メアリー・スーと非常勤講師の熱い物語 全焼編
只野夢窮
全焼
燃え盛る東京をバックに、少女が嗤う。
「ねえ、とてもきれいでしょう?」
およそ150㎝、栄養が足りてなさそうな貧相な体をボロボロの学生服に押し込めて、クルリと一回転して見せる。腰まで伸ばしたストレートの黒髪が炎を反射して、なるほどこれ以上ないほどに美しかった。
なんでこんなことになったかトンとわからぬ。東京が燃え盛っているというのは比喩ではなく、文字通り東京全体が焼けている。全く凡庸なはずの平日の真昼間に、新宿も六本木も原宿も何もかもきれいに焼けている。だから一千万の人々の苦しみ叫ぶ声は、とても筆舌に尽くしがたいとしか書きようがない。なぜ一介の非常勤教師にすぎない僕が五体満足で見物を決め込めるかというと、たまたまことが起きた時にスカイツリーの展望台にいたからに他ならない。ということはつまり、僕もあと数分から十数分で、熱に耐えられなくなったスカイツリーが倒壊するか、炎が上がってきて焼け死ぬか、酸素がなくなって窒息死するかで死ぬということである。ただ運よく死ぬのにほんの少しの猶予があるだけである。
ではなぜそんなことになったかというと、テロが起きたとか、戦争が始まったとかの理由があるわけではない。
目の前のこの女の子が全てを焼き尽くしたのだ。
「つまり、君は世界で唯一の魔法使いで、これは君の魔法によって引き起こされた事態ってことか」
「だからそうだって何度も言ってるじゃないの」
あっさりと一千万人近く殺した少女は、年齢相応に頬を膨らませた。長く立派ではあるが手入れをされていない髪とやたら低い身長からして、小学校高学年ぐらいだろうか。
「中学校に通ってる時に、ああ、こんな世の中、パパは私を殴るし、ママはどっか行くし、もうなんだか全部焼けたらいいのに、って思ったらね、火が出たの」
だから学校から燃やしたわ、と何事でもないかのように言ってのける。
「私は学校なんて嫌いじゃなかったのよ? だって学校にいる間はパパに殴られなくてもいいし、いじめっ子に殴られるのはパパが殴るよりも痛くないし、少なくともあいつらは先生が見てる間は殴らないわ。授業中にノートに落書きしてたって誰も叱らないし。みんな、私のことをよーくわかってて、まあ、問題が起きなければそれでいいだろう、ってわかってたのよ」
でもまあ、焼けるなら焼くわよね、とカラカラ笑う。
「次にパパを焼いてやったわ。あいつ、火で脅してやったら随分と命乞いしてさあ! 家族じゃないかなんて笑っちゃうわよね。あんたはサンドバックから生まれたのかしら? って言って嬲ってやったわ」
でもまだ加減が効かなくて、一瞬でおこげにしちゃったのよね。苦しめるつもりだったのに、そこだけは残念だったわ。そう思ってたらね、なんとパパが生き返ったのよ。向こうも混乱してたけど、私、死んだ人を生き返らせることだってできるみたいなの。もうほんとに、なんだってできちゃうのよ。
「だから不老不死にしてやった。今でも炭みたいな体で、どっかそこらへんで焼かれてるはずよ」
あまりにも現実離れした話に、僕は恐怖を覚えることすらできなかった。それはあまりにも突飛で、中二病患者の妄想と笑い飛ばすべき話なのだろう。僕の持っていた生徒にもそういうのが一人か二人はいた。しかし、眼前で東京が丸焼きになっているのは、事実なのだ。それだって同じぐらいにはあり得そうにないことだ。
「あとはねー、久しぶりにママにも会って焼き殺した。知らない男とセックスしてたから笑っちゃうなあ。愛してるだってね。その半分でいいから私も愛してほしかった」
「じゃあ、パパとママを殺して、君はどこに行くつもりだったんだい」
「結局のところ、問題はそれなのよ。行く当てがないし、区役所に行っても門前払いだし、道端のホームレスには追い回されるし、もう嫌んなって、じゃあ行くところなんていらないや、『ところ』なんて全部なくなっちゃえってんで。それでこんなふうに全部焼き尽くすことにしたの」
それは、と言いかけて口をつぐむ。随分身勝手だね、と言おうとした。けれども彼女の語るところが本当なら、そしてこんな状況で嘘をついて僕の同情を買う必要なんてないのだし、まあ少なくとも目の前の東京全焼よりは現実的な内容なのだから信じるとして、彼女に身勝手だと言える大人は存在しない気がした。
「あ、ごめん、ちょっと対応するね」
何に、という声はおそらく、猛スピードで眼前の空に飛びだした彼女には届いていない。彼女が何かを呟いて手を振ると、とたんに少し遠くの空中で爆発が起きた。少なくとも僕にはそうとしか見えなかった。
「今のは?」
「自衛隊機。もうスクランブルしてくるなんてなかなか優秀じゃない。けれども私の敵じゃないわね」
一瞬遅れて、パラパラになった機体が落ちていく。パン、とパラシュートが開いて無事にパイロットが脱出できたことに僕は一瞬安堵する。けれども、その下はどこに降りたって、燃え盛る東京だ。その上、火災による上昇気流のせいでなかなかパラシュートは落ちない。上がる…………落ちる…………上がる…………落ちる…………灼熱の熱気にじっくり炙られながら、手足をばたつかせるパイロットは、しばらくしたら動かなくなった。絶望したのか、それとも火事による酸欠なのか。動かなくなったパイロットが、じわじわと落ちていき、そしてパラシュートに火がついて炭になった。
あのパイロットは、この異常事態で真っ先に駆り出されるほど優秀な人間だったに違いない。人格や家族構成は知る由もないが、その技量は立派なものであっただろう。けれども魔法使いの少女に、まるで紙でも破るかのように気楽に殺されて拷問じみた惨めな最期を迎えた。彼はそんなことのために生まれてきたのだろうか。全く気楽に他人事にそう考えているうちに、彼女は追加でやってきた戦闘機2機とミサイル数十発を片手で処理した。
腕時計が律儀にも正午を知らせた、すでに時間の意味なんてないのに。いよいよ炎は燃え盛り、火と陽を受けて彼女は神のごとく後光をまとう。その表情は影となり、まさに神々しい殺戮者だ。でも、僕ぐらいは彼女の表情を読み取ろうとしても罰は当たらないだろう。口元が少しだけ、にやりと笑った気がした。
「ねえ、先生は因果応報って信じる?」
「それはどういう意味だい?」
「私がこんなに殺したら、誰か、他の魔法少女とかがやってきて、私を怒って、止めて、くれるのかな。誰かが私の悪いことに、向き合ってくれるのかな? そういう人がいない限り、私は……」
なぜ私のことを先生と呼ぶのだろう、とか。ここで媚びなければ命が危ないとか、そういう考えが浮かんでは沈んだ。否押さえつけた。そんなことは今、ここではどうでもいい。一人の教師として回答しなければという心づもりにさせられた。
「なければどうなるんだい」
「実際のところ、因果応報なんてないと思ってるわ。だって、こんなふうに焼き殺された人たちの大半は私のことなんて知らないのだし、子供がいじめられていようが少々冷淡なだけで、普通の生活を送っていただけなんだし」
だけで、に彼女が力を込めたから、嘘だと分かった。彼女は因果応報が存在してほしいのだ。自分を虐めた人間や、それを視て見ぬふりをした教師、虐待した父親、捨ててどこかへ行った母親、行くところがない少女を門前払いした職員や追いかけまわしたホームレス、それら全てを是とするこの社会、自分が惨めになった原因全てに、報いがあってほしい。酷い目にあってほしい。けれどもそうはならないから、彼女自身が因果応報の化身と化して、全てを焼き殺したのだ。だからもし因果応報が存在して彼女自身に降りかかれば、それは彼女が正しかった証左となる。けれども因果応報が存在せず、誰も彼女を止められないのなら、それは逆説的に彼女がただ自分勝手に人を殺しただけになる。だから彼女は自分を罰してほしいのだ。強大な力を持った誰かに。それはまだ中学生の子供が持つにはあまりにも虚しく、悲しい願望のように思われた。
ある、というのは嘘だ。彼女を止められる存在を、私は知らない。ない、というのは悲劇だ。彼女の精神にとどめの一撃をさしかねない。
だから。
「なればいいじゃん。因果応報に」
初めて彼女が驚いた顔を見た。
「仮にないとしてもさ、君は何でもできるんだろ。この世の誰かがいいことをすればいい報いを、悪いことをすれば悪い報いを、100円のノートを盗めば100円分の不幸を与え、1000円入った財布を届ければ1000円分の幸運を与える、そんなことだって、望めばできるんだろう。君自信が因果応報を与える神になればいい。そうすれば」
君みたいな人はもう生まれない。その一言はギリギリ飲み込んだ。
「やっぱり先生は面白いね。そっか、そうだね。その通りだあ。きっとこの力は、そのためにあるんだ」
世界のことを考えれば、彼女の精神に止めを刺したほうがなるほど良いに決まっている。しかし僕は教師だ。子供を導き守り教える。それだけは曲げられない。
「じゃあ先生も一緒に来てよ」
「えっ?」
「えっ、じゃないよ。いい考えだけど、それだと私はずっと独りぼっちじゃん。だから先生を連れていくね」
あまりに急すぎる。足元がガラガラと崩れていく。いよいよスカイツリーも限界だ。考える時間が欲しかった。そんなものはなかった。だから、都合よく彼女が差し出した手を反射的に取った。取ってしまった。ガサガサの硬い手だ。毎日家事ばかりをしていて、勉強ができない子供の手。
彼女に引っ張られるようにして、空を飛ぶ。高所を支えなしで飛んでいるのに、恐怖はとんと感じない。あるいは恐怖心も彼女が薄めてくれているのだろうか。内心への干渉だが、不思議と恐ろしいとは思わなかった。手を取ってしまった以上、僕はもう彼女にネガティブな感情を抱くことはできないのだろう。背後で僕の常識とスカイツリーが同時に崩壊した。
火の手は収まらない。東京中を熱にして、僕らは上昇気流を存分にその身に受ける。まるで広々とした草原で一陣の風が吹き抜けた時の気持ちよさを、毎秒受けているかのような爽快さ。
「気持ちいいね」
「ええ、先生。これが私の自由。これが私の因果応報」
二人はずっと空を飛び続けていた。ずっと、ずっと。
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