【雑多】ショートショート集
鳥海錫子
巨星墜つ
少年は、頭の上に何かが落ちてくることをひどく恐れていた。
だから、彼は歩道橋の下を通らない。ビルの建設現場には近寄らない。果てには、カフェの看板が、少し歩道に張り出しているのさえも警戒した。
周りの大人たちは、「小学生のことだ、おかしな思い込みはするものだろう」と彼に温かな目を向ける。そして、幼年期に自らがしていた勘違いを懐古するのだった。月極駐車場のことを「ゲッキョクチュウシャジョウ」と読んでいたこと。君が代の、「巌となりて」を「岩音鳴りて」のつもりで歌っていたことなど。
やがて少年は小学校を卒業し、中二病を患った。頭上に物が落ちてくることに恐怖する気持ちは少しも薄れることなく、かえって子どもらしい終末論的な風味をまとって増幅するばかりであった。
彼は級友に滔々と語る。
「知ってるか。俺たちはいつか、降ってきた天に押しつぶされて死ぬんだよ。アポカリプスだ」
「またその話?」
「大事なことだから、何回も言うんだよ」
「はいはい」
友人は口先では興味がなさそうでも、実のところ興味ありげなのが彼には面白い。
大人にこうした思いを語れば、奇異の目を向けられる。子どもであるなら馬鹿にしてくる。
だから、彼の言うところの「アポカリプス」について話すことができるのは、クラスでも特に仲の良い一人だけだった。
そして高校生となった。彼が、中学時代のこうした奇言を思い出すたびに、ベッドの上を転げ回りながら悶絶するはめになったのは言うまでもない。
中二病は治ったとはいえ、風変わりな強迫から逃れられたというわけではない。通学路では、いまだ無意識のうちに頭上に気をつけているのだった。度重なる考査や模試に追われる毎日で、そうした無邪気な考えを意識的に思い出すという機会こそ減ってはいたのだが。
彼の中学時代からの友人は、高校三年生になっても、いまだに中二病的発言について面白おかしく話してくる。しかし、その口ぶりがあまりに楽しそうなので、彼は呆れながらもそれを許していた。
一年の浪人期間を経たのちに、彼は地元を出て町場の大学に進んだ。大学のある周辺こそ栄えているが、そこから数キロもしないところに田園風景が広がっている。
東京ではないとはいえ、都会は気詰まりだ。頭上に何かが無いということは滅多にない。
できることならば、頭の上に何もないような、安心できる場所にある大学へ行きたかったのだが、そのような大学には、なべて彼の学びたいような学問はなかった。
街での生活に耐えかねると、彼は郊外へ出かける。
田舎は空気が美味しいだとか、人の心が温かいなどということは彼には分からない。辺鄙な場所で彼の心が休まるのは、ただひとえに頭へ落ちかかってきそうなものが一つもないからである。
大学生活も半ばを過ぎて、彼は初めて恋というものをした。アポカリプスについての話を聞いてくれた、中学からの友人とだった。彼らは大学を卒業したのちに結婚し、二人の子どもをもうけた。
いつしか、彼が子どもの頃から抱いてきた恐怖は、布を洗濯するたび色落ちしていくように記憶から剥がれ落ちていった。
恵まれた平凡な生活の中で、子どもは成長していき、彼らは老いた。子どもが大人になると、子どもも彼らも、ひたすら老いていった。
結局、彼の妻は八十六歳で死んだ。何の病気でも、事故でもなくして死んだ。
彼はいま、九十三歳となり、あの程よい都会の郊外で暮らしている。
彼の学生時代とは随分姿を変えた町だが、それでもやはりのどかで落ち着く場所だ。何しろ、空はどこまでも青い。
田んぼと田んぼの間を縫うつましい道を、彼は一人散歩していた。息を吸い込むと、晩秋の清冽な風が肺を満たす。
何となしに耳を澄ませると、老いた耳にごうごうと飛行機の風を切るような音が聞こえる。今まで妻のように病気なし、怪我なしで暮らしてきた自分だが、さてはついに耳がおかしくなりだしたな。まあ、寄る年波だろうか、と思うが、音は段々と近づいてくるようだ。
突如、彼の心は幼年期へと戻される。
少年は、頭の上に何かが落ちてくることをひどく恐れていた。
かつて少年だった男は、自分を息苦しいまでに巨大な隕石が目がけているのを見た。
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