第24話 キーワード:役割葛藤、役割群

「――ロバート・キング・マートン」


 カンナギは頭の中に浮かぶその人物の名を口に出した。もっとも、厳密に言えばこれは彼の本名ではない。しかし、その点にふれてしまうと、高確率で役割葛藤の話から遠のいてしまう自信があったので、泣く泣く呑み込んだ。


「マートン……見たことがあるような……」

 蓮はそうつぶやくや否や、持参のテキストをパラパラとめくり確認し始めた。


「え、なに? 誰? ロバート? あの三人組の面白い人たちのこと?」

 顔いっぱいに疑問符を浮かべた愛が口早に訊ねた。


「はは、たしかに『ロバート』と聞けば僕もお笑いトリオが思い浮かぶけど、今言ったのは、二十世紀のアメリカ社会学を牽引した社会学者、ロバート・キング・マートンのことだよ」 

「ええ? どうしてまた新しい人が登場するわけ? ゴフマンはどこいったのよ」 

「まあまあ。ここでマートンの名前を出したのはちゃんと理由があるんだ。実は、役割葛藤について分析・考察を進めたのは、このマートンなんだよ」


 マートンは、師パーソンズの構想する体系的な一般理論を、経験によらず思考や論理にのみ基づいたものになりがちであると批判した。

 では、他方の経験的な側面――実証的な調査研究が満足のいく状態にあったかというと、残念ながら答えはNOであった。さまざまな事実が豊富に調べられてはいるものの、そうした事実がどのような理論的意義をもっているのかに関する議論には乏しい状況にあったのである。

 このように理論と実証が乖離している限り、社会学研究の発展は見込めそうもない――


 こうした状況を打開すべく、理論と実証との相互作用を通じて科学的な理論を作る必要があるとマートンが提唱したのが「中範囲の理論」であった。


「中範囲の理論」とは、日々の調査で展開されている「小さな作業仮説」と、包括的で体系的な概念図式を含む「一般理論」を媒介する理論をさしているのだが、簡単にいってしまえば、実証が可能な範囲で説明できる理論を発展させましょう、という話である。この中範囲の理論の実践として、マートンは準拠集団論や逸脱行動論、役割群や役割葛藤などのテーマに取り組み、多くの重要な業績および社会学的語彙を残した。


 また、マートンの功績として見逃せないのは、なんといってもパーソンズの機能主義を批判的に継承しながら、機能概念を再検討し、機能分析を洗練化したことだ。

 というのも、パーソンズの機能主義(構造=機能主義)については、社会システムの均衡や存続を所与の条件とする分析に見られるイデオロギー的な偏向であったり、社会変動が考慮されていない保守性などに対する批判が寄せられていた。

 それらの批判に応えるべく、マートンは機能主義が抱える難点――「機能」という言葉が曖昧につかわれてきた点などを洗い出し、検討を重ねていった結果、「順機能/逆機能」「顕在的機能/潜在的機能」などの新たな視点を打ち出していったのである。


 マートン社会学――機能分析の魅力、面白さを知ってほしい。もっと言うなら、彼の卓越した社会学的センスや着想に影響を与えたであろう個人史の部分まで知って欲しいところではあるけれど、そこまで手を広げてしまえば今日はもうゴフマン社会学に戻ることは不可能だろう。

 どちらの手を取るべきか。聞き手の立場を考えるなら間違いなくゴフマンだ。中途半端に切り上げて突然マートン社会学が繰り広げられようものなら混乱は免れない。やはり取るべきはゴフマンの手である。


 ――よし。


 ゴフマンの手を取る寸前に、マートンの指先を少し握るくらいなら……。

 おおよその方針は決まった。ゴフマンルートに戻ることを念頭に置きつつ、必要最低限の範囲でマートンの議論もねじ込む。完璧だ。


「ごめん、カンナギ、ちょっといいかな」

 声の方に目をやると、右手にテキスト、左手に小辞典を持った蓮がそれぞれを見比べながら困惑した表情を浮かべている。

「どうした?」

「僕の持ってるテキストに『ロバート・マートンは芸名』って書いてあるんだ。でも、マートンを紹介する辞典にそういう記載はないし……」

「えっ? 芸名って……マートンってばお笑い芸人だったってこと? ロバートのことを尊敬して名前を拝借したのかしら?」


 本気なのかボケているのかよくわからない愛がやや興奮気味にまくし立てた。

 その言葉を受けた蓮は蓮で「ええ?! 有名な社会学者に影響を与えるなんてすごいな、ロバート……」とつぶやいたかと思うと、今度はスマホを操作しながら「あれ? でもマートンは1910年生まれ、ロバートの結成は1998年。名前を拝借しようにも重なり合うことはなさそうだし……」と真剣に双方の関係を探り出すものだから、カンナギはすっかりツッコむタイミングを逃してしまった。ゴフマンの前頭葉に注目するところといい、今の反応といい、もしかすると蓮は少し天然なのかもしれない。しかし、蓮の方からマートンの名前について切り出してくれたのは嬉しい誤算である。


「盛り上がっているところに水を差すようで気がひけるんだが、マートンは元・お笑い芸人じゃないし、お笑いトリオのロバートとも関係がない」

「なーんだ。ちょっと面白そうって思ったのに」

 言いながら、愛はふうとため息をついてティーカップに手を伸ばした。


「マートンはセミプロのマジシャンだったんだよ。スラム街で生まれ育った彼は、12歳で近所のマジシャンに弟子入りしたんだけど、結果、手品で日銭を稼ぐレベルにまで到達してるんだよ」 

「はあ?! それはそれですごいじゃない!」

 眉をぐいっと引きあげた愛が、口に運びかけたティーカップを素早く、しかし丁寧にソーサラーの上に戻して食いついてきた。本当に感情表情が豊かで見ていて飽きないと思う。が、口に出しはしなかった。馬鹿にしていると誤解されても困る。

「ということは、ロバート・マートンっていうのは、元々マジシャンとしての名前だったってことかな?」 

「そういうこと。彼の本名はメイヤー・R・シュコルニック、ユダヤ系アメリカ人だ」

「やだ、その名前もすごくかっこいいじゃない。どうして変えちゃったのかしら」

「おそらくは――ユダヤ系であることを想起させる姓名を避けたかったんだろう。昔、迫害や貧困などの理由から、多くのユダヤ系の人たちがアメリカ合衆国へ移住している。当時のアメリカの俳優やアーティストにはユダヤ系の人が多かったんだけど、ほとんどの人が英語風の名前を名乗っていたというからね」


 心なしか蓮と愛の顔が曇る。カンナギはあえて気がつかないふりをして、説明を続けた。


「それで、マートンが最初につけた芸名が『ロバート・マーリン』。ロバートは、フランスの有名なマジシャンだったロベール=ウーダンから。マーリンは……」

「もしかして、アーサー王伝説に出てくる魔術師マーリンのこと?」

「お、久野さんよく知っているな」 

「ふふん、アーサー王伝説をモチーフにした漫画を愛読しているんだからこれくらい当然よ! そっかー、マーリンかぁ、美人なお姉様よねぇ。私、好きなんだぁ」


 愛が何の漫画について話しているのかカンナギはすぐにあたりがついたが、おそらく蓮はピンときていないはずだ。スマホの検索アプリに「マーリン 美人 漫画」と入力。検索結果画面を確認してから蓮に見せ、全員のマーリン像――ただし、その「マーリン」はアーサー王伝説のそれとは異なるけれど――を一致させておく。


「で、『マーリン』を『マートン』に変形させて、最終的に『ロバート・キング・マートン』の芸名で活動していたんだ。つまり、芸名をそのまま本名にしたんだな」

「そうだったんだ……ありがとう、経緯がわかってスッキリしたよ! でも、話の腰を折ってごめんね」

「いいや、気にしないでくれ。こういう個人史があった方が楽しい」

「レンレンが質問してくれたおかげで、私、マーリン……じゃなかった、マートンの名前はもうばっちり覚えることができたわ!」


 愛のいう「マートン」は、美女として記憶されている気がしてならない。もし今後連絡先を聞くことがあれば、いの一番にマートンの顔写真を送ることを密かに決意して、軌道修正に入る。


「時間が許すなら僕としてはこのままマートンの人物像や個人史について話し続けたいところだが、今日のところはこのくらいにして役割葛藤の話に戻ろうと思うんだけど、いいかな?」


 蓮がにっこりと笑顔で頷き、愛はこくこくと首を振った。


「ありがとう。じゃあ、先におさらいから。

 久野さんが挙げてくれたお医者さんの例からは、医者という職業に矛盾する期待が寄せられやすいってことがわかる。それはつまり、お医者さんが役割内葛藤を起こしやすい職業であるってことなんだ」


 言葉を切り、二人の顔を交互に見遣る。


「ではここで問題です。役割内葛藤に陥りやすい職業って他に何があると思う?」


 しばしの沈黙が流れる。先に切り出したのは蓮だった。


「――パッと思いつくのは……先生、『教師』かな? 僕らの周りを見ても、フレンドリーに接して欲しいって子も入れば、ある程度の距離感を保った指導を望む子もいる。高度な授業を望む人、わかりやすい授業を望む人。改めて考えて見ると、色んな要求がありそうだなって」


「言われてみれば……そうかも」 

 愛が尊敬のまなざしを蓮に向けながら言い、「ねえ、これって正解なんじゃない?」とカンナギに答えを求める。カンナギはゆっくり大きく頷いた。


「ああ、正解だ。蓮の言う通り、教師に寄せられる役割期待も人によって大きく異なる。生徒だけでなく、生徒の親や学校内の上司、果ては教育委員会からの期待や要求もあるだろう。そんななかで、自分なりに貫きたいやり方だったり理想もあるかもしれない。想像するだけでも、大変だよな」


「うわ、私ならそんないくつものややこしい期待を向けられるとか絶対無理。先生にはなりたくないわー」

 眉間に深い皺を作った愛が言う。

 その宣言を聞いたカンナギの脳裏になぜか教壇に立つ愛の姿が鮮明に浮かんだ。意外と、適職なんじゃないかと思う。子どもとの相性も悪くなさそうだ。


「あ、レンレンは向いていると思う! 優秀だし、何でもスマートに応えられそう! っていうか、レンレンが先生なら、私俄然勉強頑張れるんだけど」

「うーん、僕は向いていないと思うな……そんなに器用じゃないし」

 困り顔の蓮が言った。

 能力的なことだけで言えば問題なくこなせるだろうが、おそらく本人が言う通り、あまり向いていないのではないかとカンナギは思った。もっと自由のきく職業の方が――

(――っと、いかんいかん)

 無意識に人を分析する悪癖に気づいてカンナギは額をぴしゃりと叩いた。


「ま、将来はどうなるかわからないからな。 

 とにかく、この話――お医者さんと教師の例から言えることっていうのは、ひとつの役割といっても、それは実はひとつではないっていうことなんだ」


「どういうこと?」

 愛が首を傾げる。声には出さないものの、蓮も詳細を促すような瞳をカンナギに向けている。


「つまり、役割っていうのは、あるひとつの社会的地位に対してひとつの役割が結びついているわけではなくて、一連の役割を含んでいるんだよ」


 カンナギは新しいルーズリーフの中心部分に「教師」と書き、その周囲に「生徒」「親」「同僚」………と書いてそれぞれを丸で囲んだ。


「たとえば、教師という地位には、生徒たちとの関係における『教師』という役割がある。でも、それだけじゃなく、他との関係――『親』『同僚』『上司』『教育委員会』といった、それぞれの関係に応じた役割もある」


「ああ、さっきあんたが言ってた話よね。

 ――そっか、いろんな人たちとの関係に応じて違う役割があるって考えたら、先生っていうひとつの役割にも、実際は色んな役割が存在してるってことか」

 ルーズリーフに書かれた丸同士を指で繋いでいく動作をしながら、愛が言った。自分の説明がうまく届いているらしいことがわかり、カンナギの口角が自然と引き上がる。


「その通りだ。ひとつの役割と言いながらも、その役割はそれぞれの社会関係に応じた一群の役割から成っているんだよ。これをマートンは『役割群』と呼んだんだ」


 キーワードを口に出せば自ずとそれに関連するいくつかの記述がカンナギの脳内に浮かび上がる。カンナギはそれらの記述のうち、『現代社会学体系 第13巻 社会理論と機能分析』(マートン著、森東吾・森好夫・金沢実:訳)六、七ページに記された箇所を選び取った。

  

 ――役割群〔role set〕の理論は、社会的地位が社会構造の中でどう組合されているかについてのイメージから出発する。(中略)役割群の理論は、どの社会的地位も、それと結びついた単一の役割を含んでいるのではなくて、一連の役割を含んでいるのだという考えから出発する。社会構造にみられるこの特徴が役割群の概念を生み出すのである。すなわち、特定の社会的地位を占めているという、ただそれだけの理由で、人びとは補足しあう社会的諸関係にまき込まれる。


 ――社会的地位が社会構造の中でどう組合されているか……

 ――特定の社会的地位を占めているという、ただそれだけの理由で、人びとは補足しあう社会的諸関係にまき込まれる……

 

 一部を頭の中だけで復唱する。いかにも社会学らしい発想と指摘に心が疼く。



――――――――――――――――


主要参考文献

 R.K.マートン(著),森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎(訳)『社会理論と社会構造』1961,みすず書房.

 R.K.マートン(著),森東吾・森好夫・金沢実(訳)『現代社会学体系 第13巻 社会理論と機能分析』1969,青木書店.

 高城和義「マートン文書の『知の社会史』上の意義 ――マートン研究の今日的課題――」『帝京社会学』第24号,2011,p.61-78,帝京大学文学部社会学科.

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