花言葉

Phantom Cat

1

 その日も松崎先生の様子はおかしかった。


 いつもは先生と一緒にいると、とても楽しい雑談をしてくれる。私はそれが大好きだった。それなのに……


 ここ数日、先生は私と必要最小限の会話しかしなくなってしまった。用が済むと、そそくさといなくなってしまう。


 どうしたんだろう……私が何かやらかしちゃったのかな……全然身に覚えがないんだけど……


 それでも、私は自分の仕事をしなければならない。


 今日の私の業務は学生が提出したレポートの採点だ。私が学部生の頃はまだ紙のレポートを受け付ける先生も多かったが、今はほとんど全ての科目で、学生は自分がパソコンで作成したレポートのファイルをLMS(学習管理システムLearning Management System)にアップロードして提出するようになっている。


 私は院生室の自分専用のパソコンを起動し、LMSに教員権限でログインして、全履修生のレポートファイルをまとめてダウンロードする。D1(後期博士課程1年)ともなれば先生とほぼ同じ精度でレポートを採点出来る。もちろん先生からちゃんと評価基準ルーブリックを聞いて把握した上での話だ。


 研究室には常に複数の花の香りが漂っている。実験用の物もあれば、そうでない観賞用の物もある。松崎研を選ぶ学生は大抵が花好きだ。しかも割と女子が多い。もともと生物学科は同じ理学部でも物理学科や化学科と違って女子が結構いるのだが、うちの研究室の女子が多いのは、それだけが理由ではない。


 先生は結構モテるのだ。生物学科の中で一番若い独身の教員だし、私が学部3年の時にうちの大学に赴任して、去年まで講師だったのに、今年から准教授。5年目で昇進というのはそこそこ優秀な方じゃないだろうか。実際、うちの大学に来る前は海外の研究機関でポスドク(博士号取得者向けの有給研究員)をやっていたらしい。その「できる男」オーラも女子を惹きつけるのだろう。


 先生の専門分野は、植物間のコミュニケーション。


 そう。実は、植物の間でもコミュニケーションというものは存在するのだ。とは言えもちろん植物が言葉を話すわけではない。植物が言葉の代わりに使っているのは、化学物質……つまり、香りだ。


 いつだったか、先生は雑談でこんな話をしてくれた。


「ねえ、香織かおり君」


 先生が私を名前で呼ぶのは、なんという偶然か、私の名字も「松崎」だからだ。と言っても先生とは出身地も違うし、別に親戚でもなんでもないのだが。


「人間に限らず動物はさ、表情から相手の感情を読み取るだろ? これも一種の非言語ノンバーバルコミュニケーションだよね。で、感情ってのはドーパミンとかの化学物質に依るところが大きい。だから、ひょっとしたら人間は、感情を通じて植物と化学的にコミュニケーションできるかもしれないね」


 先生はそう言って、だけど、すぐに眉をひそめる。


「あ、でも、やっぱコミュニケーションできない方が幸せなこともあるかも。例えば生野菜をかじると、その野菜の香りがするだろう? だけどそれは、その野菜が『今私は攻撃を受けています』と、周りの他の植物に送ろうとしている警告なんだ。ある意味、悲鳴と言えるかもしれない。最近はヴィーガンとか言って野菜しか食べない人がいるけどさ、単に動物を食べるのがかわいそう、っていう理由でそうしてるんだとしたら、野菜も悲鳴を上げながら食べられてると知ったとき、そういう人たちは……どうするんだろうね?」


「……はぁ」


 私は間の抜けた顔で、曖昧な返事をすることしかできなかった。


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