第四章第一節<選択>
「あの」
分岐路に差し掛かったとき、イースが声を上げた。
目の前には直進する道と、右に折れる道とがあった。
トールヴァルドたちはいつもそこを右に曲がっていた。その先にも道は無数に分岐をしているし、これまで特に疑問に思ったことはなかった。
だが今日はそれが気になった。いつもなら黙ってついていくところを、思い切って尋ねてみたのだった。
足を止め、振り返ったトールヴァルドはもう一つの道の先を一瞥し、それから何かを迷うような間を挟んだのち、短く答えた。
「あっちはな、行き止まりなんだよ」
それを聞いて、イースは前に出て道の向こうを覗いてみた。
確かに、その方向へは自分たち以外にもほとんど進んでいないようだった。道の両側には、元が何であったかすら分からないような残骸が積み上げられ、埃をかぶっていた。見るからに、打ち棄てられた区画、というところだった。
しかし、だからこそイースは興味をもったのだ。あの向こうには何があるのか。行き止まりとは、どんなところなのか。
「道が途切れてる、ってことですか」
イースの質問に、トールヴァルドは顎に手を当てて何かを言いあぐねているようだった。別に隠している様子はなかったが、適切な言葉が見つからなかったらしい。
「まあ、一度見るのもいいだろ……どうせ、急ぐ用事もあるまい」
悩んでいる様子のトールヴァルドを見かねたのか、ブラジェイが間に入ってきた。
書物、瓶、皿。
イースは目の前に並べられた品をじっと睨みつけていた。
どれも、今の自分にはない力だった。それを知れば、確実に成長ができる。しかし、どれもが容易に身につけることなどできるはずもないことは、素人の目にも明らかだった。
ブラジェイは決して急かそうとはしなかった。無言のまま立ちすくむイースの傍らを通り過ぎ、焼き物の杯に水差しの中身を注ぐ。それを手にして、寝台に座ってじっと遠くから眺めるだけだった。
どれほどの間、そうしていただろうか。
やがて、イースは指を伸ばし、書物に触れた。
「ぼくに、文字を教えてください」
「ほう」
ブラジェイは姿勢を崩さずに、ため息のような音を漏らした。
「歴史など知ってどうなる。お前さんは学者にでもなるつもりかの」
ブラジェイの言う通りだった。だからこそ、これだけの時間、悩んでいたのだ。
薬の知識は冒険に役立つ。空の星の魔力についても、容易ではなかろうがいずれは分かるようになるだろう。そのどちらもが、<洞>で生き残るためには必要な力だと言える。
しかし、イースは首を横に振った。
「ぼくも最初はそう思いました……ぼくは頭が悪い、何も知らない、だからすごい時間がかかると思います。だけど、文字が分かれば本が読めます。本が読めれば、いつかは勉強したことができるようになると思うんです」
ブラジェイは寝台から降り、こちらに近づいてきた。
「まあ、及第点じゃな」
イースの腰を軽く叩き、棚から別の本を一冊抜き取ると、イースの前に置いた。
「あの、ぼくはまだ」
「読めんことは分かっとる。まずは、文字の形を覚えることからだ……三十二の形が違う文字、全て覚えろ」
イースは戸惑いながら本を開いた。頑丈な装丁がなされた本は、一体どれほどの歳月を経てきたのか、想像もできぬほどに古い。綴じられた羊皮紙にはびっしりと文字が書き込まれていた。
「本の持ち出しは許さん。しかしわしがいるときなら、いつでもこの部屋に来ることは許す」
ブラジェイは杯の中身を飲み干すと、寝台の上で横になった。
深い寝息が聞こえるようになってもなお、イースは本から目を離せないでいた。
歩き出すブラジェイに、口を挟んだのはルイゾンだった。
「ブラジェイさん、だってその先はどこにもつながってねえじゃねえか、行くだけ無駄だろ」
「それはお前さんにとって無駄だというだけだ」
振り返りもせずにブラジェイは廃材の合間を縫うようにして奥へと進む。
仕方ない、とアルベリクもそれに続く。トールヴァルドはやや考えたのち、イースの背中をとんと押した。
「ま、一度見とくのも悪かねえか」
数年はそのままに放置されているかような様相を呈していたが、幸い道は然程長くはなかった。
ほどなくして現れたのは、大きな広間だった。天井を覆うほどに張られた蜘蛛の巣、床は凹凸があちこちにあり、汚い水が溜まっている。腐った板や梁などの木材を爪先で蹴ると、音に驚いた鼠たちが物陰から飛び出して消えていく。
<洞>の入り口と同じくらいの広さのある空間であるにもかかわらず、今では落ち着いて座ることすらできない。黴と苔に蝕まれた麻布に覆われた塵の山の奥からは、胸の悪くなるような腐臭が上がっている。決して快適とは言えぬ場所であった。
「行き止まりってこと、わかったろ?」
ルイゾンがしたり顔で頷いた。
「だからここに来るのは無駄だって言ったんだ」
「じゃあ、あれは」
イースが指差した先には、扉があった。
この場所に人が来なくなってから相当の時間が経っているため、扉も放置されたままになっているようだった。もともとは頑丈な鉄枠に嵌め込まれた大きな扉だったようだが、今では虫に食われ、錆びつき、傾いている。
そのせいで扉の向こうから、わずかに光が差し込んでいるのが見えた。外に繋がっているのだろう、と考えたイースだったが、新たな疑問がわいてきた。
<洞>につながる場所は一か所だけだったはずだ。
地上に繋がっている道なのだから、<洞>の探索には不要なのだと納得しかけたが、もしそうならこちら側を入り口として使うこともできるのではないだろうか。それなのに、どうしてこの道は放棄されてしまったのだろうか。
入り口からここまで、かなりの距離がある。もし二か所から<洞>に入れるのだとしたら、探索はもっと進むはずだ。
「あの道は、もう使えねえんだ」
トールヴァルドはそう言いながらも、扉の前を塞ぐ錆びた何かを力任せに持ち上げた。金属が軋む音が鳴り、横の方で積み上げられた樽が潰れる音がした。
「まあここまで来たんだ、ちょいと見ていくか」
やや高いところにある扉は、トールヴァルドの腕に押され、抵抗しながらも開いた。錆びついた蝶番を半ばへし折るような形で、道を開ける。
「いつかまた起きるかも知れねえからな……見ておきな」
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