幕間 side K

 社会学はカンナギにとって「勉強」するものではなく、心を満足させる「趣味」や「遊び」のような位置付けにある。


 書店に行けばきまって社会学のコーナーで新刊のチェックをする。それが既知と思しき内容であったり、既存のテーマを扱ったものであろうと必ず目を通す。

 自分の「知っている」範囲など高が知れていることをカンナギは心得ている。著者の関心や論点の数だけ「社会学」は存在するのだ。どのような切り口で書かれているのか、どういった言葉で解説がなされているのかに注目することで、著者の発想や着眼点を楽しむことができる。


 いっぽう、初めて見る著者の本であったり、新規のテーマが扱われている場合も必ず手に取る。とにかく「社会学」に関連する書籍は見逃したくないのである。

 そして、少しでも気になったものは入手するようにしてきた。そのほとんどが「専門書」に分類されるため、小説やコミックスに比べるとやはり高額になる。でも欲しい。結果、お菓子やゲームソフトだったりを我慢することも少なくなかった。そうして手に入れた本は、すべて好ましいものに違いなかったが、とくに自分好みの――ワクワク度、わかりやすさ、着眼や発想の鋭さといった基準から判断される――書籍は「お気に入り」と題した書架に収めている。


 もちろん、入手した本のすべてがすぐに理解できる内容ではなかった。正直何を言っているのかよくわからないものだってあった。しかし、難しいから、わからないから嫌になるということはなく、これがわかるようになったらどんな発想ができるようになるのか、何が見えるようになるのか、どんなことに気づけるようになるのかという楽しみの方がまさった。


 まだ理解が及ばない本たちを「ちょっと何言ってるかわからない」と分類するのは少しだけ――著者への敬意を欠いている気がして――気が引けたので、「再挑戦」と題した書架に収めている。


 面白くて、楽しくて、不思議と飽きない。それどころか、もっと知りたい。気がつけば、カンナギは社会学の学術雑誌にも手を出すようになっていた。とはいっても、さすがに学術雑誌まで入手する懐の余裕はなかったので、大型図書館に出向き、最新号からバックナンバーまで読み漁り、どうしてもという内容の冊子だけ購入するか、著作権の範囲内でコピーをとるという手段をとって掲載論文を楽しんだ。


 あるときは「この問題に対してこんなアプローチがあるのか」と感心し、またあるときは論文なのにまるで読み物のように読めてしまう書きぶりに感動し、とある著者の関心に共感を覚え、また別の論文に対していやそれは違うんじゃないかとひとりツッコミを入れてみたり、「こういう目の付け所があったのか! この人、どういう人なんだろう」と著者の方に興味が湧いたりして、カンナギの「好き」はますます広がり、深まっていった。


 どうしてカンナギがここまで社会学に傾倒するようになったのか。

 それは、カンナギが物心ついた頃から感じ、抱き続けてきた人間関係や世の中における不合理、不条理、違和感を言葉にする術だったり、向き合い方だったり、処し方だったりを示してくれたからだ。


 先入観や思い込み、偏見といった類に忌避感をもち、それらに囚われることを良しとしないカンナギにとって社会学の考え方はまさにお誂え向きであった。

 社会学は、見えないもの、見えにくくなっているものを見る「眼」を授けてくれる。

「見る」対象は、自分自身をも含めた「人」、「環境」、「現象」、「意識」、「価値観」など、有形無形を問わず、この「社会」に存在するものならなんでも射程に入る。


 こういうものだと勝手に決めつけず、物事の「前提」となっている事柄を疑い、「みんな」の声――偏見をできるだけ排して、「見る」。角度を変え、立場を変え、対象を「見る」。すると、視野が広がって自分を取り巻く世界の見え方が変わる。見る眼を養えば、発見や気づきが得られる。


 思い込みに囚われないから思考は自由かつ柔軟になり、考え方には幅が出る。ひらめきが訪れやすくなる。選択肢が増える。


 社会学はカンナギがカンナギらしく生きることを助けてくれた。言い換えれば、カンナギは図らずも社会学を通して自分の心を守る術を手に入れていたということである。


 ――こんなに面白くて、おまけに生きていく上で役立つ知性まで授けてくれるんだから、小学校で教えてくれたらよかったのに。

 そう思う程度には、カンナギは社会学を高く評価している。――が、他方では社会学はけして万能ではないという評価も下していた。

 盲信は見る眼を曇らせる。盲信ほど、社会学に似合わないものはない。




 

 蓮が何かを知りたがっている――「答え」を探し求めているらしいことは最初からなんとなくわかっていた。他にもっと適した相手がいるだろうに、自分のような人間に声をかけてくるのはよほどの事情があって、なりふり構っていられないのかしらと邪推したりもした。


 それがいざ蓋を開けてみれば、周囲からずっと邪険に扱われてきたカンナギのことを蓮はいっさい否定せず、それどころか好ましく受け止め、自分ともっと話をしたい、社会学の話をもっと聞きたいという。


 家族ではない誰かから肯定される喜び。こんなにも嬉しくなるだなんて、カンナギ自身も驚いた。同時に、自分の好きなものの良さや魅力が伝わるかも知れないと思うと胸が高鳴った。


 蓮に社会学を役立ててもらいたかった。うまくできていたかはわからないが、自分が知ってることは惜しまず伝えてきたつもりだった。


(侑の心のままに生きなさい)


 亡き祖父の言葉が蘇る。

 恩着せがましいことは言いたくない。何より柄にもないから口にする気はさらさらないけれど


(もし、君が悩んで苦しんでいるなら、こんな僕でもよければ――僕は力になりたい)


 密かにそう決意して、社会学カフェに臨んでいた。

 そして――思ったよりも早く、そのときは訪れた。



「本当の自分」とは何かという蓮の問い。

「助けて」という言葉こそ使ってはいないが、あれは今の蓮ができる精一杯のSOSだと思われた。蓮は自己欺瞞を続けることに限界を感じている。おそらく心にかなり強いストレスが――それも長期間にわたり――かかっているはずだ。


 社会学における自己論で蓮の問いに応答する傍ら、カンナギは記憶を総動員してこれまでの蓮とのやり取りを振り返りつつ、今現在の蓮の反応――まなざし、表情、声、言葉の温度など、拾える情報はすべて掬い上げ、考えを巡らせていた。


 人間が装うのは望ましい自己だけではない。

 他者の期待に応えるため、特定の個人やコミュニティに受け入れてもらうため、あるいは認めてもらうため、そういった切実な事情により望まぬ自己を装うことがある。自身が変わり者であるということを自覚しているカンナギにも覚えがあった。


 望まぬ自己を装えば少なからず心に負荷がかかる。しかし、「装う」という行為は所詮一時的なものに過ぎない。望まぬ自己を「装う」――これまでカンナギが捉えてきた蓮の状態を思えば、どうにも噛み合わない。カンナギはもう一度、頭を整理して蓮という人物を描き出していく。


 ――時折見せる虚脱感。

 ――恵まれた資質と他者評価にそぐわぬ自己否定。

 ――瞳を偽装するカラーコンタクト。

 ――小賢しい演技には長けているという自己評価。

 ――…………蓮の自己概念と体験の間にある大きなズレ、深刻な心的負担。


 推測が、確信に変わる。

 蓮は――志之元蓮は、望まぬ自己を


 望まぬ自己を生きれば、負荷がかかるどころでは済まされない。深刻さの度合いが違う。緩やかな自殺、といってもいいかもしれない。


「そうか……本当の自分っていうのは、実体として存在しているわけじゃなくて、あくまで自分が〝ある〟と想定している自己にすぎないんだね」


 穏やかな表情で蓮が言った。しかし、その声にかすかな落胆が滲んでいることをカンナギは聞き逃さなかった。理解はしている。だが心に響いていない。つまり、蓮が希求している答えではなかったのだ。


 社会学はなんでも解決してくれる魔法ではない。しかし、カンナギには「社会学」によって鍛えられた「柔軟性」がある。「複眼的な視座」がある。応用はできるはずだ。理論を語って聞かせるだけが社会学じゃない。考えろ。ここで諦めて放棄するなら最初から社会学カフェなんて話に乗っていない。


(演技をしていない素の自分っていうのかな、生まれた時からある、本当の自分――みたいな)


 不意に蓮の言葉が思い浮かぶ。社会学で取り上げている「本当の自分」と、蓮が伝えたい「本当の自分」の間にあるズレ――ヒントはここにある。頭の中に収められた辞書、書籍、レジュメを手当たり次第ひっくり返し最速で検索する。


 ――これだ!


 見つけた。おそらく、蓮が意図する「本当の自分」は、心理学でいうところの「気質」に近いのではないか。社会的につくられる自己――環境の影響を受けるとされる「性格」や「人柄」でもなく、人間の個人差を指す……先天的で生得的とされる「気質」を「本当の自分」と表現しているとしたら――


 もう少し、何か伝えることができるかもしれない。かといって伝える価値がある内容かどうかと問われれば自信はない。しかし、蓮に話を切り上げさせたくはなかった。力になると決めたのだ。


「――とまぁ、社会学的な見解はここまでにするとして」


 無意識に腕時計の上に右手を置いた。祖父なら蓮になんと言葉をかけるだろうか。


 ――大丈夫。その人のために伝えたいって思うことを、素直に伝えるだけでいいんだよ。


 そうだ。僕はおじいちゃんじゃない。背伸びをしたって仕方がない。

 きっと蓮が話を聞きたい相手は「いつものカンナギ」だ。


「――ここから先は、僕個人の考えを言うとしよう」


 蓮から漂っていた切迫感が和らいだ。

「ぜひ、聞きたいな」

 ポジティブな感情が声に出ている。自らの気概が伝わったのかもしれないと思い、少し嬉しくなった。


 根拠や論理は大事だが、今のこの場における優先順位はそれほど高くない。自分の率直な思いをより色濃くのせて、カンナギは話し始めた。


「蓮が言いたかった『本当の自分』っていうのはさ、いわゆる環境に左右される以前の――生まれつきの個人差や先天的な性質を指していたんだよな」


 蓮がうんうんと勢いよく首を縦に振った。


「そういう先天的にもっている行動や反応の個人差のことを『気質』って言うんだ。だから、今から言う『本当の自分』は、『気質』をベースにした意味で使うことにするな」

「わかった」


「で、違ったら訂正して欲しいんだけど……蓮は、本当の自分は褒められるようなものじゃない、と考えているわけだ」


 蓮は気まずそうに頷く。


「で、演技に長けていくうちに、本当の自分を見失いそうになっている?」


 小さく頷く蓮。


「じゃあ、今度は蓮の言える範囲で――もちろん、言いたくなかったら言わなくていいんだけど、蓮が思う本当の自分って、どんなのだ?」


「えっと……利己的で、ずるくて……そう、八方美人だ。それに……臆病で……」


 やはり自己否定が強い。質問を変える。


「ありがとう。じゃあさ、自分の長所って何だと思う?」

「僕の……長所?」


 そう言ったきり、蓮は――カンナギの予想通り――閉口してしまった。

 自分に長所がないと。自己イメージに歪みが生じている上、その歪んだ自己イメージに自らを縛りつけている。自分で自分に呪いをかけているようなものだ。


「なんだ、一つもないってことはないだろ。僕は蓮の長所をたくさん言えるぞ。

 まず頭脳明晰で物事の理解が早い。勤勉。スポーツもできる。つまり身体能力にも秀でているんだな。僕は球技が苦手だから羨ましい。そうそう、蓮、歌も上手いよなあ。僕は上手いかどうかは別として、実は歌うことは好きだから今度カラオケにでも行ってみないか? あ、僕は結構調子乗りなところがあるけど、蓮は慎み深いよな。あと、相手のことをよく見ている。変人と名高い僕に目をつけて褒めてくれるくらいだから、相当な観察力だと思うぞ。それと、思いやりがある。僕のために、わざわざ食堂でお昼食べてくれただろ? たくさんの人に好かれるっていうのも長所というかもはや天賦の才能で……」 


「ちょ……わ、わかった! もういいから!」


 淀みなくすらすらと言い立てるカンナギを、顔を赤らめた蓮が制止する。が、カンナギは構わず続けた。


「臆病っていうけど、それは慎重さゆえだろう。あ、お化け屋敷が怖い系の臆病さだったら言ってくれ。僕も得意ではないが一緒に入るよう善処しよう。慣れたら臆病さもひっこむはずだ。

 で、利己的? ずるい? そんなの人間多かれ少なかれ誰しもそういう一面くらいあるさ。八方美人は……そうだな、僕の見立てだと、そうならざるを得なかった、んじゃないか? 君は誠実だ。誰のせいにするでもなく、自分ひとりのせいにして、誠実に悩んでる」


「――!」


 蓮の目が大きく見開かれた。

 蓮が自身の気質として挙げたものは、本来的に望まない演技をしている自分に対して向けられたものだ。しかし、望まない自己を生き、心を無視して自己欺瞞を続けるうちに、自己イメージは歪み、書き換えられ、自己嫌悪だけが募っていく。


「僕から言わせれば――弱音を吐かず、これまで頑張り抜いてきた君こそが、本当の蓮だと思う。そりゃあ僕は蓮の人生すべてを見てきたわけではないけど、蓮が葛藤し続けて、それでも頑張ってきたことだけはわかる。

 気質はもちろん、今まで必死で頑張ってきた自分も含めて、全部本当の蓮だよ」


 上手く言えている気がまるでしない。でも伝えたいことはまだまだ控えている。いちいち気にしている暇はない。次の質問に移る。


「蓮のさ、好きなものって何?」

「え……好きな、もの?」

 蓮が鼻をすすりながら、さしぐむ涙を人差し指で拭う。

「好きな、もの……待って、ある、はずなんだけど……あれ、すぐに出てこないな……」


 明らかに困惑した様子で蓮が言う。

 本当の自分を見失いそうになっているというのは、自分をかたちづくる大切な感情を見失っているのだ。端的に言えば、何が好きで、何が嫌いなのかがわからなくなっている。


 望まぬ自己を生きるということは心を殺すことに等しい。本来あるはずの感情を押さえつけ、排除し続けてきたはずだ。


「じゃあ、嫌いなものは?」

「…………陰口や悪口を言う人、弱いものいじめをする人、でも、一番嫌いなのは、そう思っているくせに何も言わない自分だ……」


 答えが返ってきてホッとする。


「いいんだよ、それで」

「え?」

 意外そうな顔で、蓮がカンナギを見つめる。


「そういう感情があって当然なんだ。

 好きとか嫌いとかって、自分にとってすごく大切な感情なんだよ。嫌いなら嫌いでいいんだ。そういう感情を抱いてもいいって認めるんだよ。好き嫌いがちゃんとあるからこそ、自分がより良く生きる判断がしやすくなるんだ」

「蓮はさ、今、好きなものがすぐに出てこなかっただろ? きっと、今まで自分の感情を抑えたり、排除した時間が長かったんだよ。、どんなふうに感じているのかを大事にして欲しいんだ」


「僕が……本当の僕が、どんなふうに感じているか……」 

 何かを確かめるように、蓮がゆっくりと言った。


「うん。自分が感じたことを、大切にしてほしい。ただ、そうは言っても、自分の感じたこと――感情をいつも外に出すのが難しい場面もたくさんあると思う。そんなときは、そう感じる自分がいるってことを、ただ認めるだけでもいいんだよ。楽しいときは楽しい。嬉しいときは嬉しい。つらいときはつらい。悲しいときは悲しい。腹立たしいときは腹立たしい。どんな感情も認めていけば、ああ、自分はこういうのが好きなんだな、嫌なんだなってわかってくるよ」


 そうだ、とカンナギは付け加える。


「ちなみに、〝陰口や悪口を言ったり、弱いものいじめする人に不満があるのに、そのことを言えない自分〟が嫌い、だなんて、いかにも誠実で心優しい蓮らしいなって僕は思う」


「カンナギは僕のこと、高く評価しすぎだよ……」

 困惑しつつも、その声には隠しきれない安堵や喜びが滲んでいた。


「逆に蓮は自分のことを低く評価しすぎだ。適正な評価をここに強く求めます!」


 ビシッと挙手を決めて言い切るカンナギに、蓮は相好を崩した。

 よかった。名答にはほど遠かったかもしれないが、蓮の心には少なからず届いたらしい。


「――そうだ! そういえば、久野さん、全然戻ってこないけど……どうしたのかな?」

 余裕が出てきたのか、蓮が思い出したように口にした。


「言われてみれば……久野さんがお手洗いに行ってもう十分は過ぎてるな――ん?」


 甘く芳しい香りが漂う。どうして気がつかなかったんだろう。

 香りはどんどん近づいて――


「じゃーん! お待たせしました! おじいちゃん特製スイーツをお持ちしました!」



―――――――――――――― 

主要参考文献

 小塩真司『性格とは何か』2020,中公新書.

 サトウタツヤ・渡邊芳之(著)『心理学・入門 改訂版――心理学はこんなに面白い』2019,有斐閣アルマ.

 無藤隆・森敏昭・遠藤由美・玉瀬耕治(著)『心理学 新版』2018,有斐閣.

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