第26話 墜落

「お前と言い一久と言い、どうしてそう偏っているんだ!そんな時代じゃ無いだろう!李仁が良いって言ってるんだ。目を瞑るしか無いだろう!」


「ほら、貴方だって結局、目を瞑るって事なんじゃ、」


「藤城さん、、藤城さん!む、息子さんが見えましたよ、、」


 李仁と棗が現れたのにも気づかず口論をしている二人を流石にまずいと気がついた近くの人が、慌てて李仁の母の着物の袖を引っ張った。周りの空気が凍りついた。

 殺気立った李仁が母の元へ怒りの空気を纏わせながら近づいてくる。一触即発とは正しく今の空気のことを言うのだ。


「母さん、いい加減にしてくれよ…!棗は…」


「認めませんよ!時代?…みんな物分かりのいい顔しているだけですよ!貴方はそんな事も分からないの?!

ねえ、棗さん。李仁とはちょっと遊んでみただけなんでしょ?この子は遊び慣れた子じゃないのよ。貴方から別れるって言ってあげて下さいな」


 棗は蒼白で、言い返す言葉の一つ、言い繕う言葉の一つもでてこない。棒切れのように茫然とつっ立っているだけだった。こそには何一つ感情が浮かんでこない。

 酷すぎる罵倒に李仁の手が震えながら拳を握ったその時、会場に母の頬を叩く音が響いた。


「止めんか!失礼だろう!お前は!」


 李仁の代わりに父が母の頬を叩いていた。驚いた智也までもがこの場に駆けつけていた。

 父も棗との事に反対なのだろうと思っていた李仁には父の意外な一面に驚いて立ち尽くしたままだ。

 智也は項垂れて顔を覆っている母を庇うように、その肩を抱いていた。智也の嫁さんが気を利かせて冷たいおしぼりを母に差し出していた。


「ごめん、父さん。母さんを殴らせた…」


「別に前が悪いわけじゃない!ただ順番が悪かったな。順序だててくれたらわしも庇ってやれた」


 確かにそうだ。棗の事を隠し立てするつもりではなかったが、結果的にそうなってしまったのだから。


「俺が口を挟む事ではありませんが、二人は真剣だと俺は思います。棗さんも、良く李仁に尽くしているようでしたし、李仁は一途すぎるくらいの男ですから、浮ついた交際では無いと思います」


 ここにも思わぬ援軍がいてくれなた事に李仁は目頭が熱くなる思いだった。ただいまは智也にも、そのお嫁さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。一番に祝ってやりたかった自分が、こんな風に場を白けさせているのだ。


「智也…お前。すまない、お前の晴れの日にこんな…」


 智也は黙って首を横に振っていた。李仁はようやく棗を庇うだけの余裕が戻るとそこに俯いて居るであろう棗を振り返った。


「大丈夫か、棗。

…なつめ?!」


 そこに棗の姿は無かった。忽然と姿が消えていた。





 さっきまではあんなに幸せだったのに。世界は桜色に包まれて、李仁と二人甘い夢の中にいたのに。棗は一気に暗く冷たい水底に墜落していた。あの場に居た全ての目が自分を責めているようで、居た堪れずに逃げ出したのだ。

 もう、何も考えられない。草履は走っている最中に脱げてしまった。着物の桜が色を失い項垂れて見える。白足袋の爪先はすっかり汚れて棗の心模様を反映していた。

 顔は蒼白で表情もない。そんな様子でふらふらと街を歩くと、怪訝そうに通りすがる人や、ヒソヒソと訝しそうに囁く人達の声が棗を遠巻きに取り囲む。それが聞こえても、棗は反応一つ返せなかった。

 その時、人混みの中から棗を呼び止める声がした。

棗は無意識に立ち止まり、無機質な表情で反射的に声のする方に顔を向けていた。


「棗さん?白山棗さんでしょう?

どうしたんですか、そのなりは、何処からきたんですか?」


 狭山だった。驚いた顔の狭山が棗の元に駆け寄って来た。何を聞いても棗は答えられなかった。質問の意味も分かる。目の前の人も誰だか分かる。けれども、反応が出来ないのだ。狭山が棗の両肩を掴んで揺さぶっても、反応は同じだった。穴の開いた様な眼差しでぼんやり狭山を見つめるだけだ。

 やがて、狭山の両手に身を預けるようにして、棗の意識がふっと落ちた。


「棗さん?どうしました?!棗さん!なつめさん?」


 何処か遠くで声が聞こえた。それが誰の声なのか、何処から聞こえているのか、もう棗には理解出来なかった。



 棗が目覚めた時、視界にぼんやり浮かんで来たのは見覚えのない天井だった。

自分がどうしてしまったのか、記憶を手繰り寄せても、最後に見聞きしたのは李仁の母の刺す様な眼差しと怒鳴り声だった。自然と涙が溢れ出た。


「目が覚めた?」


 薄暗い部屋の中、李人とは違う声がして棗は反射的に身構えた。身を庇う様に起き上がると、酷く頭が痛んだ。


「急に倒れたんだよ。無理しないほうがいい。さ、温かいお茶だよ?ここは僕の家だ、心配無いよ」


 優しげにベッドに腰を下ろして、小さな銀のトレイに乗せられたマグカップを差し出して来た相手に棗は殊更身を固くした。あの狭山蓮だと言う事が今ははっきり分かる。

 怯えた小動物の様に、小さく丸まってベッドの隅っこに蹲り、暗闇に警戒心露わにした目ばかりが爛々と狭山を見つめていた。


「大丈夫。取って食いはしないから。それより、訳を知りたいな。

何故裸足であんな所に?」


 棗は何を聞かれても、はなから答えない腹積りのようだった。

 狭山はなかなか手にしてもらえなかったマグカップをベッドサイドに置いた。


「穢らわしい。自分の事を、そう思ってるんじゃ無い?君は過去に囚われて身動き出来ない。そうだろう?」


 良く知りもしない赤の他人に、こんな風に言い当てられて棗は動揺を隠せなかった。


「何を言ってるのか分かりません。私を家に帰して下さい!」


 声を震わせる棗に、なおも狭山は訳知り顔でベッドに腰掛け、棗ににじり寄った。

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