈴を躊躇いがちに押すと、女性の声で返答が返ってきた。まだ若い女の声だった。自分は棗の知り合いで、棗の祖母に会いたい旨を伝えると、暫くしてから勝手に門扉が開いた。入れと言うことなのだろうか。李仁は恐る恐る中へと足を進めた。

 エントランス広場になった正面の大きな建物と、両脇にも立派な建物が其々一棟づつ建っていた。どの玄関を開ければ良いのか迷っていると、正面のドアが開き、エプロンを身につけた女性が出迎えた。

 一代での成り上がりとは明らかに違う。代々続く銘家と言う雰囲気だった。誘われた大きな玄関を潜ると、正面に車椅子に座る小柄で品の良い老婦人が李仁を出迎えた。


「突然申し訳ありません。私は藤城と言います」


 そう言うと近くに立っているエプロンの女性に名刺を渡して欲しいと差し出した。老婆はそれを受け取り名刺に視線を落とした。


「藤城李仁さん。呉服を商われていらっしゃるのね?棗から少しだけ聞き及んでおりますよ?あの子がお世話になっております」


 座りながらではあったが恭しく棗の祖母は頭を下げた。優しげな声と物腰の上品さは血は繋がらなくとも棗を彷彿とさせるようだった。


「どんな御用でいらしたのかしら。棗は今この家にはおりませんの」


「はい、存じております。驚かれるかもしれませんが私と棗さんは一年ほど共に暮らしておりました。

御挨拶が遅れましたこと、申し訳御座いません」


 李仁は深々と頭を垂れた。祖母の話ぶりから察するに、李仁が己のマンションに来いと言った辺りから、棗は祖母に会ってはいない事が察せられた。

李仁の言葉を聞くと少し驚いた顔をして、玄関先に立ったままの李仁を中へと促した。


「立ち話しも何ですから、どうぞお入りになって。

優子ちゃん、応接間にお通しして。それからお茶をお願いね」


 優子ちゃんと呼ばれたのはこの家のハウスメイドらしい。棗の祖母の車椅子を押しながら李仁を応接間へと案内した。

 通された応接室の床には大きな窓から庭の緑が映り込んでいた。


「お座りになって」


 勧められる侭、クッションのきいたソファへと腰を下ろした。

 マイセンブルーの美しいカップに紅茶が注がれると、その湯気の向こうで会ったことも無い老婦人から懐かしさが漂った。


「棗は元気にしているかしら。私、脚がこんなものだから、何処に出かける気にもならなくて。熱いうちに召し上がって?」


 似ている。姿形ではなく、物腰と話し方が。祖母から着物の着方を教わったと以前棗がそう話していたが、成程、この祖母を見て良くわかった。

 棗は女言葉ともまた違う。性別を超えた独特な雰囲気を持っていた。


含んだ紅茶は柑橘系のベルガモットが鼻から抜ける上質で華やかなアールグレイの香りがした。こんな紅茶を飲んで棗は育ったのか。


「実は、棗さんが先日家を出て行ってしまったのです。自宅に帰られていないかと思って突然お邪魔を…」


 祖母は驚きもしなかった。ただ黙って李仁に頷いていた。


「昔から捉え所のない子だったわ。ふいっと出て行っていつの間にか帰ってくるような子でしたの。

優しい子だったのだけれど、何というか…。誰にも心を許さない所があった。

そう、でも藤城さんが懇意にして下さっていたのね?良かったわ。でも、あの子の行きそうな所はわたくしさっぱりわかりませんの」


 何も突っ込んだ事を聞いてこない。祖母もまた、少し浮世離れしたフワリとした所のある人だと李仁は感じていた。


「彼は私に自分の事を何も話さなかった。私も棗が居なくなるまで知ろうとしなかったのです。

私は棗さんと言う人を絶対に諦めないつもりです。

…添い遂げたいのです。例えそれが許されなくともです」 


 李仁の揺るぎ無い熱い思いに触れて、長いこと沈黙した後、祖母は重い口を開こうとしていた。

 車椅子を自分で動かし、窓辺へと向けると遠くを見つめながら話し始めた。

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