千の使命と万の栄誉 ウェンスノーセ正伝
大橋博倖
第1話 序
ブルツィェフ・ザクレブ上等兵は激痛に身を躍らせた。
ついうっかり、泥だらけのグローブで“寝惚けまなこ”をこすってしまった。
慌てて脱ぎ捨て、涙と指先で目を洗い流す。
一息ついた。
眠気は完全に消えてしまった。
時計を見る。二辰ほどはまどろんだ勘定になるのか。
全然、寝足りないはずだが、身体はすっかり起きてしまった。
ゆるゆると視線を上向かせる。
灰を流したような空が、垂れ込めた雲が、曇天が、今日も鬱然と視界を遮る。
それでも夜は明けている。
ということは陽は出てはいるのだ。
此の世の何処かは知らねど。
ヘルメットを外し、銃床に被せ。
ゆっくりと頭上に差し出す。
反応は、無い。
素早くヘルメットを被り直し、それでもなお、慎重に身体を起こす。
狙撃は無いようだ。
「さすがに、そこまで商売熱心じゃぁないか」
独り、呟く。
襲撃は明け方まで続いた。なんとか撃退したのはつい、先ほどのことだ。
それでも第三波があるかもしれない。
奇襲、朝駆けにはちょうどいい頃合いだ。
座学で学んだ兵理では無い。
日々の暮らしで身に付いた常識に過ぎない。
辺りを見渡した。
吐息が漏れる。
目に付いたのは“案山子”だけだ。
陣地は完全に寝静まっている。
無理も無いか。
それでも。
銃声一つで我々戦闘機械は目覚めるだろう。
単に眠りこけているのではない。今はそれが可能だから、だ。
それにしても、これはさすがに無防備に過ぎる。
目覚めたのは幸いだ。おれが。
あ。
彼はその前に、目覚めのきっかけの生理的欲求を思い出した。
足早に休憩所へ急ぐ。
些細なようだがこうした規律、秩序の堅守はそれが仮初めであればこそ尚、重要だ。職場の衛生管理一つ出来ずに所構わず放尿しているようでは汚物にまみれたまま最終的には士気崩壊に至る。そんな軍隊が戦力になるワケがない。
ああ無論、戦闘中は大小垂れ流しになるが。“優雅な”鉄騎乗りででもなければ。
「鉄騎」乗りには貴族の出が多い、という。
御先祖はまんま馬に跨り、騎士として名誉を掛け、家卒の先頭に立ったそうだ。
そうした気風が、今も色濃く息付いている。
領主達が、師弟をそうして軍に預けるのだ。
軍もそこは心得たもので、そうした者は優先的に鉄騎科に配属される。
と、いうのは実は鉄騎という兵課にまつわる外野からの幻想に過ぎないのもまた事実ではある。幻想といってあまりに救いが無ければ浪漫、だろうか。
そういえば。と、ブルツは思い出す。
今朝方、救援に駆け付けてくれた鉄騎の隊長さんは。
「ほんとに、貴族みたいな人だったな」
うんざりする様な準備砲撃が終わり、陣地は敵兵の挙げる喚声に包み込まれた。
それだけで、もう陥落してしまったのではないかと。
新兵の頃は恐怖に震えたものだ。
今では何も感じない。砲撃の凶的な轟音に比べれば、何というか、人の温もりを感じさせるその音楽は耳に心地よくすらある。
小隊射撃準備。
軍曹の声が砲撃より烈しく陣地を切り裂く。その手が掲げられる。
一昨日より近くないか。
ふと、ブルツは思う。
まだか。
まだか。
手が、振られる。
撃つ。
初弾から命中した。
敵兵が跳ねる。
その顔がもう見分けられる距離。
ブルツは頭を狙う。
頭なら一発で止まる。
俺より、若いな。
事実としてブルツはそれを確認する。
意味は考えない。
考える意味は無い。時間も。
次の兵は親父くらいの歳、だった。
親父か。
休暇で実家に帰った時の事だ。
乗り合いを降りて川の土手を歩きながら下り、林を抜け。
荷物を取り落とした。
故郷の我が家があるべきだった場所は焼け落ち、黒焦げの野原に変わっていた。
眼を移すと中央から疎開して来たのか、見慣れない構造物がある。
何かの、軍需工場のようだった。
それを狙った爆撃が逸れたのか。
工場は幾重もの対空陣に囲まれ、傷一つ見えない。
工場の門衛に掛け合ったが要領を得なかった。工場が移転して来たとき、既に辺りは無人だったそうだ。
家族の生死は判らない。恐らくその通知を受けたのだろうが、彼の元には届いていない。今では不達の郵便など珍しいものではないし。
それ以来、休暇を貰えても行く宛てもなく、隊舎でごろごろするようになった。
最近はそれすらもない。
撃つ、撃つ、撃つ。
マグチェンジ。
撃つ、撃つ、撃つ。
撃つ度に死体を作っている。
人生を奪っている。
しんどいなあ。
殺す側だって、しんどいさ。
なあ。
撃つ。
衝撃で、体が吹き飛んだ。
数寸の意識の断絶のあと、頭を振りながら立ち上がる。
迂闊な動作。
再び衝撃。
これは銃撃だった。
頭部に殴り倒すような力を受け、地に転がる。
今度は慎重に辺りを見渡す。
ブルツは塹壕から放り出され、地べたに転がっていた。
遮蔽物など欠片もない丘の斜面だ。
体の近くを銃撃が縫う。
ブルツは慌てて近くの壕目掛け這い進む。
ここまで真剣に匍匐前進をしたのは久し振りだった。
何とかあちこち掠り傷でそこに転げ込む。
ようやく見回す余地が出来た。
自分がさっきまでいた壕は、跡形も無かった。
そこは着弾により弾痕に変わっていた。
そして改めて壕内を見る。
半数近くが、いやそれ以上が無力化されている。
頭を抱えて震えている者もいる。
こんな奴はとうに死んでると思ったが、生きてるのも居るのか。
眺めて気付いた。死体の多くは酷く切り刻まれている。
首が無いもの、手足がちぎれているもの。
機銃座の重機も醜くねじれて転がり、その周辺には機銃手の肉片が散乱している。
ここも直撃に近い被害を受けたのか。
ブルツは足下に転がっていた軽機を手にし、泣き喚いている兵を蹴り飛ばす。
フルオートで撃ち尽くした。
弾をバラ撒くばかりで命中率は良くないなと思う。
10人、撃てたかどうか。
やはり小銃だ。
これも近くの死体が抱えていたのをむしり取り。
撃つ。
「死にたくなければ、撃て」
声を荒げるでなく、叫ぶでなし。
事実として、ブルツは告げた。
兵の何人かが正気を取り戻し、銃撃に復帰する。
予備の銃が据えられ、銃座も射撃を再開している。
先の兵も、泣きながら撃っている。
撃ち終わりにブルツはそれらを眺め。
眺めながらその光景が眼に入った。
救援か。
鉄騎が来てくれた。
1,2,3両、いや。
不味い。
ブルツは唇を噛む。
敵兵がそれに群がりつつある。
鉄騎は堅い装甲に強大な火力を持つがそれは鉄騎戦での話で、歩兵の近接突撃には思いの外、脆い。
あれを排除しないと、折角の救援が。
おい。とブルツは機銃座に向け叫ぼうとした。
舌打ちをする。
機銃手は重機に突っ伏し、動いていない。
周りの兵は気付いていないか、気付こうとしない。
当たり前だ。誰が壕から出たいものか。
くそ。
ブルツは何かを毒付き。
小銃を肩に掛け、さっき捨てた軽機を今一度手に取る。
そして、泣き止んだ兵をまた蹴った。
「俺に続け。でなければ今撃つ」
背を向けつつ。
「撃ちたければ撃て。だがお前も死ぬ」
構わず、腰を屈め、走る。
そうしなければ、この陣は落ちる。
理屈では無かった。この2年、撤退戦で身に刻まれた経験がそれを語っている。
敵兵達は、鉄騎という脅威に釘付けで、背後への警戒は疎かだった。
それが付け目だった。
ブルツは指揮官らしき者をまず狙撃した。
更に制圧射撃を加える。
指揮官の喪失に加え背後からの急襲に、敵は完全に浮き足立った。
そこへ更に、鉄騎側からの制圧射撃が加えられる。
ブルツからの銃火で、自分達の危地に気付いたようだった。
前後から挟撃され、敵兵は壊滅した。生き延びた者は逃げ散って行く。
ブルツもさすがにそれは無視し、砲塔上部から身を乗り出し騎載機銃で射撃していた指揮官らしき男に声を掛ける。
「救援、感謝します」
男は彼を見た。
鋭いが同時に、不思議な温もりを含んだ眼が彼に向けられる。
「貴官は」
ブルツは敬礼しつつ。
「ブルツィェフ・ザクレブ上等兵であります」
男は柔らかく答礼した。
「シュナイツァー・フェム・ルベウス上衛士だ」
そこで、男は僅かな苦笑を漏らした。
「救援に来たところがさっそく、助けられてしまったな。こちらへ、上等兵君」
応じ、ブルツは鉄騎の上に這い上る。
「状況は」
「ご覧の通りです」
「敵、鉄騎の姿は」
「自分は見ていません」
ふむ。と男は首を傾げた。
「良く判った、有り難う。……少し揺れるが、今少しつきあって貰えるかな」
「自分は、“酔い”ませんので、大丈夫です」
ブルツが生真面目に応えると、男は微笑んだ。
「結構。では鉄騎の乗り心地を愉しんでくれ」
その目がす、と細くなる。
「機関出力最大」
鉄騎の動力源である魔導機関がその低く重い唸りを増し、騎体が更に浮き上がる。
「小隊前進、全速」
魔導機関の発する振動に鉄騎は僅かに身体を震わせながら、しかし滑る様に突撃する。
その騎上からブルツは射撃を続けた。
鉄騎3騎の増援が戦場に与えた効果は絶大だった。
騎外にブルツという眼を得た鉄騎は今や無敵だった。
3騎の鉄騎は陣の周囲を周回するように機動し、縦横に射撃を加え、挽き潰し、蹴散らした。その動きを留めるものは無かった。
陣地司令所が敵の動きから割り出した敵攻撃指揮官の指揮所まで鉄騎小隊が進出するに及び、遂に敵は退却していった。
鉄騎の砲撃を浴び潰走する敵部隊を眺めながら、男は告げた。
「これで次は、奴らも鉄騎を持ち出して来る。すまんが覚悟してくれ」
「それは」
さすがにブルツも不安を覚え、言葉に詰まると。
「もちろん、私たちも来る。何度でもね」
そう、約束してくれた。
相変わらず陽の光は見えない。
それでも風がないだけマシか。
小さく頷くと、塹壕線の最外縁をゆっくりと歩き始めた。
戦争は既に5年、続いている。
彼が前線に出てからでももう3年は経つ。
ぐちゃ。何かを踏み付けた。
拾い上げて、見る。
ちぎれてそこにあったのは、誰かの指だ。敵か、味方か。
敵のであれば、唯の肉片だ。味方のでも、もうすっかり凍りつき、これはだめだろう。第一ここにはそれを接げる軍医など居ない。
探せばそこらに、割れ落ちた歯も、眼球すら転がっているだろう。塹壕の攻守を賭けて近接戦闘になれば、敵も味方も野獣に還る。急所目掛けて銃床やシャベルを叩き付けあう。腹をこじり顔面を抉る。
ブルツは指のかけらをぽいと放り捨てた。
血塗れの臓物とか生首のような、目に付くものならちゃんと片付けてあるのだが。
死体はもう見飽きた。敵も味方も山ほど。
赤黒い血痕も至る所に落ちている。
奥まった処には、そこかしこに人影が倒れている。
死んだように眠りこけている。いや死体も混じっているかもしれない。
塹壕から少し押し出した位置に、土嚢と共に敵の死体も弾除けとして積まれている。
もちろん味方はちゃんと埋める。
捕虜は取らない、取れない。
空中から一日一回、あるかないか。
補給は乏しい。自分たちだけで十分餓えている。
それにしてもとブルツは思う。俺たちはいつまでここに居ればいいのかと。
将ならぬこの身としても、既にこの地が戦略的価値を喪失している事は判る。
占拠すべき街区は瓦礫の連なりとなり果て、鉄路も使い物にならない。
唯一、交通の要路であるかもしれないがこれも地雷で寸断されている。
逃げ出したいのはもちろんだが、それ以前に踏み止まる意味が判らない。
これは兵としても辛い。
それでも、ここが此の世の果ての地獄だ、などという感慨は特にない。
最前線などこんなものだろう。
そして戦争が此の世に存在する限り、世界の何処でも見られる光景の断片に過ぎない。
だからといって、昨日も今日も、快楽と縁遠い場所に寝起きしているのは事実だ。
何をこんなに必死に生きているのだろう。とブルツはふと不思議に思う。
死んでいるのか寝ているのか。
誰も立っていないから彼はこうして敵の襲撃を警戒している。
夜通し攻められたのはこっちの勝手で、敵は別の部隊を別方面から出してくる、かもしれない。
死んで埋まれば楽になるかもしれない。
ここで死ねと言われてこの地にへばりついている様に。
死ぬまでは生きて戦うのか。
任務だから生きているのだろうか。
わからぬままにブルツは黙々と足を動かす。
そしてそれに気付いた。
空が明るい。
なんだ、とブルツは戸惑った。
始めは、陽の光が差したのかと思ったのだ。
違うことに直ぐ、気付いた。
光だ。それはそうなんだが。
いや。
ブルツは眼をこする。
光の塊が、ゆっくりと天から降りて来る。
なんだ、あれは。
ブルツは、それを追って駆け出した。
追い付いた。
ブルツは見上げる。
頭上からそれは降りて来る。
眼を疑う。
光の中に、何かが見えた。
「おんな……のコ??」
眼を閉じ、身体を丸めた。
なんだ。
なんなんだ、これは。
眼の前まで降りて来たそれは。
ぱっ、と弾けた。
光が弾け。
中から。
「うわっ!ととと!」
ブルツは慌てて抱き留める。確かな質感。
金髪の髪。
見た事のない衣装。
軽く閉じた眼。
眠る様な、まだ輝いているかに神々しい、その貌。
「お……んなの……コ」
なんだ、なんなんだ、このコは。
彼女は、もう敵襲には慣れたブルツにも、思いもよらぬ方面からの奇襲だった。
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