第15話 印象操作のいろいろ キーワード:地位、役割
「……そんなことがあったんだ。久野さんは優しいんだね。その彼女も見られたのが久野さんでよかったかも」
「いやいや、優しいなんて、もう全然! そんなんじゃないよ! 気まずくなるのが嫌だっただけだし……。ねぇ、この話ってやっぱり印象操作ってことで間違いないの?」
褒められ慣れていない愛は、蓮からの賛辞を受け取りきれずにカンナギへとボールを投げた。
ふむ――カンナギは突然のパスにも動じず、顎に手を当てながら深く頷き、そして次に話すべきポイントをすばやく洗い出していく。
演技が行われる関心、目的は大きく分けて二つ。一つは、自己利益のため。わかりやすい例を挙げるなら、受験や就職における面接の場面だ。人びとは合格するため、自分の印象をより良く、あるいは有能であることをアピールすべく、服装や言葉遣いなどに気を遣い「演技」をする。
そしてもうひとつは利他的な関心による演技だ。利他的な関心に基づく演技については後で触れるとして――
まず、「私ってゲームばかりしてるから」が口癖の彼女――Aさんとしておこう――は、自己利益を得るための『演技』をしていた。この場合の自己利益とは、塾にいる同級生たちからの賞賛や評価を得ようとするためと考えるのが妥当だろう。
ところが、Aさんは愛に〝舞台裏〟を見られてしまい、Aさんにとっての舞台、すなわち塾で演出していた自己イメージは損われてしまった。『演技』は破綻したのだ。しかし、演技に失敗はつきもの。パフォーマーが失敗を取り繕うなどの防衛的な措置をとってみたり、あるいはオーディエンスが気づかないふりやフォローを入れるなどの保護的な措置を講じることもできる。
つまり、自己イメージ、そして『役割』とは、パフォーマー一人によって維持されているのではなく、実はオーディエンスとの共同作業によって互いに維持されている。ここは大きなポイントだ。
あれとこれとそれと……ああ、あの話もできるな。うう、ワクワクする。二人にもこの面白さが伝わっていたらいいのだが。カンナギはそう切に願いながら、切り出した。
「うん。印象操作で間違いないね。その彼女……Aさんとしようか、Aさんは〝努力をしていなくても勉強ができる優秀な人間〟であることを伝えるために、ことさらに〝ゲームばかりしている〟と言ったり、オシャレにも力を入れていた。まぁオシャレについては本人の気分を上げるためとか、他の可能性もなくはないけど、久野さんの話から判断するに、彼女が他者に伝えたい〝望ましい自己〟の維持のためのオシャレ……印象操作の一部と考えていいと思うよ」
「印象操作にもいろいろなやり方があるんだね」
「ああ。たとえば、それとなく有名人と知り合いであることをちらつかせて〝自分はすごいんだぞ〟とアピールすることとか」
愛がうんざりしたような声で「ああ、いるいる……」とつぶやいた。
「逆に、自分を低く見せるケースもあるよな。嫉妬されないように、あるいは相手の顔を潰さないように自分の有能さを隠すとか。そうそう、ゴフマンはこんな事例を挙げているんだけど……
アメリカの女子大生は、デートの相手になりそうな男子学生の前にいるとき、自分の知性や技能を低めに見せていること。そして、彼女らが自分たちより能力の劣る男友だちに数学の能力を隠し、ピンポンをしても終わる寸前に負けてしまうってね。もちろん、ゴフマンが生きていた当時の事例だから、今のアメリカの女子大生がそうだっていう話ではないけど」
――いるいる! 現代にもいるわよ!
思い当たる人物が次々と頭の中に浮かんだ愛は心の中で叫んだ。
好きな男子の前であえて運動が苦手なふりをしていた子や、わざとわからないふりをして勉強を教えてもらう子がいた。あざといなぁ、そんなのすぐにバレるのにと思っていたけど、男子も案外まんざらでもない様子だったような……もしかすると、彼らもお見通しで、〝頼もしい自分〟を演じていたかもしれないなと愛は思った。
「おっといけない、印象操作の例が偏ってしまったな」
「偏ったっていうと?」即座に蓮が反応する。
「Aさんのパターンも含めて、さっき僕があげた例も、個人が抱く望ましい自己イメージに関する印象操作の話に集中してしまったんだけど、社会的に期待されている『役割』を演じるときにだって、印象操作を行なっているんだよ」
「期待されている役割って、なんのこと?」
今度は愛が反応する。良い流れを感じながら、カンナギは答えた。
「挙げるとキリがないけど、学生とか、先生とか、医者とか、親とか、お客さんとかだな。社会学的に説明するなら、社会や集団のある地位を占める個人が他者から期待される振る舞いのパターンをいうんだ」
「え、ちょっと待ってちょっと待って。ああもう二回言っちゃったじゃない。どういうこと?」
やや混乱気味の愛。蓮は必死にカンナギの言葉を書き留めている。
「大丈夫。順を追って説明するから。まず、『地位』っていうのは、人がさまざまな社会集団の中で占めるポジションのことをいうんだ。たとえば、家族という集団の中で、蓮なら『長男』。久野さんは……」
「あ、長女よ」
「うん、それが『地位』だ」
メモをとっていた蓮の手がピタッと止まる。
「なるほど……地位っていうと、権力や権威のある人を指しているようなイメージがあるんだけど、そうじゃないんだね」
「ああ。会社の社長とか、大学の名誉教授も、『地位』に違いないんだけど、社会学的な概念としての『地位』はあくまで社会集団の中でのポジションを示すものなんだ。だから、『人気者』や『ムードメーカー』みたいなものも、地位に該当するな。で、その『地位』には社会や集団から期待されている振る舞いや相応しい行為があるんだよ。それが『役割』ってわけ」
「へぇ……なんか思ってたより深いっていうか、そういう意味だったんだ」
愛が目を丸くして感想をこぼす。
「そうそう。それで、役割演技の話に戻るんだけど、たとえば学校――授業の場面を想像してみて。ドラマトゥルギーの視点から見ると、先生は『先生』の役割を、生徒は『生徒』の役割を演じることで、授業や学校という場を成り立たせているんだ。先生は、先生らしい服装、口調、振る舞いを……印象操作をしているし、先生という役割を期待されているから、授業中に突然コントをすることはないだろ? 生徒は生徒で、生徒らしく席に座って、先生の話を聞いてノートを取ったりするわけだ。
他にも、新入社員が自分ができるやつであることを呈示するため印象操作をしたり、病院なんかではこれまで担当した手術の実績が掲示されてたりするけど、そういうのも印象操作の一種で、腕の良さだったり、信頼できるお医者さんであることを呈示しているんだな」
「……たしかに、学校の先生が授業中いきなりコントし始めたら、めちゃくちゃだよね」
そう言って、蓮は口元を手で押さえ肩を震わせた。
「うん。ここで重要なポイントはそれぞれに期待されている役割演技をこなしたり、さまざまな演出の工夫を通して、秩序ある社会生活が維持されているってことなんだよ。これは社会学にとってすごく大事な視点だから、後でもう一回詳しくやるから。ところで蓮、どういうコントを想像したんだ? 一人コントでいえばやはりあの芸人の……」
「ちょ、ちょっとやめてよカンナギ! せっかく笑いを抑えようとしてるのに……」
言いながら、もう堪えきれないといったふうに吹き出し、大きく笑った。
――え? レンレン、こんな風に笑う人だっけ?
愛は目を奪われ、学校で見る姿とのギャップに少なからず困惑する。
その違いをうまく言葉にすることはできない。学校で見せる笑顔は、それはもう魅力的で直視するのがためらわれるほど美しい。しかし、今まさに笑っている蓮は、ほんとうに楽しそうで――〝演技〟という二文字が愛の脳裏を掠める。愛は反射的にぶんぶんと首を横振りにして息を吐き出し、意識を切り替えた。
余計なことを詮索するやつは嫌われる。同時に、〝私だけがあなたをわかってあげられる〟なんて勘違いするやつも嫌われる。長年親しんできた漫画や小説の知識、そして少しのほろ苦い実体験が役に立っている実感を得て、愛はなんとなく背筋を正した。そしてまたなんとなくグラスに手をやり、しかし結局飲むことはなく残り少ない水をしばし見つめた。
「あーもう笑った……」
蓮が仕切り直すように咳払いをし、「そうそう、ふと思ったんだけど」と切り出す。
「それぞれの『地位』に期待されている『役割』をちゃんと演じることで、その場は成立する。ということは、免許や資格がなくても、教師や医師といった役割をそれらしく演じさえすれば、周りを騙せてしまうってこともありうるよね?」
「そうそう、いわゆる経歴詐称だな。つまり、人々がその『役割』にふさわしいと考える要素……見た目、発言、振る舞いをうまく演じ、持ち物、暮らしぶり、教養なんかをちらつかせて印象操作をした結果、バレずに済んだと考えられる」
「なーんか、社会学やっていると今まで見えてた世界がまるっきり違うように見えちゃいそう」
何気なく口に出ていた。
その愛の言葉にカンナギは
「だろ?! まだまだこれだけじゃないぞ。いろんなことが見えてくるようになるし、何より、ふだん何気なく過ごしている日常が、社会学の視点を通すことでこんなふうに色々説明できるってすっごく面白いだろ?」
「そ、そうね」
――社会学バカ。たった今、愛の中でカンナギの呼び名が更新された。
とはいえ、「ぼっち」のような蔑視の色はない。無自覚のまま、愛は社会学の面白さに目覚めつつあった。
――――――――――
主要参考文献(既出のものにつきましては省略します)
友枝敏雄ほか(編)『社会学の力 最重要概念・命題集』2017,有斐閣.
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