第三章第三節<弟子>

「さて」

 イースとアルベリクが酒場に戻ってから、半時間ほど経ったころだった。

 それまで魚料理と弱い酒を口にしていたブラジェイが立ち上がった。

「わしはそろそろ戻らせてもらうよ、あまり呑み過ぎんようにな」

 戻ってからも、イースの頭の中にはさまざまな思いが渦巻いていた。

 もしかすると、トールヴァルドは息子への思いを自分に重ねているのかもしれない。

 トールヴァルドの息子がどんな男だったのかは知る由もない。ましてや面と向かって聞ける話でもない。しかし、もしあのとき、トールヴァルドが自分を誘ってくれたのが、息子を亡くしたことと関係しているのなら、自分は今のままでいいのだろうか。

 同時にイースは、自分の技量の無さも思い知らされていた。

 戦いの技がない。体力も膂力もない。

 祈りを捧げる敬虔な信心もなければ、奇蹟を起こす魔力もない。

 年が若いことは言い訳にはならない。事実、同じ年でも武器を手に戦っている者もいるのだ。

 そこまで考えたイースは、思い切って立ち上がった。

「ぼくも、宿に戻ります」


 宿に戻るのは自分のほうが早かった。

 人ごみの中で、ブラジェイに追いつくのは無理なことだった。ならばと考え、宿の入り口に戻っていたイースは、通りを歩いてくるブラジェイに気が付いた。

「ブラジェイさん」

 見れば、手に提げた袋が膨らんでいる。どうやら酒場から戻る間に、どこかの店に寄っていたらしい。

「お前さんも帰っとったか」

 ゆっくりとした足取りで、ブラジェイは宿へと向かう。イースはそれに並ぶようにして歩調を合わせた。

「たらふく食って、しっかり寝とけば体力はつく」

「ブラジェイさん」

 はじめはブラジェイの言葉を優しさだと思っていたが、今は違った。

 ブラジェイは、自分のことを年端もいかぬ幼子と同じように扱っている。

「ぼくに、ブラジェイさんの技を教えてください」

 返事はなかった。ただブラジェイは笑いながら歩き続ける。

「こんな老いぼれの言うことなど聞いてどうなる」

 その言葉や態度は、イースには予想外だった。てっきり、ブラジェイもまた自分が動き出すのを待っていてくれていると思っていたからだ。

 だから、拒絶されたことは驚きでしかなかった。

「あの、ぼくは」

「トールヴァルドの斧、ルイゾンの槍、アルベリクの弓……それを学べば魔物が倒せる。魔物が倒せれば生き残れる」

 それは正しい。護身の技を身につければ、「洞」で命を落とす危険は減るだろう。

「ぼくは……ブラジェイさんのように、薬を作って、罠をなくすことだって、生き残る技だと思うんです。ぼくはこんな体だから、まだ剱だって上手に使えない……だけど」

 袖から覗く白い細腕を自嘲気味に見下ろしながら、イースは続けた。

「ぼくも生き残るための技を学びたいんです。最初に行った訓練場で、白旗で錠前を外せたのはぼくだけです」

 ブラジェイは、イースの言葉にすぐに返事はしなかった。

 何かを考えあぐねているのかと思ったが、しばらくしてから、短い言葉で答えた。

「わしの部屋に来い」


 イースはトールヴァルドたちと泊っている一階の大部屋ではなく、ブラジェイと一緒に二階へと続く階段を上がっていった。

 使い込まれた踏板は足をかける度にぎしぎしと音を鳴らしているが、どうもこの宿では二階の部屋のほうが料金が高いらしい。

 荷物が多いから、という理由でブラジェイは一人部屋を使っていたのだが、その部屋には今まで入ったことがなかった。

 廊下の左右に続く扉の一つの前に来ると、ブラジェイは鍵を差し込む手を止め、屈んだ恰好のままで念を押すように告げた。

「わしはお前を特別扱いしているつもりはないからな」

 イースが返事をするよりも早く、鍵が外れる重い音が聞こえた。

 ブラジェイはゆっくりと扉を押し開けた。

 すぐに気づいたのは、部屋の中からの匂いだった。

 鼻の奥に残るような、しかし嫌な臭気ではなかった。しかしそれが何の匂いなのかは分からない。少なくとも、イースがこれまでに嗅いだことのない匂いだった。

 部屋の中は暗く、窓から差し込む月明りが僅かに照らしているだけで、何があるのかさえ分からない。時折吹いてくる風が冷たく心地よかったが、それに合わせて何か乾いたものが触れ合う音がかさかさと聞こえてくる。それ以外は全くと言ってよいほどに見えなかった。

 しかしブラジェイは違った。イースにしてみれば闇にしか見えない部屋の中を難なく進み、蝋燭に火を灯す。

 イースは息を飲んだ。

 机の上には何冊もの本が積まれていた。どれも分厚く、外装はあちこちが汚れ、破れていた。文字を知らぬイースにも、それが相当に古く貴重なものであることは分かった。

 部屋の中を見回すと、壁には干し草のようなものが吊られていた。中には乾ききった花もあった。匂いの正体はそれだった。

 棚には無数の硝子瓶が並んでいた。空のものもあったが、ほとんどは中に何かが入っていた。近づいてみると、濁った液体の中に黒っぽい何かが沈んでいるものもあった。

「勝手に触るなよ。わしにとっては宝でも、お前には腐った肉ほどの価値もない」

 ブラジェイは一冊の本と瓶、そして小皿と干し草を手に取って座った。

「さて、お前は何を学びたいといったかな」

 問われ、イースは言い淀んだ。改めて考えて見れば、自分が何を学びたいのかまで、真剣に考えたことはなかった。頼み込み、相手が何かを教えてくれると思い込んでいたのだ。

 イースが答えられないと見るや、ブラジェイは書物を開いた。そして皿の上に干し草を乗せて太い木の棒で磨り潰して粉にする。別の皿に瓶の中身を数滴垂らし、そこで再びイースを見上げた。

「この書物には『洞』の歴史が書かれている。しかし文字は今から七百年前の古代の文字だ。この草は粉にしてから水を少しずつ加えて練れば止血剤になる。東からの行商人が来た店を覗いて買えば手に入る。この瓶の中身は『洞』に棲んでいる赤い斑点のある蛇の肝臓の汁を薄めたものだ。月の出ない晩にこれを葡萄酒に混ぜて飲めば、一月の間に起こる最も悪い出来事を夢で見ることができる」

 ブラジェイは一つ一つの品を手に取りながら、ゆっくりと語って聞かせた。まるで出来の悪い生徒を諭す教師のように、平易な言葉を選んで説明した。

 そして最後に手に取った皿を机の上に置き、指を組んでイースを見上げる。

「わしに出来ることと言えば、この地方の古代語、それから南に伝わる古い時代の言葉。それから植物学、錬金術、簡単な占星術といったところだ。「洞」で役に立つかと聞かれれば、武器を手にして戦った方が余程役に立つと思うが……もう一度聞こう」

 ブラジェイの瞳には、今までイースが見たこともないほどに鋭い光が宿っていた。


「お前は何を学びたいのかね」

 

 

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