第10話 予兆
そしてまた棗が帰ってこなくなった。
例の大学教授の論文が大詰めだとか言う理由だった。
同棲しているとは言え、それはあくまでも同棲であって結婚ではない。棗を縛り付ける枷など何も無いのだ。
しかし論文なら、ゼミ生だっているだろう。よりによって、卒業生に手伝わせることも無いだろうになどと、ふつふつと思ったり、いや棗は仕事をしているのだと思い直してみたり。自分がつまらぬ嫉妬をしているのだと思うと、己の度量の狭さにうんざりする。
棗にとって、自分が第二のはる君になる訳にはいかないと李仁は思っていたのだ。相手は十歳も年下だ。相手より精神的優位に立っていなければならないと言う妙なプライドが李仁を更に苦しめた。
あの十五夜の夜から時は進み、木枯らしに襟を立てる季節へと移り変わっていた。
この日、李仁は和装協会のシンポジウムに出席していた。そこに図らずも兄の一久も出席していた。あまり顔を合わせたく無いので知らぬ振りを決め込んでいたが、帰り際、李仁の方へと兄が近づいてきた。蛇に睨まれた蛙の如く。もうこうなっては受けて立つより仕方ない。近づく兄に李仁は自分から挨拶をした。
「お久しぶりです。お元気そうで」
ありきたりな挨拶だった。
「お前も元気そうだな。店の景気は良さそうだな」
「お陰様で、ファッションショー以来、今までとは違う客層が増えたよ」
「ああ、そうらしいな。後は嫁取りだな。母さんが心配してるぞ。なんでも、お前、一緒に暮らしている女がいるそうだな」
そりぁもう噂にはなっているだろう。
女か。自分自身に何の支障も無いが、相手が男だと知ったら周囲はどんな反応を示すのだろう。後ろめたい訳では断じてないが、周囲の人達にどう棗を紹介したものが考えあぐねていた。
「いずれ連れて本家に行こうとは思っているよ」
「いつまでもノラクラはしていられんぞ。早く腹を括れ李仁」
これだから嫌なのだ。
自分が結婚してからと言うもの、事あるごとに結婚は男の甲斐性だとか、妻あって一人前だとか、煩く言ってくる。説教じみてきた一久の話を受け流しながら、ふと会場に併設されているカフェの人影に目が行った。着物姿に黒艶髪。品のいい初老の男と一緒に仲良さげに並んで座り、何か楽しげに話しているその姿は、見まごう事ない棗だった。
教授とアルバイトの距離にしては近すぎやしないか?
差し向かいが普通だろう。何をあんなに楽しそうにしてる。
兄の小言は続いていたが、李仁はもうそれどころでは無い。兄の話に生返事でそそくさと切り上げると、いても立ってもいられずに、カフェへと走った。しかし既に、そこに二人の姿は無かった。
今度こそ、今度こそ教授の仕事は辞めてくれと言おう。そう決意をして今日棗が帰ることを期待して待っていた。
棗が帰ってきたのは真夜中だった。李仁はまんじりともせずに寝床で待った。李仁を起こさないように、棗は音を忍ばせて寝支度をすると、冷えた身体で寝床の中へとそっと潜ってきた。
「やっと帰ってきたね。一日千秋の思いだったよ」
遠慮して李仁から離れた場所に潜っていた棗の、冷えた身体を己の方へと引き寄せた。
「起こしてしまいましたね。
すみません」
棗の冷たい両手を己の懐入れて温め、氷のような脚を絡めて暖を取らせた。
「ふふっ、李仁さんの身体あったかくて気持ち良いです」
李仁の想いなど知らぬ様子で、棗は安堵のため息をついて、もそもそと李仁にくっついて来た。どんなに内心穏やかでは無いにしても、こんな仕草を見せられると愛しさしか湧いてこない。それでも決意を固めて李仁は口を開いた。
「なあ、棗。
大学教授の仕事のことだが…」
そう言いかけた時、棗が先に話を被せた。
「そう、喜んで下さい、その大学教授のお仕事が、やっと終わったんです!」
意外な言葉に出鼻を挫かれた。そして単純に喜んでいた。これであれこれ些細な嫉妬心から解放される。
「ならば明日から家にいられるのか?」
「はい!だから明日は…その、久しぶりにたくさん可愛がって欲しいです。もうずっと、貴方に触れて欲しかった」
その可愛い一言で、李仁はあっという間に棗に懐柔されるのを感じた。棗は意図せずか、それとも謀った事なのか、李仁の心を上手に手玉に取った形となっていた。
ベッドを軋ませ、李仁が棗の軀の上に乗って来た。熱い吐息が棗の首筋に降りかかり、李仁の唇がきつく細首に紅い吸い痕をつけて行く。まるで自分の所有を主張するように。
「オレが明日まで待てると思うか」
「あ、李仁さんっ、今はダメです。お風呂入ってないし、汚いし、、あ…ン、」
その悩ましげな棗の声を聞くだけで、李仁は体が熱く熟れ脳が痺れた。棗は微かに抗いながらも、しどけなく李仁に軀を開く。棗の前ではあっという間に自分が肉欲の呪縛に絡めとられてしまう。そんな白分を李仁は甘いと感じながら、思うさま棗を抱いていた。棗からも能動的に動いて李仁を誘った。相変わらず二人の相性は良く、こうして軀を重ね合わせている時だけは心に吹く隙間風がピタリと止んだ。
だが本当にあの教授とは仕事だけの繋がりなのか?
これでようやく心穏やかな日が戻ってくると思ったのだったが、それも束の間の事だった。
着物の納品の道すがら、李仁は帰宅者でごった返している交差点で信号待ちをしていた。こんな所にまだ昭和の匂いのするビルがあるんだなと、今まで気づくこともなかった古いビルに目が止まった。
しばらくぼんやり見ていると、そこから出て来た二人連れの人影に、李仁は目を疑った。そこから出て来たのは、思いもしなかった棗と、その肩を抱くはる君だったのだ。
いったいコレはどう言う事だ…?!
二人は切れていなかったのか?!
李仁はハンドルにしがみつき、二人が消えて行った道の先を凝視していた。信号が青に変わったのにも気づかず、後ろの車にクラクションを鳴らされるまで。
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