第三章第一節<豚鬼>

 岩盤を刳り貫いた通路に威嚇の声が響き渡った。

 醜悪な魔物だった。大きく膨れ上がった体に豚の頭をした魔物は、短剣や棍棒を手にしてこちらに向かって来ていた。

 豚に似た外見をしていたからと言って油断は禁物だった。事実、薄汚れた革の長靴を履いて突進してくる速度は、人間に引けを取らなかった。

 頭数は五人。数だけなら同じだったが、こちらは全員が戦えるというわけではない。

 戦斧グレートアックスを握りしめたトールヴァルドが負けじと迎え撃つ。腰を低く落とし、豚鬼オークの体重の乗った突撃を真正面から受け止める。

 否、トールヴァルドはただ待っていたのではなかった。最も早く自分とぶつかる相手を見極め、こちらからも向かっていったのだ。

 そのせいで、豚鬼は棍棒でトールヴァルドを殴りつけるより前に体当たりを食らうことになった。肩からの突進をまともに喰らい、豚鬼がよろめきながら倒れる。

 そこへ容赦のない一撃をトールヴァルドが振り下ろす。自重を生かした斧の一撃は、たとえ歴戦の猛者であっても倒れたままで受け切れるものではない。怯んだ相手なら、なおさらだ。棍棒の柄から腕、そして腹までを一気に分厚い斧の刃で切り裂かれ、絶命する。

 その傍らでは十字槍ブレイドスピアーの使い手、ルイゾンが苦戦していた。顔面を狙った刺突を繰り出すも、豚鬼は巧みに穂先を弾き返し、脇腹に槍の柄を挟み込んでしまったのだ。

 驚いたときには、ルイゾンの槍はしっかりと固定されてしまっていた。たかが豚、と侮っていたのもあったかもしれない。一回り大きな体躯を持つ豚鬼は、肩から腕までの筋肉が大きく膨れ上がっていた。人間ではどんなに鍛えたとしても、体格に恵まれなければ持ちえない筋肉量であった。

 ここで手を離せば武器を奪われてしまう。しかしこのままでは、無防備になってしまう。槍を押さえ込んだ豚鬼が口元を歪め、嗤う。

 戦いのためなら下手な冒険者よりも統制が取れた集団だった。その背後から別の豚鬼が飛び出し、ルイゾンに向かって錆びついた剣を振りかぶった。

 致命傷を覚悟したルイゾンの横で風が鳴った。無防備な冒険者に斬りつけようとしていた豚鬼がもんどりうって倒れる。

 続いてもう一度風鳴り。十字槍を挟み込んでいた豚鬼が顔面を押さえて苦悶の声を上げる。その指の間からは、矢が突き出ていた。

 アルベリクによる射撃だった。不意を打つことができた一人目は斃せたが、二人目の豚鬼はそうはいかなかった。左目を抉ってはいたが、まだ戦意を奪えていない。

 しかしそれで十分だった。アルベリクによって射抜かれた豚鬼の力が弱まっていたのだ。ルイゾンは柄を回転させて手前に引く。十字槍の返しの刃が、豚鬼の腕と脇腹を深く切り裂いていた。

 一瞬の攻防で、豚鬼は三人の仲間を失っていた。残るは二人。

 いくら豚鬼といえど、戦いを仕掛ける相手を間違ったことはもう明らかだった。後ろに控えていた二人の豚鬼は、棘のついた棍棒と短剣を捨て、背後の闇へ向かって走り出した。

 三度目の風が鳴った。闇に消えるよりも早く、右の豚鬼が転んだ。太腿を屋で貫かれ、体勢を崩したのだ。

「もういい!」

 低い声でトールヴァルドがアルベリクを制する。斧から手を放し、トールヴァルドは素手のまま倒れた豚鬼へ近づいていった。

 恐らく、豚鬼は死を覚悟したのだろう。今しがた仲間に斧を叩きこんだ男が、こちらへと近づいてくるのだ。情けない声を上げる豚鬼にかまわず、トールヴァルドは身をかがめて太腿を貫通している矢を引き抜いた。

 鏃でさらに肉が抉れたが、それどころではないのだろう。首を振る豚鬼に、トールヴァルドはもう一人の仲間が消えた闇を顎で指した。

 傷ついた足で何とか立ち上がると、豚鬼はそのまままろびながら逃げ去っていった。

「何も卑怯な手を使われたわけでもなかろう」

「そうなんだよなあ」

 アルベリクは肩をすくめてトールヴァルドから矢を受け取りながら、イースに向かって笑ってみせた。

「彼はいっつもそうなんだよ。君はどう思ったか知らないけどね」

 イースはアルベリク、ついでトールヴァルドへ視線を映した。黒ずんだ豚鬼の返り血を浴びた彼は壮絶な姿をしていたが、イースの視線に気づくと屈託のない笑顔を浮かべた。

「まあ、これは俺のわがままなんだけどな。いつでも見逃すわけじゃない。戦意を失った者、命乞いをする者、敵意のない者は殺さないことにしている」

「さてさて、あんたはどう考えるかな」

 イースの傍らを通り抜けながら、初老の男は呟きつつ豚鬼の死骸へと近づいて行った。

 彼の名はブラジェイ。武器を操ることはできないが、彼の薬品についての知識は群を抜いていた。先日の戦闘で、粘液の魔物を焼き尽くした炎を生み出したのも、ブラジェイの放った薬だった。

 しかし彼は錬金術師というわけではなかった。勿論知識はあるのだろうが、ブラジェイが得意とすることはイースの目指していることとよく似ていた。

「こやつの短刀は銀細工がある、これはそこそこ売れるぞ……ほれ、そっちの奴の腰の袋を見てみろ。金が入っておればいいんだがな」

 横の豚鬼を指さされ、イースは腰帯に結び付けられた革袋を開いてみた。

 中には銀貨が四枚、銅貨が五枚。取り出してブラジェイに渡すと、染みだらけの革袋の中にしまいこんだ。

 

 イースがトールヴァルドの集団の仲間入りをしてから一週間が過ぎていた。

 あれから、初日に訪れた館には行っていない。トールヴァルドの仲間たちと同じ部屋で寝起きし、同じ店で食事をしている。

 トールヴァルド、ルイゾン、アルベリク、ブラジェイ。

 仲間の名前も覚えた。共に戦闘を潜り抜けてきた。

 最初は子供扱いをしていた彼らだったが、ある時を境にイースへの視線が変わっていた。

「さて」

 アルベリクは手元の木片を広げてイースに向き直った。

「これまでの道で、何か間違いはあるかい」

 イースはアルベリクの手元を覗き込んだ。そこには「洞」の道順が簡単な図形で描かれている。自然にできた迷路の地図というわけだ。

「たぶん、合ってると思います……あ、でも、さっき通ったここ……二つ前の曲がり角の前のところ、左に続く道があったかもしれません。ただの窪みかもしれないけど」

 イースは気になったところを指さした。アルベリクはただの壁としか記録していなかったが、確か横道があった気がする。

「よし、それじゃ帰りはそこを見ていこうか」

 アルベリクは木片をしまい込むと、矢筒を背負い直した。

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