第25話 木花咲耶姫《このはなさくやひめ》

 物憂い雨が降っている。天から細い糸を垂らすように。


 窓辺のソファに毛布に包まって棗は空虚な眼差しを鉛色の空に向けていた。

 あの日突然吐いてから、李仁と身体を繋げると決まって自分の意思とは関係なく嘔吐する。医者に行くのも億劫で、近頃は日がな一日ぼんやりとこの窓辺で過ごすことが多くなっていた。

 李仁はそんな棗をどうすることもできず、狭山の言った「愛する以外何ができるか」と言う言葉がじわじわと心を蝕んだ。


「今度は違う病院に行ってみないか?このままだと本当の病気になってしまう」


「大丈夫。春になれば、少し暖かくなれば良くなると思いますから、私は大丈夫ですから、もう仕事に行って下さい」


 そう言うと、棗は朧げに笑った。もう実際、病気なのかも知れなかった。けれども頑なに棗は病院に行くのを拒んでいた。

 一ヶ月経っても、棗の様子は劇的に悪くなる事も、また良くなることもなく、棗の白い肌は更に透けて、まるで陽炎のような儚さを帯びて行った。


 だが季節は確実に春の気配が漂い初めていた。今年の桜は早く、智也の結婚式には町中が薄い桜色に波打っていた。


「どうだ、行けそうか?」


 智也の結婚式に棗は鈍色桜の着物を着る事にした。着物を着付ける棗の身体は以前より細くなっていた。


「大丈夫ですよ。どこも具合悪くなんてありませんから。李仁さんは心配しすぎですよ?」


「帯苦しく無いか?」


「大丈夫です、行きましょう?遅れては智也さんに申し訳ありませんから」


 二人して着物と言うのも仰々しいので、この日李仁は珍しくスーツでの出席となった。

 会場は、庭が広くて美しいと評判の和風旅館で、あちこちに様々な種類の桜が咲き誇っていた。館内には神殿が設えてあり、結婚式と披露宴の両方が出来るようになっていた。

 式は親族だけで行い、舞台は賑やかな披露宴へと移っていた。

 智也の結婚相手は彼の言った通り、酒屋の大口の取引先のお嬢さんで、遠目に見ても可愛らしい感じの小柄な女性だった。

 あちこちのテーブルを周り、漸く李仁達の所へとやって来た。この日初めて智也の奥さんとなる女性を李仁は紹介された。


「おう、今日はありがとう」


 今まで見た事もないほど智也は緊張して表情が固かった。その代わり、隣のお嫁さんがカバーするように和やかな表情で李仁達に会釈した。


「こいつ、こんな感じの無骨な奴ですが、気持ちのいい奴なんで、どうか見捨てないでやって下さい」


「無骨とは何だ無骨とは!お前もたいして変わらんくせに!」


 いつもと変わらぬ喧嘩腰の会話にお嫁さんが慌てる様子が初々しかった。挨拶に移動して行く新婚の二人の後ろ姿に李仁も棗も綻んだ。


「お嫁さん、可愛い方でしたね」


「あいつには勿体ないな。

オレ達も結婚式したいな」


「私はどんな格好すればいいんです?打掛ですか?白無垢ですか?

どちらも気が引けてしまいます」


 そのどちらも自分には似合わない。着る資格がないとさえ思う。


「誰も居ない綺麗な場所で、二人きりの結婚式がしたいです」


「そうだな。君が居れば他に何もいらないな」


 会場の開け放した窓から差し込む太陽が、二人の塞いでいた気持ちを暖めた。


「外に出てみないか?桜が綺麗だ。庭を散策でもしてみようか」


「はい」


 二人して宴会場を抜け出す気分はまるで何処かに逃避行するようだった。

 小さな日本庭園は池や橋があり、様々な春の萌えた草いきれに包まれていた。

 皆、宴会場に集っているせいで、今庭には李仁と棗の二人きりだ。棗は緑の空気を胸一杯に吸い込むと指先にまで新鮮な空気が満ちて行くようだった。

 李仁と緩く指を繋ぎ、少し影になった場所で咲く桜の木の元へとやって来た。


「わあ、すごく綺麗ですね!二人きりでお花見するのにはちょうどいい感じですね」


 ゆったりと枝を広げた桜の木に凭れて木漏れ日を浴びる棗はこの世のものとは思えない。

ふと、李仁の脳裏にはる君の店の名前が思い浮かんだ。『木花咲耶』《このはなさくや》ああ、そうか。あれは棗の事だったのか。

 己の貞操の潔白の証に、自らが放った炎の中で子供を産んだと言う桜の神様の名前、木花咲耶姫。はる君が棗を思って付けた名前なのだと李人は分かったのだ。

 例え歪んでいたとしても、確かにはる君は棗を愛していたのだ。


「キスして下さい。李仁さん」


 棗の伸ばされた腕の中へと李仁は堕ちた。引き合う唇が柔らかく重なり合う。愛していると囁きながら甘い口付けに没頭した。


 突然、切羽詰まった顔を晒す棗。


「出来るかも…っ、私、今出来るかも…!」


 その意味を李仁が悟ると、手早く己の前を寛げ、桜の幹に棗を背凭れさせた。着物から剥き出しにさせた白い足を片方抱え上げ、花園を暴き、二人の欲望を結実させた。

 二人が揺れるたびに桜が舞い散り、棗の頬や肩にも可憐な花弁が降り注ぎ、やがて棗の身体が小さく震えた。


「…達けた、ちゃんと、私、ちゃんと達けました」


ずっと、愛し合うたびに吐いてしまう恐怖に晒されていた棗にとって、李仁との行為が完結出来たことが嬉しかった。


「愛してるよ、棗。これがオレ達の結婚式だ」


「嬉しい。私、ずっとずっと、今日の事忘れません。愛してます、愛してます、李仁さん」


 智也の結婚式なのに、李仁と棗の結婚式の様な幸せな気持ちで、二人は宴会場へと戻ってきたが、何やら騒いでいる女性の声が聞こえてきた。

 李仁の母の声だった。李仁の母も智也の結婚式に呼ばれていたのだ。


「貴方は!呑気な事言って!うちの嫁は男なんですよ?!男!情けないったらありゃしませんよ!」


 公衆の面前で父と母が言い合っている。そんな所へ運悪く二人はポンと出てきてしまったのだ。一斉に皆の視線が二人に注がれた。

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