暴食令嬢は今日も腹ペコ

神無月もなか

第一話 暴食令嬢は飢餓を抱える

1-1 暴食令嬢は飢餓を抱える

 マスタードソースがかけられたビーフステーキに、黄金色に輝くコンソメスープ。パリッとしたレタスに赤く瑞々しいプチトマトなど色鮮やかな野菜たちが使われたサラダ。

 食欲を誘う香りに満ちた料理の数々は見ているだけで空腹を刺激し、口に一口含めばそれぞれの食材が持つ魅力を最大限に引き出した芳醇な味が舌の上いっぱいに広がって空腹を満たしてくれる。


 食事の時間は、毎日の楽しみにしているほど大切な時間だ。時間の流れとともに感じる空腹を満たし、満ち足りた気持ちになるために必要な時間。

 だが、一口、また一口と食べ進めても空腹感が満たされることはない。胃を締めつける空虚感は消えることなく、身体を苛み続ける。


 舌をぴりっと刺激するマスタード。本来ならば腹をくまなく満たす肉の旨味と脂の甘さ。コンソメと野菜の旨味が溶け出した優しいスープの味。それら一つ一つをゆっくりと感じたあと、ブランシェ・シュネーフルールはそっと静かにナイフとフォークをテーブルに置いた。


「……どうだい? ブランシェ。お腹は満たされたかな?」


 ブランシェが食べ終わったタイミングを見計らい、どこか緊張した面持ちで正面に座った父が尋ねてくる。

 彼の顔をじっと見つめたのち、ブランシェは少々申し訳ない気持ちを抱えながら首を左右に振った。

 テーブルにはビーフステーキやコンソメスープ、サラダのほかにも、一人分とは思えない量の料理が並んでいた。だが、その全てを平らげてもブランシェが感じる空腹感はそのままだった。

 音のない返事を目にした父が表情を曇らせ、深く溜息をつく。


「そうか……この量でも駄目か……」

「ごめんなさい、お父様。厨房のみんなも。……こんなにたくさんの料理を用意してくれたのに」

「いいや、気にしないでいいんだよ。またこちらでもお前の空腹を満たせないか、考えてみるからね」

「ええ、領主様の言うとおりです。お嬢様はお気になさらないでください」


 父が優しい笑顔を浮かべて言葉を紡ぎ、料理を運んできてくれた使用人も同様にブランシェへ笑顔を向ける。

 しかし、二人の笑顔を目にしても、ブランシェの心は晴れないままだった。


 ブランシェ・シュネーフルールは、今から十八年前、クォータリー国に存在するシュネーフルール領に生まれた。

 温暖な気候で、季節によってさまざまな表情を見せるクォータリー国。そこに存在する領土の中でも、シュネーフルール領は豊富な食物が育まれる美食の地として、多くの人々に認識されている。幼い頃から美味しい食材と料理に囲まれて育ったブランシェは、自然と食べることが好きな少女に育った。

 美味しいものを幸せそうに食べ、作られた料理の感想は感謝の言葉とともに忘れずに告げる。そんな彼女に異変が起きたのは、今から一年前の出来事だ。


「はあ……」


 深い溜息をこぼし、自室に繋がる扉を開ける。

 つい先ほどまで食事をとっていた食堂から戻ってきたブランシェは、憂鬱な感情を抱えたまま椅子に座った。小さめのテーブルの上に置かれたクッキーの缶に手を伸ばすも、指先が目的のものに触れることはなく、ただ空をつまむだけに終わった。


「なんで、食べても食べてもお腹がすいたままなのかしら……」


 憂鬱そうな声色で呟き、ブランシェはそっと自身の腹を撫でた。

 終わりのない空腹感を覚えるようになったのは、今からちょうど一年前のことだ。

 最初は、お腹がすきやすくなったと感じる程度の軽いものだった。しかし、時の流れとともに症状は少しずつ進行し、今ではいくら食べても空腹感が消えることがない状態にまで悪化した。


 さまざまな病気を疑い、医師に診てもらったが原因はわからないまま。おまけに、大量の料理を平らげてもまるで食べたことがなかったかのように体型が一切変化しないという症状まで出てきている。

 父も母も、そして屋敷にいる使用人たちも優しい。ある日突然、食べても食べても満たされない飢餓感に襲われるようになった娘を不気味がらず、なんとか空腹を満たそうと大量の料理を用意したり、さまざまな文献を調べてくれている。


 だが、みんなの優しさにいつまでも甘えていてはいけないともわかっている。今はまだなんとかなっているが、この状態がいつまでも続けば、家族全員に大きな負担を与えてしまう。場合によっては、慕ってくれている領民にも何らかの影響がおよぶかもしれない――そのような最悪の未来に繋がってしまう前に、手を打たないといけない。

 頭でははっきり理解しているのに、現状を打破するための手段は一向に見つからない。その現実が、ブランシェの心に強い焦りを与えた。


「今だって、領民の一部に不安を与えてしまっているのに」


 ブランシェの頭をよぎったのは、以前領地の様子を見に行った際、耳にしてしまった領民たちの声だ。

 ブランシェの現在の状態は、領民を不安がらせてしまわないように秘匿されている。そのはずだというのに、どうやら領民の一部はブランシェが空腹を満たせない病を抱えていることを知っているようだった。


『暴食令嬢』


 ブランシェが来たことに気付いた瞬間、彼女に関する噂話はやめていた。

 しかし、耳に届いてしまった会話の中で、彼らが使っていたブランシェの呼び名はしっかり記憶に残っている。

 食べても食べても満たされない。日々、食べる量は増えていく一方。暴食令嬢と呼ばれても仕方がないし、当然だ。


 このまま、ずっと満たされないままだったら。


 そんな不安が顔を出し、ぞっとする。

 今はまだなんとかなっているが、このまま乾かない飢えに突き動かされるまま食べ続ければ、日々の暮らしに大きな負担をかけてしまう。さらに負担が膨れ上がれば、今度は領民の暮らしも圧迫してしまう。

 もしそうなってしまえば、シュネーフルール領の未来は暗雲に閉ざされてしまう。


「……それだけは避けないといけないけれど」


 どうすればいいのか、そもそもどうしてある日突然こんなことになってしまったのか。

 途方に暮れた気持ちのまま、ブランシェは深く息を吐きだした。


 こんこん。


 ふいに、扉がノックされる音がブランシェの部屋に響く。

 即座に背筋を伸ばし、扉を見やる。クッキーの缶に伸びていた手を膝の上にのせ、入室の許可を出すために唇を動かした。


「どうぞ」

「失礼いたします、お嬢様」


 扉が開かれ、幼い頃から面倒を見てくれているメイドが姿を現す。

 柔らかな金糸の髪に青空を映した鮮やかな青い瞳をした彼女は、真っ直ぐにブランシェを見つめて口を開いた。


「ブランシェお嬢様。旦那様がお呼びです」

「お父様が? ……エリサ、お父様はお客様とお話しているんじゃなかったの?」


 きょとんとして、ブランシェは部屋に入ってきたメイドのエリサへ問いかける。

 食堂から自室に移動してくる前、父は確かそのような話をしていたはずだ。食事の後、来客の予定があるから用がある場合は少し待ってくれ――と。

 部屋に設置されている時計へ視線を向ける。時計の針が示す時間は、食事から少し経過したくらいの時間だ。来客にどれくらい時間がかかるかわからないが、もう少し応対していてもおかしくはない。

 ブランシェに問いかけられたエリサも、表情にわずかな困惑の色をのせて答える。


「そのはずです。旦那様とお客様にお茶をお出ししたときは、お二人とも会話の途中でした。途中で呼びつけられた際も、旦那様の向かい側にはお客様が座ってらしたので……」

「……もちろん、エリサはお父様とお客様が何をしていたのかはわからない……のよね?」

「申し訳ありませんが……」

「やっぱりそうよね。変なことを聞いてごめんなさい、エリサ」


 そういって、ブランシェは苦笑を浮かべる。

 屋敷で働いている使用人の中でも、エリサは子供の頃からシュネーフルール家に仕えている――いわば古株の一人だ。ブランシェの両親も彼女には大きな信頼を寄せているが、さすがに客人との会話の場にはエリサを置かなかったらしい。

 駄目元の問いかけに表情を曇らせてしまったエリサへ謝罪の言葉を口にしてから、ブランシェはゆっくりと立ち上がった。


「わかったわ。応接室でいいのよね?」

「はい。旦那様もお客様も、まだそちらにいらっしゃるはずです」

「ありがとう、エリサ。行ってみるわ」


 理由は気になるが、父がブランシェを呼んでいるなら、ブランシェが選ぶ選択肢は一つだ。

 深々と頭を下げ、エリサが部屋の出入り口の傍を離れる。

 すれ違う際、彼女にもう一度感謝の言葉を告げてから、ブランシェは少々急ぎ足で応接室へと向かった。

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