特別編 豊島麻由香はお酒が飲めない

 ご覧くださりありがとうございます。

 本小説は限定公開記事として2月から掲載していた小説なのですが、もともと『今日は何を注文しよう?〜』に連なるお話ということでこのたびこちらに移動してまいりました(詳細につきましては、2022年6月1日付の近況ノートに記載しております)。


 次話更新までのお暇潰しとしてお楽しみいただけましたら嬉しく思います。

 それではどうぞ、ご覧ください!



――――――――――


「俺、博士課程には進学せず神主になるから」


 黒木研究室のエース、かんなぎ秀一から突如告げられた麻由香はたいそう面食らい、右手で順調に式を展開していたシャープペンシルの芯は圧力によって折れ、左手でページを固定していた『計算する多様体入門』は圧力を失いぱたんと閉じてしまった。


 え? 進学しない? かんぬしって言った? それってつまり出家宣言? いやいや、それは仏教でしょ。


 混乱を振り払うように麻由香は立ち上がり、背中合わせ、真後ろに位置する秀一のデスクへ移動し、「すいません、もう一度いいですか?」と尋ねたが、先程耳にした内容と一言一句違わぬ返答が返ってきて、再度面食らった。麻由香の聞き間違いではなかったようだ。


 ――うーん、何から訊けばいいの?

 頭の中を駆け巡る疑問符を整理しながら、麻由香は秀一の隣に腰掛け、様子を伺った。

 秀一の手が止まる気配はまったくない。

 頭に浮かんだ計算式をひたすらアウトプットしているようだった。


 ――キリのいいところまで計算し終えるまで、まともに話をするのは無理そうだな。


 麻由香は早々に悟った。仕方なくこのまま隣で秀一の作業が一区切りするのを待つことにした。

 慣れた手つきでパソコンの画面上に次々と数式が入力されていく様を見るのはなかなか気持ちがいいものだ。


 夏期休暇中の研究室は麻由香と秀一以外、誰もいない。

 デスクトップパソコンのファン音と、秀一がキーボードを叩く音が妙にはっきり聴こえて、麻由香は落ち着かず、なんとなくそわそわしてしまう。


 199X年の秋。

 豊島麻由香、K大学理工学部数理科学科に通う大学4年生。22歳。

 巫秀一、K大学理工学研究科数理科学専攻の修士課程2年目。26歳。


 麻由香にとって秀一は尊敬する先輩であり、そして、恋人でもある。

 修士論文の執筆を進めておきたいという秀一に、それでは自分も秋学期に向けて予習を、という名目でついて行った。

 もちろん予習に励む気持ちは本当だが、内心ではデート気分だ。たとえその「デート」が世間一般のそれとはかなりかけ離れていたとしても、麻由香にとっては秀一と一緒にいられる貴重な時間であることに変わりはない。


 二人が付き合い始めてそろそろ一年経つ。

 思い返せば、恋人らしいことはほとんどしていないような気がする。

 平日休日ともに秀一は研究活動で忙しく、二人で出かけるといえば研究室か、図書館か、ファストフード店である。

 唯一、恋人らしい会話ができそうなファストフード店では、雑談もそこそこに気がつけば互いの課題に取り組んでいるものだから結局研究室や図書館でいるのと大して変わりない。


 しかし、麻由香はそれが嫌ではなかったし、むしろ楽しくさえあった。

 秀一はたしかにマイペースだし、ちょっと神経質なところもあるし、よくわからないタイミングで急に会話が始まることもしょっちゅうだし、一見すると冷たい感じもして誤解されやすいかもしれないけど、そういうところもひっくるめて全部、麻由香にとっては唯一無二の魅力的な人物なのだ。


 こんな人、なかなか居ないと思うんだよね。


 話は麻由香が大学3年生の時期に遡る――



***


(黒木研究室は……やった! 名前あった!)


 数理科学科資料室前の掲示板に張り出された研究室配属表を前に、麻由香は目を輝かせた。

 一限目の授業中ということもあり、掲示板前には麻由香しかいない。

 授業は午後からだったが、配属の結果が気になって居てもたってもいられなかったのだ。



 麻由香の通う大学では、3年生の秋学期から研究室(ゼミ)に配属される。

 研究室配属の決定にあたっては、学生への配属希望調査が実施されるのだが、各研究室には定員が設けられているため、全員が希望通りというわけにはいかない。人気の研究室であれば定員超えも珍しくなく、その場合は希望者の成績順で配属が決まる。


 なかには、友だちと一緒に所属したいという理由で、不人気そうな研究室をいくつか狙って同じ希望順位を記した調査票を提出するケースも散見された。


 しかし麻由香は誰の誘いにも乗らず、自分の研究したい内容と指導教員で配属先を選んだ結果、見事第一希望を勝ち取った。それもそのはず。麻由香の成績は学年で上位5名の内に入っている。学費の元を取ってやるんだと入学当初から必死で単位取得に励んでいたのは伊達ではない。


 配属表にある黒木研究室の欄には知らない名前が並んでいたが、もとより知り合いがいることを期待していないし、友だちづくりが目的ではない。大学内の友だちならすでにちゃんとできている。

 そう。「つくる」のではなく、自然と「できている」「なっている」というのが麻由香にとっての「友だち」だ。


 麻由香は基本的に気遣いの人である。しかし、最後は自分の直感や意見を大切にしている。

 あれこれ悩むより、すっぱり割り切った方が何事も大抵上手くいく。

 我が道を行きつつ人間関係を築いていくことは、やり方次第でいくらでも両立できる。

 今までそうだったし、きっとこれからもそうだろう。


 研究室には「研究をしに行く」。実にわかりやすくて、良い。

 好きな指導教員、興味のあるテーマ。一人ひとりに割り当てられる自分専用のデスク。

 麻由香の研究室ライフは薔薇色だ。


 ――ただし、研究室が始動して最初に開かれる「飲み会」を乗り切れば、の話だが。


 飲み会の頻度などは研究室によって異なるが、麻由香の所属する研究室では、上級生を含めた顔合わせと3年生の歓迎会として最初だけ飲み会が開催される。


 参加は強制ではないが、それは建前である。余程の理由がない限りは出席すべき飲み会だ。とくに、新入生の3年にとっては研究室の人間関係を把握し、ヨコだけではなくタテのつながりを構築するにも重要なイベントである。


 麻由香は酒に弱い。

 コップ一杯くらいのビールであればなんとか飲めるが、顔はすぐに真っ赤になるし、頭痛はするわで、麻由香にとって良いことがひとつもない。


 もちろん、お酒を「楽しみ」たいという願望はある。多くの人に愛されている嗜好品を自分だって味わいたい。


 実際、日本酒、チューハイ、ワイン、焼酎など色々チャレンジしてみたが、美味しいかどうかを判断する以前に舌が受け付けなかった。そんな麻由香を友人らは「かわいいねぇ〜」とからかいはすれど、誰も無理に飲むことをすすめてはこなかった。

 友人に恵まれて、麻由香はこれまでなんとか飲酒が絡む席を回避できていた。


 しかし、「飲みニケーション」という言葉に象徴されるように、「お酒」には「人と人とを繋ぐ」という社会的機能が認められ、「下戸」という言葉が暗喩するように「酒が飲めない」、ということは社会において少なからずネガティブな評価がつきまとう。

 麻由香だってそんなことはわかっている。――が、飲めないものは飲めないのだ。


(まぁ、多分大丈夫でしょ……)


 飲み会はまだ1ヶ月以上も先の話である。ぐだぐだ悩むのは麻由香の性質とは相容れない。




「あれれ〜、豊島ちゃん! 全然飲んでないじゃん? 自分だけシラフですか〜?」


 ほぼカラになったビールグラスを片手に、麻由香の席から最も遠くに座っていたはずの同級生――岩見俊平がわざわざやってきて麻由香のすぐ斜め後ろにどっかり腰掛け、肩越しに覗き込んできた。


(いや近いって! っていうかこの人酔うとこんな感じなの?!)


 瞬間的に不愉快な気持ちがこみ上げ、麻由香の顔はひきつりかけたが、周りの目もある。飲み会の雰囲気を壊さないためにも、そして、この先の付き合いも考慮するならば、やはりここは穏便に済ませたい。


 麻由香の楽観もむなしく、飲み会は思った以上に早くやってきた。

 体調もすこぶる良いし、断るような重大な事由も発生していない以上、参加するしかなかった。

「最初の乾杯はビールでいいですよね?」という幹事の呼びかけに、みな意気揚々と頷き、声を上げている。酒が苦手なのは麻由香ひとりであることはよくわかった。

「飲み放題」のプランが憎らしい。


 岩見はすでに相当飲んでいるのか、酒臭く、普段の口調はすっかり消え去り、目つきも少々危なっかしい。まだロクに話したこともない同級生の、できれば知りたくなかった酒癖の悪さにげんなりしながらも、持ち前の社交性を発揮し麻由香は笑顔で返す。


「実は私、アルコール飲むと頭痛くなっちゃうし、苦手なんですよね。そろそろウーロン茶でも頼もっかなと……」

「えええー! 今日の飲み会の主役は俺らでもあるんだよ? 空気読もうよ〜!!」


 いつから主役になったんだ。麻由香の苛立ちはますます募る。しかし自分たちの歓迎会も兼ねた飲み会でまったく飲まないというのも失礼かもしれない。体質的に全然飲めない、というわけでもないのだから、もう少し飲むべきだろうか…などと逡巡している内に、岩見が突然立ち上がり、声を張り上げた。


「麻由香のイッキ飲みはじまるよ! そーれ! イッキイッキイッキ!!!」


 不意に始まった一気飲みのコールに、それまで3〜4名ずつのグループで会話に興じていた学生ら、総勢約20名の視線が一斉に麻由香に注がれ、麻由香はたじろいだ。

 さらに追い討ちをかけるように、「おっ! 豊島さんいい感じ〜!」と先輩グループから呑気な声が上がり、拍手が起こる。そこに悪気はない。側から見れば、新入生が健気に場を盛り上げようと張り切っているように見えるのだろう。


(どうしよう…)


 麻由香の不安や動揺を他所に、コールは止まらない。岩見は周囲のテンションを煽るように手を叩き、自らの味方に引き入れ、麻由香を精神的に孤立させていく。場が盛り上がれば盛り上がるほど、麻由香の逃げ道はなくなる。もはや飲酒を断るべき相手は岩見だけではなくなってしまった。


 麻由香は芯が強い。普段なら周りに流されて何かをするということはまず、ない。しかし、この「場」の状況は、「個」としての選択ではなく「集団」にとって望ましい選択を迫る。


 集団の熱気は、麻由香を外側から拘束し、 麻由香が本来取るであろう選択肢を奪い去る。

いよいよ追い詰められて、麻由香がグラスに手をかけたそのとき――


「無理して飲まなくてもいい」


 わずかに怒気を含んだ声が麻由香を制し、座敷の賑わいを遮った。

 声の主は秀一だった。

 麻由香は自分がいつまでたってもグズグズしているのを責められているのかと焦り、おそるおそる右隣に座る秀一の方に顔を向けた。だが、秀一は麻由香ではなく、岩見を見ていた。

 秀一は岩見を下から見上げる格好で、ゆっくりと尋ねた。


「岩見…君、だったか?」

 秀一の声は抑揚がなく、感情を推し量ることが難しい。

「…は、はい」

 蛇に睨まれたカエル。そんな表現がぴったりの光景を皆が静かに見守る。

 襖越しに、他の団体客の騒ぎ声が飛び込んでくる。


「アルコールが苦手だと言っている相手に飲酒を強要するのはやめておこうか。もし、無理に飲ませて豊島さんが急性アルコール中毒にでもなったら、君はどう責任をとるつもりだ?」


「いや、そんな! 大げさですよ巫さん。それに、僕だけじゃなくて、みんな盛り上がってたじゃないですか! 飲み会といえば一気飲みですよ! そうですよね?」


 岩見が一息にまくし立て、周囲を見渡した。しかし――


「…いや、俺はてっきり豊島さんが酒好きなのかなと思って」

「わ、私は、豊島さんがアルコール苦手って知らなかったし…」

「嫌がってるって知ってたら俺は別に……」


 つい先ほどまで一体感を共有していたはずの面々から次々に梯子を外される格好となり、岩見の顔はみるみるうちに青ざめていった。もはや自分に味方する者がいないことを悟ったのか、視線は泳ぎ、麻由香から見ても気の毒なほど狼狽え始めている。


「だって…僕は…飲み会っていったら一気飲みで……サークルでだって……」

 がっくりと項垂れた岩見がぼそぼそ呟く。


 もはや岩見を直視する者は誰もいない。

 みな、本心では岩見を糾弾したくないのだろう。実質、飲み会での一気飲みなんて珍しくもなんともないのだ。

 座敷内の温度が急激に下がっていくような、白けた雰囲気が充満しかけたところで、秀一が口を開いた。


「まぁ、しかしだ。盛り上げてくれようとしたのはわかる。俺ももう少し早く止めるべきだった。すまない」


「い、いえ、僕の方こそ、その…すみませんでした」


 岩見は秀一に向かって深々と頭を下げた。本当に謝るべき相手は麻由香のはずだが、そうしたくなる気持ちもわからなくはない。


 岩見は世間知に長け、そして社会の慣習や暗黙のルールに敏感すぎたのかもしれない。仮に、麻由香と二人きりで飲んだとして、岩見が一気飲みを強要するだろうか。秀一に諭された際の岩見の反応がそこそこ冷静だったことを思えば、実はそれほど酔っていなかったのではないか。


 今回は、”たまたま“岩見が口火を切った。この岩見の役割を、他の誰かが担っていたとしても不思議ではない。飲み会とはそういう席だ。

「酒」に対する認識が変わらない以上、誰もが「岩見化」してしまう可能性は充分ありえるのだ。


「岩見、こっちの席戻ってこいよ!」


 仕切り直そうと端の方で4年生の男子学生が手招いている。岩見は「はい!」と言いつつ、麻由香の方を振り返り、小さく会釈をした。やはり悪い人ではないのだ。麻由香も軽く会釈を返す。


 ――っといけない、早くお礼を!

「あの……ありがとうございました!」


 麻由香は身体ごと秀一の方に向き直り、きっちり正座をして礼を述べた。


「いや、いい。それよりウーロン茶、頼もうか?」


 照れくさいのか、秀一は早々と店員を呼びウーロン茶を注文している。「フライドポテトと唐揚げもお願いします」とこっそり付け加えているのを聞いて、麻由香は口元が緩んだ。


 それにしてもどこかで見た顔だ。麻由香は隣の席でビールを飲む秀一の顔を横目で確認しながら、懸命に頭を捻り、記憶を洗い出す。ああ! 居た居た! この人!


「思い出した!『微分幾何学演習』でTAされてましたよね?!」


 ものすごい発見をした! という風情の麻由香を前に、秀一は「今気づいたのか?」と苦笑いしている。


 TAの正式名称はティーチング・アシスタント。しかし、これだと長いので、教職員も学生も皆そのままアルファベット読みで「ティーエー」と呼んでいる。


 TAとは、大学院生が担当教員の教育的指導および配慮のもと、学部生に対し授業中に教育補助業務を担当するという制度だ。TAが担当する業務は多岐に亘り、大学によっては試験監督業務なども含まれている。


 TAが教育補助業務を行うことにより、大学側はよりきめ細かい教育の提供が可能になり、一方でTAは教育指導者としてのトレーニングの機会を得られることになる。


 さらに、このTA制度には学生への経済支援も視野に入っているため、TA業務はボランティアではなく、きちんと報酬が支払われるシステムになっているのだ。

 

 したがって――もちろん担当業務の質と量によるのだが――、大学院生にとっては大学から離れずしてアルバイトができるという有難い制度というわけである。


 麻由香が3年の春に履修した『微分幾何学演習』では2名のTA ――その内の一人が秀一である――が問題用紙を配ったり、学生の質問に答えたり、時には居眠りする学生にそっと声をかけたりして授業担当教員の補佐を務めていた。


 わからないことをそのままにしておけない性質たちの麻由香は、演習中も臆することなくTAに質問をしていた。


 目つきがするどく、表情の変化も乏しく、不機嫌そうに見える秀一に学生はあまり質問したがらなかったのだが、麻由香にとっては不機嫌だろうが何だろうが、ちゃんと教えてもらえればそれで良く、手の空いている秀一に質問する機会が多かった。


 いざ質問してみると秀一はそれは丁寧にわかりやすく解説してくれる。この人が先生をやった方がいいんじゃないかと思えるくらいに。


 演習が難しいと嘆いている友人にも「あの人わかりやすく教えてくれていいよ」と宣伝してみたこともあったが、「それは麻由香だからわかりやすいんじゃないのー」「何考えてるかわかんないし、なんかあの人こわいよ〜」と適当にあしらわれてしまい、なんとなく少しだけムッとしたことまで思い出された。


 今、目の前にいる秀一はたしかに何を考えているのかはわからないが、少なくともこのなかの誰よりも冷静で、自分をもっていて、しかも思い遣りだってある、とても好ましい人だと麻由香は思う。もっとも、さっき知ったばかりなのだが。


「俺は豊島さんってすぐわかったけど」

「えっ…それってどういう……」


 まさかまさか。遠回しに告白されてる? さっき助けてくれたのも私に気があったから?!

 麻由香の脳内に小田和正の声で『ラブ・ストーリーは突然に』が再生される。

 どうしよう、私、研究室で誰かと付き合う気なんてそんな面倒なこと、したくないのに!


「豊島さん、いつも一番前の席に座って、すごい勢いで問題解いてたから。前傾姿勢の上に、鬼気迫る表情でさ」

「ああ…そういう……」


 一瞬でも期待した自分が恥ずかしい――。

 秀一は思い出し笑いを噛み殺すように、麻由香から顔を少し背けている。

 麻由香は小さく咳払いし、気を取り直すように秀一の研究内容について質問した。


 自分の研究内容について尋ねられたことが余程嬉しかったのか、秀一は相好を崩し、紙とペンを取り出して熱心に語り始めた。


(じょ、饒舌……!)


 秀一の話す研究内容は3年生の麻由香には甚だ難解であったが、よくよく聴いていると自身の関心にも通ずるテーマであることがわかってきて、気がつけば麻由香は身を乗り出さん勢いで秀一の話に集中していた。


 そんな麻由香の様子に、秀一も気を良くしたのか、会話は途切れることもなく飲み会がお開きになるまで盛り上がり続けた。


 ただし、第三者から見れば、仲睦まじい男女が会話を楽しんでいる、というよりも、生徒が先生に教えを受け、時に触発されて激論が繰り広げられるという、プチ研究会のような様相を呈していたので、誰も麻由香と秀一が「いい雰囲気になっている」とは気づかなかった。



***



 ――あの飲み会からなんかとんとん拍子に付き合うことになったんだよなぁ。

 どちらから言うでもなく、気がつけば二人は恋人関係になっていた。

 なるべくしてなった、ように麻由香は思っている。秀一がどう思っているかは知らない。


 計算に区切りがついたのか、秀一が眼鏡を外して「ふぅー」と一息ついた。

 麻由香は待ってましたとばかり秀一の方に向き合い、秀一も「待たせてすまない」と麻由香の方に身体を向けた。


 普段見慣れたはずの顔なのに、いざ向き合うと緊張する。

 麻由香はごくっと唾を飲み込み、一応の確認からスタートした。


「かんぬしって、神社の……ですか?」

「そうだよ」

「えっと……山に籠って修行とかするんですか?」

「……何と勘違いしているかは知らんが、神職資格はもう取得してあるから問題ないな」


(あ、さすが……)


 思わず感心してしまった。それにしたってまだ理解が追いつかない。麻由香は質問を続ける。


「そうなんですね。どこの神社の神主さんになるんですか?」

「実家」

「えっ?! 先輩の実家って神社だったんですか?! 言ってくださいよ!」

「いや、聞かれなかったし……。俺も進学するつもりだったしな」


 そう言って、秀一はわずかに目線を下げ、「才能がなかったんだよ」と呟いた。

 悲観も嘆きもない、他人を評するような冷たい声だった。


 麻由香らが所属する「黒木研究室」とは、他と比べても院生の所属人数が多く、その上優秀な学生が集まっているとの誉れも高い。そのなかにあって「エース」と呼ばれる秀一は実質、数理科学専攻でもっとも優れた学生であり、実際、修士にして既に投稿論文も執筆し、査読付き国際誌への掲載にこぎつけている。


 学内の評判にとどまらず、投稿論文の掲載というたしかな実績も有する秀一は、周囲からすれば当然のように研究者の道に進むのだとみなされているし、麻由香にしたってそのように考えていた。

 それなのに、である。


「才能がない」と意気消沈する彼を前に、「そんなことありませんよ!先輩ならできます!」と抗議したい気持ちがむくむくと芽生えてくる。たぶん、「後輩」としてだったら簡単に言えたかもしれない。


 だが、今更言うまでもなく、麻由香は秀一の「恋人」でもある。先輩と後輩という間柄を超えて、それなりに秀一の人となりは理解しているつもりだ。秀一は慰めや激励を期待して何かを言うタイプではない。彼の発言はいつだって熟慮を重ねた決定事項であり、結論なのだ。


 やはり私では相談相手にならなかったのだろうか――麻由香は秀一の「才能がなかったんだよ」という言葉を反芻し、なお彼の本心を推し量ることができない自分を恥じた。


「あと、」

 恋人の感傷を知ってか知らずか、すでに次の話題に移りたいらしい秀一が飄々と切り出す。

「な、なんでしょうか?!」


 まだ何かあるのか。麻由香のほうに心当たりはない。

 先ほどの続きから察するに、神主になるってことは、実家に帰るってことで、それってつまり私と別れようとしてるとか?! いざ言おうとしたら言い出しにくくなって、計算の時間を差し挟んだってこと?!

 ちょっと待って、私、別れたくなんか……! 麻由香は焦った。



「結婚しよう」


 落ち着いた声に反して、秀一の顔は少し赤かった。サマージャケットの懐から小さなベルベットのリングケースを取り出し、そのまま麻由香に向けて開いてみせた。


「ダイヤじゃなく……麻由香の、誕生石にしている。誕生日プレゼントも渡せていなかったしな。すまない。これは婚約指輪ということで。結婚指輪はまた…改めて」

「え、ええええー!」

 麻由香の叫び声にも構わず、秀一は麻由香の左手薬指にリングを嵌めて「よし」と満足そうに頷いている。



 ――いつも幾何学の話ばかりしているくせに。

 こんなのずるいじゃあないか。

 なんでサイズぴったりなの?

 言いたいこと、聞きたいことがたくさんあるのに、肝心の言葉が出てこない。

 ここが研究室で良かったと思う。麻由香はぎりぎり、涙をこらえることができている。


(了)


――――――――――――

ここまでご覧くださりありがとうございました!

何を隠そうこの二人、カンナギの両親でございます^^

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