子猫日和
@nobuo77
第1話
朝、義父がお染と名付けた子猫の姿が、家中探しても見あたらなかった。
長男の嫁の友子は、義父と一緒になって家の外に出て、物置小屋や犬走りに置かれた段ボール箱の中などを探して歩いた。
昨夜から降り続いているみぞれ交じりの冷たい雨の中ではそう遠くまで行くはずはない。十五分ほどかけて、約七十坪ほどの敷地をぐるっとまわって探し歩いたが、お染の姿はどこにも見あたらなかった。タクシー運転手の夫の和幸は遅番勤務なので、今朝はまだ起きていなかった。
お染は十日ほど前に、義父が毎朝村はずれまで往復する散歩の途中に、工事現場の資材置き場の片隅で、弱々しい泣き声をあげているのに気づいて拾ろわれてきた子猫だった。まだ生まれて間もないらしく、片手に抱いてセーターの裾にいれると、ふるえが少しおさまった。
三年前に義母が病死してからの義父は、朝夕の散歩をするとき以外は、ほとんど外出することもなく、日中はカーテンを引いた部屋でテレビを見ているようだった。気になって、友子がドアの外から声をかけることがあった。
「義父(おとうさん)、たまには外に出て、新鮮な空気を吸ったらどうですか。天気もいいし、部屋よりも外の方が晴れ晴れするわよ」
返事はすぐにかえってこなかった。
さらに気になって、ドアのノブをそっとまわして中をのぞくと、冬だというのに義父は胸元をはだけ、いびきをかきながら上向きに寝ていた。枕元のテレビではワイドショーがはじまっていた。これが実の父親なら、愚痴の一つも言えるのにと思いながら、友子はテレビのスイッチを切って、ドアを閉めた。
お染を拾ってきた義父は早速、自分の部屋に段ボール箱を持ちこんで、その中で育てはじめた。お染がそばにいるようになってからの義父に、少し変化が見えてきた。そわそわした様子で部屋の出入りをすることが多い。
そんなある日、
「これはひょっとすると、ワシが昔、子猫を虐めたことの罪滅ぼしをさせられているのかも知れない」
と、ぽっりと言ったことがあった。
「罪滅ぼし?」
友子は家事の手をとめた。
「もう、六十数年も前の話だ。ワシがまだ小学三、四年の頃だった。学校の帰り道、川原の草むらで一匹の子猫を見つけた。ワシ等数人のガキ達は一斉に小石を拾って投げはじめた。投げて投げつづけた。その子猫はよほど弱っていたらしく、石が当たっても逃げようとはしなかった。体の下半分が埋まりそうになったときに一度だけ、弱々しい泣き声が聞こえた。ワシ等ガキどもは、その泣き声を聞くと、またカッとなって、手当たり次第に石を拾って投げつけたもんだった。気がつくともう子猫の姿はどこにも見あたらない。
そして次の日、再び川原を通りかかると、盛り上がっていた小石が動いた。子猫の姿は見えなかったが、私も他のガキもかっとなって、また石を投げつづけた。その後、子猫がどうなったのか思い出せない」
義父はそう言いながら、子猫の頭を撫でつづけていた。
「今までずっと気になっていたことが一つある。和幸と友子さんが一緒になって五年になるが、いまだに孫の顔を見ることが出来ない。それも、ワシがガキの頃子猫を虐めたことが原因ではないかと気にしていた」
「まさか…」
突然そんな話が出て、友子は慌てて作り笑いをした。顔色が青ざめていくのを、義父に気づかれないようにしながら、急いで家事の続きをはじめた。
お染は拾われて安心したのか、普段はおとなしかった。義父が昼間、排泄のために庭に放すとき以外は一日中、泣き声もたてず、段ボール箱の中で、居るのか居ないのか判らないぐらい静かに過ごしていた。
「そこいらを探してみるよ」
友子が差し出したお茶を勝手口に立ったまま一口飲んだ義父は、そう言い残して雨の中を歩いていった。事故はそれから十数分後におきた。
事故を目撃した近所の青年が、息を切らせながら玄関に駆け込んできて知らせてくれた。話しによれば、家から三百メートルほど行った道路沿いの廃屋の軒下に、お染がうずくまっているのを義父は見つけたらしい。
急いで抱き上げ、歩き出そうとしたとき、抱き方が不安定だったため、腕からお染が下にずり落ちたそうだ。おどろいたお染は道路を一直線に走り出してしまった。
一瞬、追いかけようとして一歩踏み出したところを、義父は後ろから走ってきた軽自動車に接触しそうになって、転倒したということだった。
友子夫婦が現場に駆けつけてみると、車を運転していたのは美紀という情報技術専門学校に通う一九歳の娘だった。義父はアスファルト道路で頭を強打し、即死状態だった。
すっかり夜も更けて、すでに通夜の客が途絶えて、三十分以上が過ぎていた。
昼間あわただしく飾りつけられた祭壇が、和室の大半を占領している。
うとうとしながら、夫に添い寝するように横になっていた友子は、先ほどからのどの渇きを覚えていた。朝、事故の知らせを受けてからずっと、動き通しだった。満足に昼食も夕食も取っていなかった。
人々が出入りしている間は、気が張っていて、空腹感も忘れているほどだった。予測しない出来事に、あわてて部屋を片づけたり、食器類の確認に追われつづけた。朝からなんと慌ただしい一日だったことか。深夜になって、すっと静かになると、緊張感が薄れ、疲労を覚えた。それからどうしようもないほどの空腹感におそわれた。
台所に行こうとして起きあがった時、どこからか猫の泣き声が聞こえてきたような気がした。
疲労のせいだと思いながらも、気になって耳を澄ませた。しばらく、じっとしていた。庭先の木の枝をゆらす風の音にまじって、虫の音がとぎれとぎれに聞こえる。
友子は部屋中をぼんやりと見渡しながら、やはり疲れのせいだと気を取りなおした。
「ニャァー」
冷蔵庫を開け、麦茶をコップ一杯飲み干して、部屋に入ったところで今度は、か細いながらも、はっきりと聞き取れた。
「お染だ」
とっさに、そう思った。
まだ片手にすっぽりと隠れてしまうぐらいの小さな体をふるわせながら泣く、あのお染の泣き声だった。
振り向くと、玄関のそばの障子が少し開いている。ちょうど明かりが影になった部分の敷居に、お染がうづくまっていた。
よく見てみると、喉に赤いリボンをつけている。一週間ほど前に、義父が結びつけてやったものだった。
「シッ」
友子は膝をずらしながら、手でお染めを追い払う仕草をした。だが、お染は身じろぎもしない。
友子は二、三度、同じことをくり返した。それでもお染は、友子を無視するように、足をそろえて、じっと祭壇を見すえつづけている。
友子は恐る恐るお染にむかって、おいで、と手まねきをした。するとお染は、その時を待っていたように、音も立てず、一直線に忍びよってきた。
友子は膝にすり寄ってきたお染を胸元に抱き上げた。少し濡れていて、ひんやりとした。
「どうやってここへ来た」
友子は小声で話しかけた。
朝、事故の知らせで、家から1キロさきの現場にかけつけたときには、お染の姿を見かけなかった。あのときから、もう十数時間がたっていた。どうやってここまで帰ってきたのか、友子にはわからなかった。
「義父(おじいちゃん)よ」
胸に軽くお染を抱きかかえ、友子は膝をずらしながら、祭壇に近づいていった。
「今朝、お染を探しに行って、車に跳ねられたんだから。ほら、こんな姿になって。見てごらん」
友子はお染を片手で差し上げながら、棺桶ののぞき窓をほんの少し開けて、中の様子を見せるしぐさをした。
「ニャアー」
お染はか細く途切れそうな泣き声をあげ、友子の胸に軽く爪をたてた。
友子が思わず
「痛い」
と手の力をゆるめた瞬間、お染はのぞき窓から、すっと棺桶の中に飛びこんだ。
「お染!」
あっという間の出来事に、友子はおどろきの声を上げた。怖ごわと棺桶の中をのぞき込んでみる。薄布を被った義父の顔がある。
「お染」
小声を出して、しばらく棺桶の気配をうかがう。じっと聞き耳を立てるが、内部からは物音一つ聞こえてこない。
「友子さん、まだ起きとったですか」
不意に背後から声がした。
棺桶にすり寄っていた友子は、ぎくっりとして振り向いた。義父の遠縁に当たるお菊さんと呼ぶ五〇歳過ぎの女が、廊下の障子の影に立っていた。
「お手洗いを使わせてもらいました」
そう言いながらお菊さんは祭壇の前で膝をおり、線香を一本あげた。
「さっき廊下で子猫を見かけたけど、こちらに来なかった?」
「………」
友子は無言でお菊さんから目をはずした。
動揺がおさまらず、すぐには言葉が出ない。
「明日があります。早く休んで下さい」
お菊さんはそう言うと軽く咳払いをした。それからすこしの間、祭壇の前にすわりなおしながら、周囲を見わたしている。
友子が後ろにさがると、お菊さんもヨイショと、膝に手を添えて立ち上り、また咳ばらいをしながら部屋から出て行った。
友子は夫のそばにいって、横になった。疲れはあったが、頭がさえてなかなか寝つかれない。頭から毛布をかぶった。
耳を澄ますと、棺桶の中から、物音が聞こえてくるような気がする。尖ったお染の爪が、棺桶の壁板を引っ掻く音だ。
いや、義父の身体をひっかいているのかも知れない。黒褐色のどろりとした血液が棺桶の底から流れ出す。それが朝になると、祭壇の下の畳に染み込んでいる。
友子はさきほどお染がたてた胸の爪痕に、かるい痛みをおぼえながら、いつしか眠りに吸いこまれていった。
「友子さんは、昨夜遅くまで起きていなさった。もう少し寝かしときなさい」
そんな声を、友子はウトウトしながら聞いていた。夢の中の心地よい潮騒のようなざわめきだった。久しぶりに会った友人と波打ち際で戯れている映像が遠くに見える。
「お菊さん、今、猫の泣き声を聞かなかった?」
線香をあげにきた近所の女が、お菊さんの顔をみた。
「昨日の子猫が、仏さんに会いに来たとでも言うのかね」
お菊さんの声がする。
「朝から、気色の悪い話せんで」
はっとして、友子は夢から覚めた。あわてて起きあがった。
昨夜寝るときには、目覚めたらすぐに、棺桶の中がどうなっているかを確認しなければいけないと考えていたのに。
「昨夜はあなたが一番遅くまで起きていたんだから、もっとゆっくり寝とりなさい」
お菊さんの浅黒い顔が、かぶさるような至近にあった。
「お早うございます」
先ほどから、ずっと潮騒のように聞こえていたざわめきは、昨夜から泊まり込んでいた親族達の押し殺したような声だった。
友子はすでに祭壇の前に車座になっているそれら複数の近親者達に向かって、顔を赤らめながら頭を下げた。夏の朝日が部屋に射し込みはじめている。
友子は手早く乱れた髪を直した。それから気持ちを静めるようにしながら、周囲の気配をうかがった。
夫の姿が見あたらない。庭先でスズメがしきりと騒いでいる。
「和幸さんは、さっき墓地にいきなった」
と親族の一人が教えてくれた。友子は無言でうなずいた。
この地方では、村の当番の男達が土葬の穴を掘る際の確認のため、葬儀の朝一番に、喪主が墓で立ち会うという習慣があった。
友子は嫁いできてはじめての葬儀だったので、そんな習慣があることさえ知らなかった。
「今頃、土葬だなんて、時代遅れもいいとこだ。もっとも、日本ではいまだに土葬の風習を固く守り通している地方もあるにはあるが」
車座のなかに座っている長老格の老人が、ひとり言ををつぶやく。
「あの墓地も近々、火葬にあらためられる。この葬儀が最後の土葬になるだろう」
開け放された窓際で、たばこを吸いながら男達がひそひそと話しあっている。
友子は人目を避けるようにしながら、そっと祭壇に目を向けた。
線香立てからたちのぼる紫煙が朝日に向かってひろがり、棺桶を包み込もうとしていた。友子は祭壇の手前から奥の畳に向かって、周囲の者には悟られぬように注意深く目で追い、異変が起きていないか観察した。
お染が昨夜、友子が片手で差しあげときに、すっと棺桶の中に入りこんだままだとすると、今頃は形容しがたい液体が、外部に流れ出ているかも知れないと心配していた。だが、棺桶に接する畳にシミらしいものは出来ていない。友子はひとまず安心した。
「お茶、どうぞ」
若い女がすっと友子の前に現れて、湯気の立つ湯飲みを差し出してきた。
「源太郎さんを跳ねた美紀さん。今朝、早くから来てくれているのよ」
膝に両手をつき、うつむき加減にしている美紀と友子を見比べながら、お菊さんが言った。
友子は昨日の朝事故を起こした娘を、よく見てはいなかった。何となく、茶髪の印象だけが残っていた。言われてみれば、雨の中、赤いビニール傘をさして、少し震えていた娘に似ている。
昨日の事故の九十%以上は、義父の不注意による急な車道への飛びだしが原因であった。義父は軽自動車には直接接触してはいなかった。たまたまそばを通りかかった美紀が事故のあおりを受けたようなものだった。現場の交通事故処理をした警察官の心証もそうであった。
事故処理がすんだあと美紀は、両親とともに病院をおとずれて、心に違和感を抱きながらも、遺体と遺族に深々となんども頭をさげつづけた。
「この美紀さん昨夜、あのお染という子猫を、この近くまで連れてきたそうよ。友子さん、見かけなかった」
お菊さんの問いかけに、友子は曖昧に首をかしげた。
気持ちを静めるために、ゆっくりと茶をすすった。熱湯が頭の芯を目覚めさせてくれる。
友子は洗面と軽い化粧をすませて部屋に戻ると、祭壇へいって線香をあげた。
今となっては、目の前にある棺桶ののぞき窓を開ける勇気はない。全神経を棺桶の中に集中するが、物音らしいものは何も聞こえてこない。両手をあわせながら、
「お染、早く出ておいで」
と念じた。
昨夜は突然の義父の死と極限に近い疲労で、深夜お染が目の前にあらわれたときには、意識がもうろうとしているような状態だった。そんな状況の中で起きた出来事が、一夜明けた今になってみると、お染が棺桶の中に入り込んだのは幻覚だったような気もしてくる。本当にお染はこの中にいるのだろうかと、疑いを持ちながらも、心の中ではやはり、
「早く出ておいで」
と必死につぶやきつづけた。
出棺間際、親族一同がのぞき窓の蓋を開けて、義父に最後の別れの言葉を告げている。友子はその時に、お染が発見されることをひそかに願った。
僧侶の読経と鈴が打ちならされる。死者を収めた棺桶が一番ざわつくときだった。
夫の和幸がうなだれながら、父に最後の別れをしている。友子は固くなって横に座っていた。耳元で昨夜のことをうち明けようと何度もきっかけを待ったが、とうとう出棺の時までそのチャンスはなかった。
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